幹線道路の電話ボックス

電話ボックス(フリー写真)

もう十年近く前になる。

まだ街のあちこちに電話ボックスが立っていた頃の話だ。

幹線道路のバス停には、たいてい一つずつあった。

四角いガラスの箱が、等間隔に並んでいるように見えたものだ。

いまはほとんど残っていない。

残っていないほうがいいと、俺は思っている。

三連休の前の金曜だった。

大学の仲間と、したたかに飲んだ。

深夜一時前に、仕上げの屋台でラーメンを食べて解散した。

屋台の親父が、鍋の火を落としながら言った。

「今日は早じまいや」

「まだ一時ですよ」

「今日は早じまい」

それだけだった。

実際、客は俺たちだけだった。

いつもなら、終電を逃したサラリーマンが二、三人は座っている。

暖簾を下ろしながら、親父はもう一度言った。

「気ぃつけて帰りや」

「歩きですけど」

親父は手を止めた。

「歩き?」

「はい」

「……そうか」

それきり、何も言わなかった。

そのときは、単に客が少ないのだろうと思った。

店の提灯が消えると、通りは一気に暗くなった。

コンビニの看板だけが、二百メートル先で光っている。

自分の靴音が、やけにはっきり聞こえた。

俺はタクシーに乗らなかった。

酒はそれなりに残っていた。

けれど、足元がふらつくほどではない。

歩けば醒めると、本気で思っていた。

翌日に予定がないから、酔い覚ましに歩いて帰ろうと思ったのだ。

店を出たとき、空気がひんやりしていた。

三月の終わりで、昼は暖かいのに夜は冷える。

仲間の一人が「タクシー割り勘しよう」と言った。

俺は断った。

「歩くわ」

「五キロあるぞ」

「ちょうどいい」

そいつは肩をすくめて、タクシーに乗っていった。

家までは五キロほど。

幹線道路をまっすぐ行けば、迷いようがない。

その道は、両側に中古車屋とファミリーレストランが並んでいる。

深夜になると、看板の明かりだけが順に消えていく。

トラックが通るたびに、風がくる。

歩道は広いが、人はいない。

街灯は二十メートルおきに立っていた。

明るいところと暗いところを、交互に通ることになる。

携帯電話は持っていなかった。

母親に「歩いて帰る」と伝えておこうと思った。

それで、最初のバス停の電話ボックスに入った。

屋台の早じまい

入ってすぐ、何か変だと思った。

匂いだ。

香水の匂いが、かすかに残っていた。

甘い匂いではない。

石けんに近い、硬い匂いだった。

古い化粧品の棚を開けたときの匂いに似ている。

祖母の家で、一度だけ嗅いだことがある。

いまはもう売っていない種類の匂いだと、あとで人に言われた。

それから、受話器に気づいた。

フックに掛かっていない。

電話機の上に、横に寝かせて置いてある。

置き方が妙に丁寧だった。

急いで出ていった人の置き方ではない。

コードも、ねじれずにまっすぐ垂れている。

使い終わった人の置き方でもない。

使い終わったなら、フックに掛ける。

掛けなければ金は戻らないのだから。

投げ出したのではなく、そっと置いた置き方だ。

耳に当ててみた。

通話は切れていて、無機質な電子音だけが聞こえた。

酔っ払いの置き忘れだろう。

そう思って、受話器をフックに戻した。

戻した瞬間、ジャラジャラと音がした。

返却口に、十円玉が六枚。

ラッキー、と声に出した。

声が、思ったより響いた。

ガラスの箱の中は、音の反射が強い。

自分の声が、少し遅れて返ってくる。

扉の建て付けが悪く、閉めると下の隅に隙間が残った。

足元に、丸めたティッシュと、破れた電話帳の表紙が落ちている。

壁には油性ペンの落書きが三つ。

そのうち一つは、数字の羅列だった。

市外局番から始まる、十桁の数字だ。

上から線を引いて消してある。

消し方が、ずいぶん強かった。

線は何本も重ねて引いてある。

それでも数字は読めた。

読めるのに、消してある。

俺はそのときは、何も思わなかった。

