
パート先のショッピングモールに勤めて、もうすぐ二年になる。
私が担当しているのは閉店後の清掃だ。夜の九時に店が閉まって、一時間後には従業員出口から入る。フロアを静かに磨いて、深夜一時頃には上がれる。慣れてしまえば悪くない仕事で、昼の時間が自由に使えるのが気に入っていた。
閉店後のモールというのは独特の空気がある。昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、自分の足音だけが床に響く。広い場所に一人でいる感覚というのは最初は怖くても、慣れると逆に落ち着く。ヘッドフォンで音楽を聴きながらモップをかけるのが、私のいつものやり方だった。
あの夜のことを思い出すのに、今でも少し時間がかかる。
二月の終わりだった。三階のフロアを担当していた私は、いつも通り化粧品売り場の奥にある多目的トイレの清掃を終えた。業務用カートを押しながら廊下に出ると、何かがおかしかった。
最初は照明だと思った。蛍光灯の色味がいつもより少し青白くて、それがモールの雰囲気を変えていた。でも顔を上げてよく見ると、そういう問題じゃなかった。
店舗の配置が、違う。
いつも三階の突き当たりにあるスポーツ用品店のロゴが見えない。代わりにガラス張りのインテリアショップみたいな店舗があって、照明は暗かったけれど、中に人がいた。女の人が一人、棚に飾られた何かを眺めていた。
閉店後なのに、と思った。
変だと思いながらも、とりあえず廊下を進んだ。カートの車輪が床に触れる音が、なぜかいつもより小さく聞こえた。鳴っているのに、届いてこない感じがした。ヘッドフォンをしていないのに、音の輪郭がぼやけているような、耳に綿を詰めたような感覚だった。
※
廊下を歩くにつれて、違和感はどんどん積み重なっていった。
ファストフードの店舗があるはずの場所に、見たことのない小さな花屋が入っていた。照明の落とされた暗い店内に、白い花が並んでいた。夜のモールにそぐわないほど、鮮やかな白だった。
人もいた。廊下を歩いている人が何人かいる。でも誰も私を見ない。清掃員が深夜に廊下を歩いていても気にならないといえばそうかもしれないけれど、完全に存在していないみたいに視線が滑っていく感じが怖かった。まるで私だけが透明なみたいに、誰の目にも映っていない。
一人の男の人がすれ違う瞬間、声をかけようとした。でも言葉が出てこなかった。喉に手を当てると、声帯が震えているのに音が出ていない気がした。夢の中で叫ぼうとしても叫べない、あの感覚に似ていた。
廊下の突き当たりまで来て、私は立ち止まった。窓があった。三階のその位置には窓なんてなくて、外が見えるはずがないのだが、確かに大きなガラス窓があった。そこから見えていたのは、昼間の景色だった。青空じゃなくて、夕暮れに近い、曖昧な白昼の光。
駐車場も、道路も見えなかった。建物があった。何列も、知らない建物が連なっていた。古い建物だった。看板の文字が読めそうで読めない距離にあったが、どこかのアーケード商店街のような形をしていた。
その瞬間、体が動いた。理屈じゃなく、走りたいと思った。カートを置いて、来た道を引き返した。廊下を曲がると、見知ったスポーツ用品店のシャッターがあった。蛍光灯の色が、いつもの黄白に戻っていた。
※
「さっきどこにいたの?」
一階に降りてくると、同じ清掃チームの先輩が待っていた。五十代のおだやかな女性で、普段はほとんど怒らない人だ。でもその夜は顔が青かった。
「呼び出しかけたんだよ。十五分も出てこないから、何かあったのかと思って」
十五分。私には三分か四分のつもりだった。窓を見て、走って戻って、エスカレーターを降りてきただけだ。
「三階にいました」と答えると、先輩は黙って私の顔を見た。何かを言おうとして、やめた。
カートを置いてきたことに気づいたのはその後だった。先輩と一緒にもう一度三階に上がると、カートはちゃんとあった。化粧品売り場の奥、多目的トイレの前に置いたままの状態で。
花屋も、インテリアショップも、どこにもなかった。窓もなかった。廊下の突き当たりにはいつものシャッターが並んでいた。先輩は一言も言わずにカートを受け取り、歩き出した。その背中が何かを知っているように見えた。
※
帰り際、先輩に「三階で変なことなかった?」と訊いてみた。
しばらく黙ってから、先輩は「このモールが建つ前、ここに何があったか知ってる?」と言った。
聞いたことなかった、と答えると、先輩は少し考えてから口を開いた。「古い商店街だったんだって。地元の人はよく覚えてるらしいんだけど、再開発でまるごと壊されて。当時の店主さんたちは、かなり揉めたって話で。中には最後まで立ち退きを拒否して、裁判になった人もいたとか。それだけ」と付け加えるように言って、話を終わらせた。
それだけ、とは何を意味しているのか。私にはよく分からなかった。でも先輩がそれ以上話したがらなかったから、私も訊かなかった。
今でも同じフロアを清掃している。あの夜以来、廊下の突き当たりまで行くのが少し怖い。でも窓は現れていないし、知らない店舗もない。
ただ一つだけ、あの夜からずっと気になっていることがある。
あの夜、花屋で見た白い花。今朝、スーパーの花売り場でそれを見かけた。店員に「これ何という花ですか」と訊いたら、「仏花ですよ」と言われた。