生贄の風習
公開日: 田舎にまつわる怖い話 | 長編
俺の親父の実家がある村の話。
父親の実家は、周囲を山にぐるっと囲まれた漁村だ(もう合併して村ではないが)。
元の起源は、落ち延びた平家の人間たちが隠れ住んだ場所で、それが段々村になって行った感じ。
まあ、そんなことは村で一番の年寄りの爺さんが子供たちに聞かせるだけで、殆どの人間は意識していない。
若い子などは、知らない子の方が多いくらいだ。
俺の住んでいる市街(と言っても凄い田舎)とそれほど距離がある訳ではないが、地形の関係で周囲と孤立している。
今でこそ道路もきちんと整備されて簡単に行き来できるようになったけど、20年前などはろくに道路も整っておらず、まさに陸の孤島という言葉が似合う場所だった。
よく田舎では余所者は嫌われると言うが、全然そんなことはない。
村の人たちは排他的ではないし、気の良い人たちだ。土地柄的に陽気な人が多い。
親族内でお祝い事があったら、明らかに親戚ではない知らないおっさんなどが混ざって、それにも構わずみんなでわいわいやったりとか。
基本的に飲めや歌えやという感じ。
俺は半分身内みたいなものだから、それで良くしてくれているところもあるんだろうけどさ。
正確な場所は流石に言えない。俺はまだその村と普通に交流しているから、あまり言いたくない。
言えるのは九州のとある地方ということだけだ。
親父の実家自体は普通の漁師の家。
でも、家を継いだ親父の兄貴(親父は九人兄弟の真ん中)が、
「年を取って流石に堪える」
と言うので、もう漁業は止めている。
実家は親父の兄弟姉妹とその家族が何人か一緒に住んでいたり、親父の叔父叔母が同居していたりでカオスだ。
俺も親父も親戚関係は全然把握できていない。誰が尋ねてきても「多分親戚」と言うくらい親戚が多いんだよ。
それで、俺の家は何かあればちょこちょこ実家に遊びに行っていた。俺がガキの頃はかなり頻繁だった。
小さい頃は楽しかったけど、中学生にもなると流石にそういうのもうざくなってくるが…。
俺は一族の中では年少者だったから可愛がられていて、お小遣いとか結構貰っており、そういうのが目当てで大人しく親に付いて行っていた。
近所のお爺さんお婆さんたちも、子供は独立して滅多に帰って来ないので寂しかったのか、俺や俺の弟や妹たちを凄く可愛がってくれてさ、俺はもう二十歳を越えているのに、今でも俺が来ると喜ぶんだよな。
※
そんな年寄りたちの中で一番俺たちを可愛がってくれたのが、シゲじいさんという人だった。
シゲじいさんは元々海の男だったんだけど、とうの昔に引退して、気ままな道楽生活を送っている人だった。
俺が子供の頃の時点で齢90歳を超えていたと思うが、口は達者で頭もしっかりしていた。
奥さんも随分前に亡くなっていて、子供の方は東京に出たっきり正月や盆にも帰って来ない。
だから俺らの遊び相手をして、寂しさを紛らわせていたのだと思う。
豪快なじいさんで、俺との木登り勝負に余裕に勝ったり、殺しても死なないんじゃないか、というような人だった。
※
でも、そんなじいさんも流石に死ぬときは死ぬ。
俺が中学生の時に病気になって半分寝たきり状態。
夏休みの時に実家に長期滞在したのだが、じいさんの病気を知ってからは、親戚付き合いそっちのけでじいさんの家に見舞いに行きまくっていた。
じいさんは、
「もう自分は長くないから」
と、昔話を聞かせてくれた。
その時じいさんの話を聞いたのは、俺と弟だった訳だが、あれを子供に聞かせて良いような話だったのかと、あの世のじいさんにツッコミを入れたい。
じいさんの話は、生贄の話だった。
じいさんは、
「昔ここらへんではよく生贄を捧げていた」
とかぬかしやがる。
それも何百年も昔という訳ではなく、昭和初期から中期に差し掛かる頃まで続いていたとか。
俺「いや、そげんこと言われても……」
弟「……困るし」
俺たちの反応の何と淡白なことか。
でも、いきなりそんなことを話されても実感が湧かないし、話されたところで『俺らにどうしろと?』という感じだった。
俺「生贄ってあれだろ? 雨が降らないから娘を差し出したり、うんたらかんたらとかいう……」