あとで思い出したとき、なぜ消したのかが分からなくなった。

読ませたくないなら、塗りつぶせばいい。

二枚を使って母親に電話をかけた。

「いま歩いて帰ってる」

「こんな時間に?」

「酔い覚まし」

「気をつけなさいよ」

母は少し笑った。

「お父さんも昔、よう歩いて帰っとったわ」

「そうなん」

「途中で寝て、警察に起こされたこともある」

「起こされんようにする」

「そうしなさい」

受話器を置くとき、指先が少しべたついた。

誰かが握ったあとの感触だった。

それだけの通話だった。

通話中、受話器の奥で、かすかに別の音が混ざっていた。

雑音とも、息ともつかない音だ。

古い電話ではよくあることだと、そのときは思った。

残りの四十円をポケットに入れて、歩き出した。

出るとき、扉が閉まりきらなかった。

振り返って、もう一度きちんと閉めた。

ガラスに自分の顔が映った。

その向こうに、誰もいないことを確かめてから歩いた。

確かめる必要があると、なぜそのとき思ったのかは分からない。

返却口の十円玉

歩きながら、気になっていた。

誰が受話器を置いたままにしたのか。

なぜ金を取らずに行ったのか。

次のバス停が見えたとき、俺は足を速めていた。

やはり、受話器が電話機の上に置いてあった。

同じ置き方だった。

横に寝かせて、送話口を手前に向けている。

香水の匂いも同じだ。

最初のより、少しだけ濃い。

耳に当てると、電子音。

フックに戻すと、返却口に五枚。

返却口の縁に、指の跡がついていた。

細い指だ。

何度も同じところを触ったのだろう、そこだけ金属が光っている。

そこで俺は、電話機の上を見た。

埃が積もっている。

その埃が、受話器の形に四角く抜けていた。

輪郭がはっきりしている。

周りとの境目に、埃の縁ができていた。

そのときは、掃除が行き届いていないのだろうと思った。

三つ目の電話ボックスは、パチンコ屋の駐車場の前にあった。

看板の明かりが消えていて、あたりは暗い。

扉を開けると、匂いが先に出てきた。

受話器は、やはり上に置かれている。

耳に当てると電子音。

フックに戻すと、五枚。

四つ目は、橋の手前のバス停だった。

川が近いせいか、空気が冷たい。

ここだけ蛍光灯が切れかけていて、数秒おきに明滅した。

明るくなった一瞬だけ、電話機の上の四角い跡が見える。

消えると、何も見えない。

明滅の間隔が、だんだん短くなった気がした。

橋を渡るとき、下を見た。

水は見えず、黒い面だけがあった。

欄干に、自転車が一台停めてあった。

鍵はかかっていない。

サドルに、たたんだ上着が置いてあった。

俺はそれを見なかったことにして、歩いた。

受話器。

電子音。

ジャラジャラという音。

十円玉は、合わせて十九枚になっていた。

上着のポケットに入れていたが、そのうち手で押さえないと歩きにくくなった。

ポケットが重い。

歩くたびに、腿のあたりで鳴った。

道の反対側に、自動販売機が一台あった。

明かりがついているのに、商品の見本が一つも入っていない。

空のケースが、白く光っていた。

そこを過ぎたあたりから、音が気になり出した。

その音が、自分の足音と半拍ずれて聞こえる。

最初は気のせいだと思った。

立ち止まると、音も止まる。

一度、わざと足を速めてみた。

音も速くなった。

今度はゆっくり歩いた。

音もゆっくりになった。

ポケットの中で硬貨が鳴っているだけだと、何度も自分に言った。

歩き出すと、また鳴る。

ポケットを手で押さえて歩いてみた。

それでも、半拍遅れた音が後ろから来た。

そのうち、ずれた音のほうが大きく聞こえるようになった。

五つ目の電話ボックス

五つ目の電話ボックスが見えたとき、人影が見えた気がした。

ボックスから離れていく背中だった。

距離があって、服の色までは分からない。

歩き方は、急いでいなかった。

歩幅が狭く、上下の揺れがほとんどない。

