
七階の赤い空を、見たことがある。
大学三年の秋、俺は、高速道路沿いのマンションに住んでいた。
築三十年を超えた古い建物で、六階の角部屋が、俺の部屋だった。
家賃が安かったのは、窓の外を、一晩中、トラックが走り抜けるからだ。
夜になると、天井が、低く震えた。
最初の一週間は眠れなかったが、ひと月もすると、その振動が子守唄に変わった。
同じ階の住人とは、ほとんど顔を合わせなかった。
郵便受けに溜まる、ピザのチラシだけが、この建物の生活の気配だった。
エレベーターは、一基だけ。
六階に住んでいた俺が、階段を使うことは、ほとんどなかった。
エレベーターは、古い機械の癖で、止まる直前に、必ず、ごとり、と鳴った。
半月ほど前から、階数表示が、ときどき「8」を示すことには、気づいていた。
そのときは、古い機械の不具合だろうと、深く考えなかった。
壁には、点検済みのシールが貼ってあり、日付の欄だけ、手書きで書き換えられていた。
昇りの階段が、どれほど骨の折れるものか、誰でも想像がつくだろう。
けれど、いまの俺は、どこへ行っても、階段しか使わない。
七階の赤い空を、見てしまったからだ。
あの日のことを、俺は、誰にも詳しく話していない。
八階のおばさん
講義のない平日の昼、俺は、コンビニへ昼飯を買いに出た。
ドアを閉め、廊下の突き当たりのエレベーターに向かう。
階数表示は、最上階の「8」で、止まっていた。
誰かが乗り降りしているところなのだろう。
下りのボタンを押すと、箱は、のろのろと降りてきた。
ドアが開くと、中年のおばさんが、ひとり立っていた。
ときどきエレベーターで一緒になる人で、八階の住人だと思っていた。
いつも、土と線香が混ざったような、乾いた匂いを、うっすらとさせている人だった。
挨拶をしても、会釈だけが返ってくる。
名前も、顔の細かい特徴も、不思議と思い出せない。
いつも、買い物帰りのような、大きな布の袋を提げている。
軽く会釈をして、乗り込んだ。
一階のボタンは、すでに押されていた。
パネルに、階数のボタンが並んでいる。
その中の「7」の下のランプだけが、他よりわずかに、赤みがかっていた。
気のせいだろう、と思って、目をそらした。
四階で、箱が止まった。
運送屋の兄ちゃんが、段ボール箱を抱えて、乗ってきた。
「すんません」
帽子のつばを、軽く上げる。
運送屋が抱える箱の伝票が、目に入った。
「八〇三号室 川瀬様」。
八〇三、と俺は、頭のなかでなぞった。
三人とも、目的の階は、一階だった。
扉が閉まり、箱が、がたん、と揺れた。
そのとき、エレベーターは、唐突に止まった。
三階と二階のあいだだった。
体が、一瞬、軽く浮いて、すぐに床へ押し戻された。
俺たち三人は、顔を見合わせた。
停電ではなかった。
天井の照明は、何事もなく点いている。
「どう……したんすかね」
非常ボタンのカバーの下に、ラベルが貼ってあった。
「通話先 管理室」。
その下に、誰かが、ボールペンで「八」と書き足していた。
俺が、ぼそりと言った。
おばさんも、運送屋も、首をかしげた。
運送屋が、真っ先に動いた。
彼は、内線のボタンを押して、受話器に向かって声をかけた。
「もしもし。もしもし?」
応答は、なかった。
運送屋は、ため息をついて、受話器を戻した。
「一体、どうなってんでしょう」
運送屋の疑問は、そのまま、俺の疑問でもあった。
数字にすれば、大した時間ではなかったと思う。
三分にも、満たなかっただろう。
それでも、漠然とした不安と焦りを掻き立てるには、十分な長さだった。
箱のなかに、三人分の呼吸の音だけが、重なった。
おばさんは、袋を両手で抱え直した。
「このマンション、古いからね」
おばさんが、ぽつりと言った。
「たまにあるのよ。止まったり、行き過ぎたり」
「よくあるんですか」
「そうねえ。慣れちゃうと、そうでもないわよ」
あまりにのんびりした口調が、かえって気味悪かった。
運送屋は、時計を見て、舌打ちした。
「午前指定の荷物、まだ三つ残ってんすよ」
「間に合うといいわねえ」
おばさんは、笑った。
袋のなかで、陶器のようなものが、かちり、と鳴った。
袋の口から、白い布にくるまれた、小さな箱の角が、のぞいていた。
その音が、やけに、耳に残った。
七階の赤い空へ開く扉
みんなが、そわそわしはじめた頃だった。
エレベーターが、突然、動き出した。
おばさんが、短く、声を上げた。
俺も、不意を衝かれて、肩が跳ねた。
押しているのは、一階のボタンだけのはずだった。
それなのに、箱は、下へ向かわなかった。
上へ、進んでいた。
すうっと、四階を抜け、五階、六階。
俺の部屋のある階を、通過した。
七階で、箱は、静かに止まった。
ガラッと、ドアが開いた。
俺は、訝しげに、開いたドアの向こうを見た。
全く、何なんだ。何だっていうんだ、これは。
廊下の、ドアの上には、部屋番号の札が並んでいた。
八〇一、八〇二、八〇三。
八?
