肋骨を掴む手
最寄の駅からおいらの会社まで自転車で通っていたことがある。
その日は仕事が結構早めに終わり、少しずつ暗くなる路地裏を自転車で家路を急いでいた。
蒼い宵闇が降りてくる。境界線を見えなくするには丁度良い時間帯だ。空間とモノと、それ以外との。
懐の携帯が鳴った。この時、手間でも自転車を降りていれば良かったと今頃になって思う。
番号非通知。どこからだろうか。
「もしもし?」
「…ゴォォォォォォォオオオオ!!!!」
飛行機の爆音のような凄い音が左耳をつんざいた。
なんだ?
その時、四つ角の左手から黒いチャリが突っ込んで来た。
無灯火だ。気付かなかった。
避けようとハンドルを切ったが、片手を離していたおいらの自転車はバランスを崩し、その場にどうしようもなく間抜けな恰好でコケた。
「…つ…!」
息ができない。
おいらのチャリは? …ある。
鞄の中は? …無事だ。
ぶつかってきたのは? …良かった、衝突はしていない…。
…て、あれ?
突っ込んで来たチャリは、そのまま右手の暗がりに消えて行こうとしていた。
乗っているのは…白髪頭の後頭部が見え、そしておばあさんの声がした。
一心不乱に、謝罪の言葉を独り言のように叫んでいた。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんよ、ごめんね、ごめんよ、ごめんね…」
白髪頭がキーコキーコと消えて行く。
信じられないことに、一度もこちらを振り向かず、ただ「ごめんね」が暗闇に消えて行った。
なんてババアだ。ふざけんな、何が「ごめんね」だ!
こっちは大ケガだ!謝って済むか!かなりムカついた。
いきなりすぐ耳元で、掠れているにも関わらず、凄い声が囁いた。
「マ・ッ・テ・オ・カ・ア・サ・ン」
うわっ!誰だ!
すぐ後ろを振り返ったが、そこには闇だけ。
うっすらと光を投げかけている電柱の灯りを透かして目を凝らしたが、通行人もいない。
ちくしょう、やられた。
こんな下町の路地裏で遭うなんて思っていなかった。油断していた。
左胸を強く打って息のできないおいらは、ようやく立ち上がって転がっている自転車を起こした。
サドルの位置が何か違う。よく見るとシートポストに繋がるパイプが有り得ない方向にグニャリと曲がっていた。
クロモリ製のレールが。溶けたみたいに。
うー、これに当たったのか…こんだけ曲がれば胸にも響く。
苦しい息の中、なんとか自転車を駐輪場に停め、電車に乗り継いで帰宅した。
でも、夜中になりどうしても我慢できなくなって、自分で車を運転して救急に駆け込んだ。
「うー、これは…折れてるかも」
自転車でおばさんとぶつかって胸を強打したことを問診票に書く。
その後、レントゲンを手早く撮られ、診察室に呼び込まれた。
ぼさぼさ髪の、若い外科の先生は陰険な顔で目を細めた。
「肋骨2本。骨折ですね」
机の上の先生のパソコンに映った写真を二人で見た。
鎖骨に近い肋骨が、脇の方で2本折れていた。見事に黒い筋が入っている。
「うー、そのくらいは覚悟してました」
「まー、全治2ヶ月ってとこだね。胸なんでギプスする訳にいかないから、サポーターを出すよ。あと痛み止めね」
「はい。うぅー」
「で、これってなに? …君、何にぶつかったの?」
「は?」
おいらは、もう一度その写真をしげしげと見た。そしてぎょっとした。
うっすらとだが、気付いてしまったらそうとしか見えない。少し小さ目の白い節くれだった手が、俺の折れた肋骨をギッチリと掴んでいるように見えた。
おいらの手が写ってしまったのか?
小さい子供の手にも見える。右手、それとも左手?
そもそも、なんで?
耳がきーんとしてきた。なんかおかしい。
これはヤバい。
「うー、この白い影、手に見えますけど」
「やっぱり、そう見える? けど、おかしいよね?」
「さっきレントゲンを撮った時には、自分は、手は写らないようにして…」
「そりゃそうだ。これは君の手じゃない」
「人間の手だったら、骨が透けるはずだよね?」
先生が言った。
「この子供の手には骨がない」
※
上野に行きつけの日本酒専門のバーがある。
大将は頑固者だが、気さくで老若男女から人気があった。
こじんまりしたカウンターだけの店には、古くから各会の人々が三々五々集まり、すぐに顔見知りになって酒と肴を楽しんでいた。
おいらも通い始めて7年目になる。
その夜は、小雨の降る肌寒い日だった。
『ごめんねババア』の事故以来、ずっと胸にサポーターを巻かれ息もろくに出来ない状態で、おいらは結構消耗していた。
なぜか急に熱いものが苦手になった。風呂に入る時、コーヒーを飲む時、決まって左胸の折れた肋骨の周りがギューっと疼くようになっていた。
既に2ヶ月以上、この状態が続いている。
不気味なことに、胸には痣のようなものまで現れた。
どうも右手のような形にも見える。
くそ、この小さな手が、おいらの肋骨を放さない。
…考え過ぎだ。
気味が悪いが、取り敢えず気のせいということにしていた。
こりゃ、冷酒で凌ぐしか楽しめない。
客も殆ど居ない。裸電球も数人の影を投げかけるだけだ。
小雨のはずなのに、音がやけに大きく聞こえる。
カウンターの向こうの大将も「こりゃ早仕舞いだな」と言う。
その時、引き戸がカラカラと鳴って客が入って来た。
見慣れない顔。一見だろうか?
