
三年前の秋のことだ。
残業が続いていた時期で、その日も終電の一本前で会社を出た。最寄り駅まで地下通路を使っていた。地上より距離が短くなるし、雨の日でも濡れないので、その頃はいつもそのルートを使っていた。
地下通路は駅の東口から入り、商店街の地下を通って西口に抜ける、一本道だ。途中にコンビニとドラッグストアが並んでいて、夜でもそこそこ明るい。歩いて五分もかからない。
その日も普通に入口を潜って歩き始めた。
気になったのは、二分ほど歩いたところだった。
いつもならそのあたりにコンビニがあるはずなのに、シャッターが下りている。店の名前も違う。「中村金物店」と書いてある古びた看板が貼りついていた。平成初期にでも流通していたような、くすんだ黄色の看板だ。
「改装かな」と思いながらも足を止めた。
よく見ると、床のタイルも違う。いつもはグレーの無地なのに、そこのタイルは茶色と白のチェック柄だった。
おかしい、と思いながらも歩き続けた。早く帰りたかったし、変に立ち止まっているのも気恥ずかしかった。
※
さらに進んで三分ほど経ったとき、見覚えのある光景が目に入ってきた。
さっきのシャッターだ。「中村金物店」の看板。
振り返った。入ってきたはずの東口方向に、同じ通路が続いている。引き返してみると、今度は別の方向から同じシャッターの前に出た。
おかしい。何度やっても同じ場所に戻ってくる。
スマホを取り出したが、圏外だった。時計を見ると、入ってから五分も経っていないはずなのに、すでに四十分近く経過していた。
じわじわと怖くなってきた。
周りに人はいない。さっきまで遠くに人影がいたような気がしていたが、いつの間にか誰もいなくなっていた。通路全体がやけに静かで、床を歩く自分の足音だけが響く。
もう一度引き返そうとしたとき、前方に人影が現れた。
※
作業服を着た、六十がらみの男だった。グレーの作業着で、胸ポケットに何かのバッジをつけている。片手にクリップボードを持ち、もう片手でぶらぶらと懐中電灯を揺らしながらこちらに歩いてきた。
「あ、また居た」と男は言った。
怒ったような声ではない。むしろどこか疲れたような、やれやれという感じの口調だった。
「すみません、出口ってどこですか」と俺は聞いた。
男はクリップボードに何かを書き込んでから、溜め息をついた。
「だから言ったんだよ、ここには標識を置いとけって。上に何度言っても動いてくれないんだ」
「あの、出口は……」
「うん、出せるよ。ちょっと待ってて」
男はクリップボードをわきに抱え、懐中電灯で壁際を照らした。壁には何もないように見えたが、男は「ここだな」と呟いて、壁に向かって何かを操作するような仕草をした。押しボタンでもあるかのように、指先で三回、壁をトントンと叩いた。
「準備できるまでちょっと待って。ここはね、折り返してるんだよ」
「折り返してる?」
「空間が、ね。たまにこうなる。仕様じゃないんだけど、年に数回起きる。うちの管轄なんだけど、予算がなくてなかなか直せないんだよ」
男の言っていることの意味が、俺にはまったくわからなかった。
「何の、管轄なんですか」
「まあ、そういう部署だよ」
男はそれ以上説明する気がなさそうだった。手元のバッジをちらりと見たが、小さくて何と書いてあるかは読めなかった。数字とアルファベットが並んでいたような気がする。
※
しばらくして、男が「じゃあどうぞ」と言った。
さっきトントンと叩いた壁のあたりが、微かに光っているように見えた。蛍光灯の反射かと思ったが、見ているうちに、その部分だけが少しだけ透けて見えるような感覚がした。
「ここ抜けて。まっすぐ行けば西口に出る」
「あの、ここって……」
「あんまり考えない方がいいよ。そういうことに慣れてない人は」
男は静かに言った。脅すわけでも、冗談を言うわけでもない。本当に、ただそう思っているだけという口調だった。
俺は言われた通り、そこを抜けた。
次の瞬間には、いつもの通路の終端にいた。ドラッグストアが右手にあって、西口の改札が正面に見えた。
振り返ると、通路は普通の通路だった。チェック柄のタイルも、金物店のシャッターも、あの男の姿も、どこにもなかった。
スマホを見ると、ちゃんと電波が入っていた。時刻は二十三時十三分。終電の六分前だった。
俺は何も考えないまま改札を抜けて、終電に飛び乗った。
翌日、昼休みに同僚に話してみた。「そういう作業員、いるらしいよ」と彼女は言った。「時空のおっさんって呼ばれてる」と。
それが俺にとって、あの男の名前を知った最初だった。
あの金物店の看板が今でも頭に残っている。「中村金物店」。誰かが確かめようとしたのか、いつからかネットで検索してみたことがある。同じ名前の金物店は全国にいくつもあったが、あの通路にそういう店があったという記録は、どこにも見当たらなかった。