俺は、パネルを振り返った。
点いているのは、「7」のランプだけだった。
七階で止まったはずなのに、目の前の廊下は、八階の番号を並べていた。
「あら、着いちゃった」
おばさんが、独り言のように、言った。
その声は、驚くほど、落ち着いていた。
「ここ、うちなのよ」
おばさんは、袋を提げて、すたすたと、降りていった。
運送屋も、段ボール箱を抱えて、続いた。
「あ、すんません。配達先、ここなんで」
確かに、そう言ったのだ。
二人は、一度も、俺を振り返らなかった。
ドアは、開いたままだった。
開いたドアから、冷たい空気が流れ込んできた。
雨に濡れた鉄と、古い畳の匂いが、混じっていた。
廊下の床は、濡れているように、鈍く光っていた。
遠くで、ぽたん、ぽたん、と水の落ちる音が、している。
俺は、降りようとして、足を止めた。
何かがおかしい。
目の前に広がる風景は、確かに、マンションの廊下の形をしていた。
だが、やけに、暗い。
電気が、ひとつも点いていない。
通路の奥が、見えるか見えないか、というくらい暗かった。
停電かと思い、背後を振り返った。
エレベーターの箱のなかだけが、場違いなほど、明るく灯っていた。
停電では、ない。
それなら、この暗さは、何なのか。
俺は、廊下の外壁の窓に、目をやった。
空が、赤かった。
朝焼けでも、夕焼けでもなかった。
太陽も、雲も、何もない空に、ぞくりとするほど鮮烈な赤が、広がっていた。
その赤は、見覚えのある赤だった。
エレベーターのパネルの、「7」のランプと、同じ色だった。
視線を、地面に落とした。
真っ暗、いや、真っ黒だった。
七階の赤い空に、雲はひとつもなかった。
ただ、赤が、均一に、塗りつぶされていた。
高速道路や、ビルの輪郭が、シルエットになって浮かんでいる。
その輪郭にも、一つとして、明かりがない。
しかも、あの嫌というほど聞こえる、トラックの走行音が、全く聞こえなかった。
無音だった。
動くものが、何ひとつ、見当たらなかった。
うまく言えないが、「生きている」匂いが、その風景から、まるでしなかった。
空だけが、赤い。
七階の赤い空は、見つめているうちに、少しずつ、近づいてくるように感じられた。
赤と黒の、世界だった。
廊下の奥を、目で追った。
おばさんが歩いていった先に、扉が一枚、半分だけ開いていた。
その隙間から、橙色の、温かそうな光が、細く漏れていた。
おばさんと運送屋は、その光のなかに、吸い込まれるように、入っていった。
扉が、音もなく、閉まった。
俺は、廊下の暗がりに向かって、声を出そうとした。
声は、喉の手前で、凍りついた。
背後で、エレベーターのドアが、閉まりかけた。
階段で降りた十五分
待て。どうする。
降りるべきか。
それとも、留まるべきか。
ほんの一瞬、迷った。
迷った自分が、いまでも、恐ろしい。
俺は、箱のなかに、踏みとどまった。
ドアが、静かに、閉まった。
箱が、がたん、と揺れて、下り始めた。
今度は、何の不審な動きもなかった。
六階、五階、四階、三階、二階、一階。
ランプが、一つずつ、ごく普通に、降りていく。
ドアが開いた。
開いたドアの向こうは、いつもの一階だった。
人が歩き、車が走る。
昼の光と、生活の音。
見慣れた、日常だった。
安堵した。
もう大丈夫だ。俺は、直感的に、そう思って、箱を降りた。
膝が、笑っていた。
気持ちが落ち着くと、あの二人のことが、気になった。
郵便受けの前に立ち、八〇一から並ぶはずの列を探した。
一階の郵便受けは、一〇一から、七〇六までだった。
八階の列は、どこにもなかった。
階段で降りてくるのかもしれない、と思った。
俺は、階段の前で、二人が降りてくるのを、待った。
管理人室は、昼休みなのか、カーテンが閉まっていた。
俺は、ガラスに映った自分の顔を、ぼんやり見つめた。
顔色が、紙のように、白かった。
待っているあいだに、エレベーターが、勝手に上がっていった。
誰もボタンを押していないのに。
階数表示は、七で止まり、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり降りてきて、誰も乗せないまま、ドアが開いた。
箱の床に、濡れた足跡が、二組、並んでいた。
足跡は、外へは、続いていなかった。
待てども、待てども、誰も降りてこなかった。
五分。十分。
十五分が過ぎても、誰も降りてこない。
階段を降りるだけで、これほど時間がかかるはずがない。