年齢は多分70歳を過ぎている。店の大将と同じくらいか。
その割には、Gジャンに濡れたサンダル、ほぼ総白髪を真ん中から分けた長髪で、ヒッピーがそのまま年を取った感じの風体だ。
「席はー、あいとるかのう?」
まるで広島弁の三船敏郎がやって来たような声だった。
「平和が一番じゃ!のぅ、そう思わんか?
ピースじゃ!ピース!ピース!ピース!ピース!ピース!はははははは!」
うるさいジジイだ。
何が楽しいのか一人で騒ぎ散らして、さっきからピースを連発している。
いつもは朗らかな大将も顔をしかめている。こういう客は迷惑だ。
「あのー、すみませんが…少し静かに呑めませんか?」
そのジジイはきょとんとして暫くおいらを見つめ、次いで興味深そうに目を細めた。
「おにーさん、かなりヤバくなっとるのう」
「何がです?」
「後ろのも、かわいそうに…。にーさん、もうフラフラじゃ。勘弁してやれ」
「…そんなに呑んでませんよ?」
最初の言葉は上手く聞き取れなかった。
てっきり、酔っ払ったおいらのことを言われていると思った。
「違うわ、わかっとらんのー」
ジジイの表情が険しくなる。
「コリャいけん。のぅ、表に出よっとかい、ワレ」
あー、ヤバい。
殴られる、と思った。
何か言い訳を取り繕って、この場を凌ごうと思った。
言葉が出ない。
睨み付ける視線に完全に縛り付けられていた。
意識に反して身体が席を立ち、視線に逆らえないまま店を出てしまった。
※
じわじわと身体が湿ってくる。雨の音が、さっきより更に大きくなった。
雨の中をしばらく歩いて、ジジイは振り向きざま言った。
「にーさん、何でそげなモンに憑かれおる?」
「かわいそうにのぉ。じゃけん、おんどれはそこに居たらいけん」
言われるや否や「ドンッ」と凄い音がして、おいらは胸をドつかれた。
おいらのすぐ後ろにあった、別の飲み屋の看板がバリンと音を立てて倒れた。
「!」
振り返ると、壊れた看板の中に、モゾモゾ動く小さなものが見えたような気がした。
目を凝らしたが、灰色で捉えどころがない。ちっぽけなイキモノのような。
そいつは「ギィィイッ」とおぞましく一声叫んで、ヨロヨロと暗がりに逃げて行った。
ジジイは言った。
「…オカッパ髪じゃったのぅ」
唖然と立ち尽くしていたおいらは促されるまま飲み屋に戻って、ジジイと話をした。ようやく身体の自由が効いてきた。
そして『ごめんねババア』の経緯を話した。肋骨に絡み付いている白い手の話も。
「オカッパって…女の子ですか?」
「おう、5歳くらいのな。あいつは元の場所に戻るじゃろ。気にせんでええ」
ジジイ曰く、強い恨みは感じられない。しかし自分が死んだことに気付いていないのではないかと。
しかもジジイには火傷の跡が見えたらしい。その女の子の直接の死因も多分それだと言う。酷い火傷を負って、程なく亡くなったのだろうと。
「そこら辺の辻には色んなモノがおる。
来るモノは四方から集まって来よるが、ハテ、その後、そいつらはそれから逝き先を決められん。何処へ向かえばいいのか。
ゆえに溜まってしまうんじゃ。昔からのぅ。
そこはモノが溜まりやすい四辻で、気を付けて運転しているのに関わらず出合い頭の事故が絶えないのも、ほぼ同じような理由だと言う。
結局のところ、あの時ぶつかった瞬間、あの女の子は偶然にもおいらに乗っかってしまったのだ。
「じゃ、あのバアさんは?」
「母親。ずっとその娘と一緒におったと思う。戦争の時から、60年以上、ずっと」
いきなりの『戦争』という単語に驚いた。
雰囲気出しの裸電球が一瞬、瞬いたような気がした。
おいらはシャツを捲くり上げて、左胸に浮き出した痣をジジイに見せた。
案の定、それは消えかかっていた。
内心ホッとしながら、「この右手にアバラを掴まれていると思う」と告白する。
痣の跡を見ながら、ジジイは言った。
「いんや、違う。ソレは…左手じゃ」
「は?」
この痣は、あの白い手が掴んでいたのは、前からではなかった。
左手ということは…つまりあの娘は、おいらの背後からしがみついていたのだ。
おいらとぶつかった瞬間、女の子は母親から振り飛ばされ、とっさにおいらの脇腹にしがみついたのだと言う。肋骨が二本折れるほどの強い力で。
『マ・ッ・テ・オ・カ・ア・サ・ン』
解った。あの声の意味が。
でもあの時、バアさんはこっちを振り返らなかった。自分の娘が見ず知らずの男の背中で叫んでいたのに。なぜ、それに気付かなかった? 母親なのに?
「気が触れていれば、それも解らんよ」
いずれにしても…、とジジイは言葉を繋ぐ。
「にーさんは、その娘をおぶって、知らずにずっと逃げておったのよ」
「何から?」
「熱い、熱い、熱気からじゃ。空襲の火災のな」
これにも妙に納得した。
近頃熱いものが苦手になっていた理由はソレだった。
あのバアさん…母親は、空襲から逃げている時も、ずっと背中の娘に謝り続けていたのだろうか? 多分、もう息のない娘に。「ごめんね」「ごめんよ」と。
あの暗闇に消えた白髪頭を思い出した。
娘を死なせ、おかしくなった頭で、今もその亡骸を背負い、半世紀以上も永久に続く空襲から逃げ惑っているのか。
この街の、そこかしこの四つ辻を巡って。