
三月の半ばに転職した。
新しい職場は渋谷から徒歩十分ほどのオフィスビルの五階で、窓からは隣のビルの外壁しか見えなかった。まだ知らない人ばかりで、お昼も一人でコンビニに行くような日々が続いた。打ち合わせでも名前を覚えてもらえないことが続いて、少し心細かった。
私の席は窓際から三番目、もともと谷口さんという人が使っていたらしい。半年ほど前に突然来なくなって、そのまま退職したとのことだった。荷物は前日のうちに全部片付けてから帰ったと先輩から聞いた。
引き出しの中は空だと言われていた。実際、一番上の引き出しと二番目の引き出しには何もなかった。でも一番下の引き出しを開けたとき、底の隅に付箋が一枚だけ残っていた。
黄色い付箋に、黒のボールペンで丁寧な字が書いてあった。文字は小さく、でも一字一字がきっちりしていた。
「次の人へ」
その下に、五項目のリストがあった。引き継ぎメモかと思ったが、読んでいくうちに、少し様子がおかしいと感じた。
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一番目は「コピー機の右トレイは紙詰まりしやすい。必ず左を使うこと」。
二番目は「隣の部署の佐伯さんに何か頼まれても、できる限り断ること」。
三番目は「三月十五日の夜、急いで帰らないこと」。
四番目は「青いコートのボタンが取れかけているから、早めに縫い直すこと」。
五番目は「猫のことは、もう忘れて」。
最初の二項目は、まあわかる。業務上の注意と、人間関係のアドバイスだろう。引き継ぎが不十分だったから、次の人のためにメモを残していったのだと思った。谷口さんは親切な人だったのかもしれない。
でも三番目が引っかかった。三月十五日は、ちょうどその日だった。
「急いで帰らないこと」というのは、どういう意味だろう。混雑するラッシュを避けろということか。それとも別の何かを指しているのか。なんとなく気持ち悪くて、その日だけ一時間ほど残業してから帰ることにした。他に残っていた先輩に「珍しいね」と言われて、適当に誤魔化した。
後で知ったのだが、その夜、私がいつも使う路線で人身事故があり、乗客が駅のホームで一時間以上立ち往生になったらしかった。友人からも「電車止まってたよ、乗ってた?」とメッセージが来た。
偶然だと思った。偶然だと思いたかった。
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四番目のことは翌日に読み返した。
青いコートなら持っている。でも転職の前に新調したばかりで、ボタンが取れかけているなんてことはないはずだった。試しに一番下のボタンを指で軽く引っ張ってみたら、するりと外れて手の上に落ちてきた。
縫い直した。それだけのことだ。それだけのことなのに、なぜか手が少し震えた。仕事が終わってから一人でコンビニのイートインに寄って、コーヒーを飲みながら付箋のことを考えた。考えれば考えるほど、うまく説明できなかった。
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五番目が一番意味がわからなかった。
「猫のことは、もう忘れて」。
私にはペットがいない。猫を飼ったことも一度もない。だからこの項目だけは自分とは関係ないものだと判断して、そのまま放置していた。
ところがその週の終わり、実家の母から電話があった。近所の野良猫が死んだ、と。
私が小学生のころ、週に何度も縁側に来ていた白い猫だった。名前はつけていなかったけれど、毎日牛乳を置いていた。中学に上がるころから来なくなって、そのまま記憶の奥にしまい込んでいた。
電話を切ってから、しばらく泣いた。それから付箋のことを思い出して、もう少し泣いた。
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後になって、谷口さんのことを先輩に聞いてみた。谷口さんは来なくなる前日、いつもより少し早く退社したらしい。机の中は全部片付けて帰ったと言う。
「引き出しの中を私が確認したんですよ」と先輩は言った。「念のため確かめて、何も残ってなかったはずです。付箋なんてなかった」
先輩の言葉に嘘をついている様子はなかった。
じゃあ、あの付箋は誰が入れたのか。いつから引き出しにあったのか。なぜ私のことを知っていたのか。
谷口さんは、私のことを知らないはずだ。私が転職を決めたのは、谷口さんが退職してから三ヶ月も後のことだった。
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今も、その付箋は引き出しの中にある。
ときどき取り出して、五項目を読み返す。三番目と四番目と五番目は、もう当たった。
残っているのは二番目だけだ。「隣の部署の佐伯さんに何か頼まれても、できる限り断ること」。佐伯さんとはまだ一度も話したことがない。どんな人かも知らない。何を頼まれるのかも。
それから付箋の字のことが、たまに頭に浮かぶ。どこかで見たことがある気がする、と思う。鏡の前で自分の字と見比べたことが何度かある。全然違う。筆圧も、文字の傾きも、私の字ではない。
だから気のせいだ。そう決めている。
ただ、夢の中では、あの黄色い付箋に字を書いているのは、いつも私自身だ。