弟「あと生首棒に突き刺して、周りで躍ったりするんだよな?」
じいさん「ちげーちげー(違う違う)。魚が捕れんときに、若い娘を海に沈めるっつーんじゃ」
俺「あー、よく怖い話とかであるよな。人柱とか」
じいさん「わしがわけー頃には、まだそれがあった」
俺「……マジで?」
じいさんの話はにわかには信じられないものだったが、まあ昔だし、日本だし……。
そんな感じで、当時若い姉ちゃんの裸よりも民俗学だの犯罪心理だのを追求することに生き甲斐を感じている狂った中学生だった俺は、ショックではあったが受け容れてはいた。
弟の方はよく解っていないような感じだった。多分、漫画みたいな話だな…とか思っていたのだと思う
生贄を捧げるにしても、何かそれっぽい儀式などがあるのだろうけど、じいさんはそこら辺の話は全部端折った。
俺としてはそれも詳しく聞きたかったのだけど、当時若造だったじいさんも詳しいことは知らないそうだ。
当時の村の代表者(当然、既に故人)とか、そういう儀式をする司祭様みたいなのが仕切っていたのだろうけど、その辺のことも知らないらしい。
じいさんが知っているのは、何か不可解なことが起きた時や不漁の時に、決まって村の若い娘を海に投げ込んでいたということだけ。
親父の実家は、先にも言ったように陸の孤島みたいなところだ。
そういう古臭い習慣が大分後まで残ったのだと思う。
※
じいさんが何故そんなことを俺らに聞かせたのかは、今だによく判らない。
ただその生贄の儀式というのは、神の恩恵を求めたものと言うよりは、厄介払いの意味を含めたものであったらしい。
村中の嫌われ者や精神を病んだ人(憑き物だとじいさんは言っていた)を、海に投げ込んでしまうという感じ。
だから、捧げられるのは若い娘だけじゃなかったらしい。
その裏で、多分こっちが本当の目的なのだろうけど、厄介者を始末する。
実際、近所の家に居た少し精神を病んだ人が、生贄を捧げた次の日から見かけなくなった、というのがよくあったそうだ。
あまりにも頻発するので、村の中枢とはそれほど関わっていなかったじいさんも、薄々は気付き始めたらしい。
俺「でもさ…、それっておかしいとか思わなかったの?
娘さんは最初から沈められるって決まってるけど、そういう厄介払いされる人たちって行方不明じゃん」
じいさん「いやー……娘さんにはむげー(可哀想・酷い)とはおもうたけんど、ほかんしぃが消えたあとはまわりんしぃ、むしろ厄介者が消えてせいせいって感じやったなぁ」
俺「……」
生贄の儀式が実は厄介払いのための建前だということは、当時の村の人間の暗黙の了解みたいなものだったのだと思う。
誰も何も言わなかったというのは、そういうことなんじゃないかな。
※
ちなみにこの風習も、昭和の中頃になる前に自然消滅して行ったそうだ。
村の人間も戦後辺りに家を継ぐ長男以外は出稼ぎで全国に散らばって行ったから、生粋の地元人というのもあまり居ないし、事実を知っている人間は年寄りばかりでその殆どは亡くなっている。
今生きているのは、当時子供で詳しくは知らない人とか、そういう人ばかりだ。
そういう人たちも、わざわざ話したりしない。
だから生贄関連の話は記録などには残っているのだろうけど(慰霊碑があるし)、知らない人の方が多いみたいです。
まあ、自分の地元の郷土史なんて興味なけりゃ、ごく最近の出来事でも周囲の認識はこんなものだと思う。
※
シゲじいさんが何故、俺と弟にこんな話をしたのかは判らない。
俺が民族学やら何やらが大好きということを知っていたから、それで聞かせてくれたのかもしれないけど。あの人、変人だったし。
もう墓の下だけど、死ぬ直前まで口の達者なじいさんでした。
でも、あのじいさんがこんな話をしてくれたものだから、暫くは大変だったよ。
今まで(今でも)可愛がってくれた年寄りたちの何人かはこのことを知っていて、実際に身内の中に生贄を出した家というのもあるかもしれない。
そう思うと嫌な気分になると言うか、気の良い彼らに対する認識が少し変わったんだよな。
彼らが良い人だというのはよく解っているから、それで交流を止めたりはしないのだけど…。