非常階段のドアを開けて、上を見上げた。
吹き抜けの高いところから、冷たい風が、ひゅう、と降りてきた。
その風に、かすかに、線香の匂いが混じっていた。
踊り場の蛍光灯が、ちかちかと瞬いていた。
誰かが降りてくる足音は、いつまで経っても、聞こえなかった。
聞こえるのは、高速道路を走る、トラックの音だけだった。
その音が、これほど優しく聞こえたことはなかった。
俺は、めちゃくちゃに、怖くなった。
コンビニに行く気力も失って、そのまま、外へ出た。
通りを歩く人や、走る車の音が、これほどありがたく感じたことはなかった。
しばらく、近くの公園のベンチに座って、頭を冷やした。
夕方になって、ようやく部屋に戻ることにした。
もちろん、階段で。
六階までの階段は、足が震えて、何度も、手すりにつかまった。
七階までしかない建物
翌日、管理人室を訪ねた。
管理人は、七十歳くらいの、穏やかな男の人だった。
「昨日、八階のおばさんと、運送屋さんと、三人でエレベーターに乗っていて」
俺は、しどろもどろで、そこまで言った。
「それが、止まって、七階で……」
「七階?」
「七階の赤い空を、見たんです」
俺が、そう言うと、管理人は、一瞬だけ、目を伏せた。
管理人は、眼鏡の奥で、目を細めた。
「あの、八階の人たち、あれから、お見かけになりましたか。ちゃんと、帰られましたか」
管理人は、手元の書類を、ゆっくり閉じた。
「八階? この建物は、七階までですよ」
管理人は、そう言ってから、少し、声を落とした。
「実はね、あのエレベーター、点検のたびに、記録が合わないんです」
「何がですか」
「乗車重量の最後の数字がね、乗っていない分だけ、毎回、重いんですよ」
管理人は、笑ってみせようとして、失敗した。
「だから、できるだけ、階段を使うようにお願いしてるんです。皆さんにはね」
俺は、言葉を失った。
「最上階は七階です。八階という階は、ありません」
「でも、いつも、エレベーターの表示が」
「表示が?」
管理人は、ゆっくりと首を横に振った。
「あの機械は、七までしか、数字を持っていないんです。八なんて、出るはずが、ない」
その夜、俺は、エレベーターの前に立った。
パネルを、端から端まで、確かめた。
ボタンは、一階から七階まで。
その下のランプは、どれも、白かった。
七の下のランプだけが、やはり、わずかに赤みを帯びていた。
俺は、ボタンの前から、後ずさった。
その後、運送会社にも、問い合わせてみた。
電話口の事務員は、最初、こちらの話を丁寧に聞いてくれた。
「八〇三号室の川瀬様、ですね。少々お待ちください」
保留音が、長く続いた。
「お客様、そのお名前の配送記録は、当社には、ございません」
声が、さっきより、少し硬くなっていた。
「建物自体、七階までのはずですが」
その時間、このマンションへの配達は、一件も、なかったという。
おばさんに至っては、名前も、部屋番号も、どこにも見当たらなかった。
二人は、どこへ行ったのだろう。
あの、橙色の光の向こうで、何をしているのだろう。
考えると、七階の廊下に、落ちていくような気がした。
その日以来、俺は、エレベーターに乗りたくても、乗れない体質になった。
友人の吉田に話すと、寝ぼけてたんだろ、と笑われた。
「でもさ、お前が毎日それ使ってたの、俺、知ってるぞ」
「ああ」
「その、八階のおばさんって、見たことあるか、他の誰かが」
俺は、答えられなかった。
挨拶を交わしたのは、いつも、エレベーターのなかだけだった。
一か月後、別のマンションに引っ越した。
今度は、五階の部屋だ。
階段で昇れない高さではない。
階段なら、地続きだからだ。
地面から、一段ずつ、つながっている。
あっちの世界へ行ってしまう心配は、ない。
けれど、エレベーターは違う。
あれは、異界への扉だ。
少なくとも、俺は、そう思っている。
引っ越しの日、荷物を運び出したあと、振り返って、あの建物を見上げた。
引っ越してからも、似た話を探して、夜中にネットを読んだ。
『有刺鉄線の向こう側にあった竹林』も、『終電後の無人駅に現れた二両の列車』も、扉の向こう側の話だった。
どの話にも、「戻らなかった人」が出てくる。
俺は、その数を数えるのを、やめた。
七階建ての、ごく普通のマンションだった。
その最上階の窓の、さらに上に、一瞬だけ、赤いものが見えた気がした。
七階の赤い空は、いまも、どこかの階で、誰かを待っている。
俺は、見ないふりをして、トラックのドアを閉めた。