遠くから見ると、動く棒のようだった。

その背中は、街灯の明かりの中に入っても、影を落とさなかった。

そのことに気づいたのは、ずいぶんあとになってからだ。

中に入ると、むせるような匂いがした。

息を止めたくなるほどだ。

受話器は、やはり上に置かれている。

触れると、温かかった。

人の耳に当てられていたのだと、すぐに分かる温かさだった。

それまでの四つは、どれも冷たかった。

送話口に、息の湿りが残っていた。

自分のものではない。

俺はその受話器を、耳から離すのに少し時間がかかった。

離したあと、自分の耳を手のひらで拭いた。

拭いても、温かさが残っている気がした。

返却口から、五枚。

合計二十四枚。

俺はそこで引き返すべきだった。

けれど、次のボックスまではもう百メートルもない。

街灯の下に、四角いガラスの箱が光って見えた。

歩きながら、頭の中で数えていた。

六枚、五枚、五枚、四枚、五枚。

出てくる枚数がばらばらなのに、どれも半端がない。

一円玉も、五十円玉も、百円玉も混ざっていない。

十円玉だけだ。

通話に使うのに、いちばん都合のいい硬貨だった。

近づくと、中から人が出てきた。

今度ははっきり見えた。

真っ赤なワンピースを着た女だった。

背は高くない。

髪は肩より少し長い。

ボックスの扉を、後ろ手に押さえてゆっくり閉めた。

顔がこちらを向いた。

微笑んでいるように見えた。

女は、俺と反対の方向へ歩いていった。

ワンピースの裾が、風に揺れなかった。

トラックが一台、すぐ横を通ったときもだ。

髪だけが、少し遅れて動いた。

足音がしなかった。

俺は、女の背中が街灯の輪から出るのを待った。

それから、ボックスに入った。

赤いワンピース

受話器は、電話機の上にあった。

匂いは、もう鼻の奥に貼りついている。

耳に当てた。

電子音ではなかった。

男の声が、叫ぶように聞こえた。

「なあ、お前K子だろ?」

「もう、こんなこと止めろよ」

「止めてくれよ」

「俺たち、寝られなくて参ってるんだ」

「一度、ちゃんと話しよう、な?」

声は、ひどく疲れていた。

怒鳴っているのに、途中で息が切れる。

後ろで別の男の声がした。

「もう切れよ」

「切ったら、またかかってくるんだよ」

そのあと、何かが倒れる音がした。

受話器を通して聞くには、音が近すぎた。

倒れたのは、受話器の向こうではない。

俺のいるボックスの、すぐ外だった。

俺は反射的に受話器を叩きつけた。

ジャラジャラと十円玉が落ちる。

背中に、匂いがきた。

「何故勝手に切るの?」

振り向いた。

ガラスの外ではない。

俺の肩越しに、女の顔があった。

闇の中に、白い顔だけが浮いている。

目を細めて、にこにこと笑っていた。

「ねぇ、邪魔、しないでよ」

綺麗な顔だった。

綺麗すぎて、生身の人間には見えなかった。

匂いが、口の中にまで入ってきた。

息を吸うと、喉の奥が苦い。

扉に手をかけたが、建て付けが悪くて開かない。

女は動かなかった。

ただ、俺の顔を見ていた。

俺は扉を体で押し開けて、走った。

家まで二キロを、たぶん六分台で走った。

息が続かなくなっても止まらなかった。

一度だけ振り返った。

走ってきた道が、まっすぐ後ろに伸びていた。

人影はなかった。

ただ、いちばん遠いボックスの扉が開いていた。

開いたまま、動かなかった。

幹線道路の電話ボックスが、遠くまで等間隔に光っていた。

どれも、中は空だった。

家が見えたところで、ポケットの十円玉を全部つかみ出して捨てた。

側溝の蓋の上で、二十四枚が散らばる音がした。

玄関の鍵を回す手が震えて、三度失敗した。

家に入って、靴も脱がずに座り込んだ。

母が起きてきて、俺の顔を見て黙った。

「何かあったん」

「別に」

「匂いがするよ」

母はそれだけ言って、台所へ行った。

翌朝、側溝の蓋の上に十円玉は一枚も残っていなかった。

誰かが拾ったのだろうと思うことにした。

埃の四角い跡

それから数日、香水の匂いが消えなかった。

着替えても、風呂に入っても残った。

洗濯した服からも、同じ匂いがした。

四日目の夜に、ようやく分からなくなった。

匂いは、頭の後ろのあたりでいちばん強かった。

枕に顔をつけると、自分の髪から同じ匂いがする。

シャンプーを変えてみたが、変わらなかった。

その四日間、電話が鳴るたびに体が固くなった。

家の電話は、母が取った。

勧誘と、親戚からの用件と、間違い電話が一件。

間違い電話は、無言だったそうだ。

母は「よくあること」と言った。

俺も、そう思うことにした。

連休が明けてから、俺は昼間にあの道を歩いてみた。

明るいところで見ると、ただのバス停だった。

電話ボックスのガラスは汚れ、下のほうに泥がはねている。

中に入って、電話機の上を見た。

埃が、受話器の形に四角く抜けていた。

四日前の夜と、同じ場所だ。

指でなぞると、抜けた四角の中にも、薄く埃が積もっていた。

周りの埃との差は、はっきり分かるほどある。

指先についた埃を、ズボンで拭いた。

拭いてから、もう一度電話機を見た。

受話器はフックに掛かっている。

あの夜、俺が叩きつけて戻したままだ。

それでも、四角い跡は消えていなかった。

その跡は、次のバス停にもあった。

その次にもあった。

近所のクリーニング店の人に、ついでのふりをして聞いてみた。

「あのバス停の電話、使う人おります?」

店の人は、手を止めずに答えた。

「昔はね」

「いまは」

「いまは、誰も」

それから、少しだけ声を落とした。

「夜中に鳴っとるのを聞いたことはあるけどね」

「鳴る?」

「掛かってくるんよ、たまに」

俺はそれ以上聞かなかった。

幹線道路を三キロ歩いて、六つの電話ボックスを見た。

六つとも、同じ場所に同じ四角があった。

何日か置いたくらいでは、こうはならない。

受話器の形に抜けた埃の跡は、今夜ついたものではなかった。

俺はそこでやめた。

七つ目に行くのが、どうしてもできなかった。

昼の二時だった。

車がひっきりなしに通り、工事の音もしていた。

それなのに、七つ目のガラスが光っているのを見た瞬間、足が止まった。

あの女が、あの夜だけ歩いていたのではないということだけが分かった。

バス会社の営業所にも、一度だけ電話をしてみた。

清掃はどのくらいの頻度でやるのか、と聞いた。

電話ボックスは会社の管轄ではない、と言われた。

それはそうだ。

バス停と電話ボックスは、持ち主が違う。

分かっていたのに、俺は聞いてしまった。

誰かに「あれは普通のことですよ」と言ってほしかったのだと思う。

何年、受話器を上に置いて歩いていたのか。

何枚の十円玉を、返却口に残してきたのか。

深夜の幹線道路で無言の電話をかけ続けて、誰に何を伝えようとしていたのか。

考えると、いまでも手のひらが冷たくなる。

K子という名前だけが、耳に残っている。

あの男が叫んでいた名前だ。

けれど、赤いワンピースの人がK子だったのかどうかも、分からない。

受話器の向こうの男が、誰に向かって話していたのかも分からない。

分かっているのは、置き方だけだ。

横に寝かせて、送話口を手前に向ける。

六つとも同じだった。

屋台の親父が「今日は早じまい」と言った意味も、聞かないままになった。

似たような話を、あとで別の場所でも聞いた(山奥の鏡淵で名を呼ぶ女)。

夜道で出会うものの話は、どこの土地にもあるらしい(謎の駅と老人の地図)。

それからは、飲んだあとに歩いて帰るのをやめた。

電話ボックスは、いまはもうあの道に一つもない。

撤去されたと聞いたとき、俺は少しほっとした。

そのあとで、一つだけ考えた。

受話器を置く場所がなくなったら、あの人はどこへ行ったのだろう。

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