川べりの祠

祠

散歩を始めたのは、去年の春のことだ。

産後から増えた体重をどうにかしようと、夫が仕事に出た後の朝六時に、近所を歩くようにした。コースはいつも同じで、住宅地を抜けて、川沿いの遊歩道を三十分ほどかけて往復する。早朝のその時間帯、すれちがう人はほとんどいない。川の水音と、遠くで鳥が鳴く声だけが聞こえるような静かなコースで、気に入っていた。

最初は五分も歩けば足が重くなっていたのに、二週間もするとずいぶん楽になった。景色にも慣れてきて、川沿いの木々の名前を調べたり、いつも同じ時間にカラスが集まる場所があることを知ったりした。それが毎朝の小さな楽しみになっていた。

三週間ほど続けたある朝のことだ。川べりのベンチのそばに、見慣れないものが置いてあることに気づいた。

小さな祠だった。

高さ三十センチほどの木製で、屋根の部分だけ赤く塗られている。雨ざらしになっているのか、木の表面はところどころ黒ずんでいて、長い時間をそこで過ごしてきたような風合いがあった。毎朝通っているのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。少し立ち止まって眺めてから、その日はそのまま帰った。

翌朝、また同じ場所に祠はあった。今度は立ち止まってじっくり見た。台座にあたる部分には苔が生えていて、何年もそこにあったかのような古さがある。でも昨日まで気づかなかったのは確かだ。毎日同じ道を歩いていたのだから。

気になって近づくと、扉のような部分が少しだけ開いていた。中をのぞくと、細長い紙が折りたたんで置かれていた。お供えの紙か何かだろうかと思いながらも、手を伸ばして取り出してしまった。

広げると、文字が書いてあった。

「まいにち、みてるよ」

見た瞬間、心臓がどくんと鳴った。

太くて、丸みのある字だった。一文字ずつを丁寧に押さえるように書いたような、独特の筆跡。その字に見覚えがあった。三年前に亡くなった、祖母の字にそっくりだったのだ。

祖母は生前、毎朝仏壇に手を合わせる習慣があった。メモひとつ書くにも丁寧で、文字に癖がある人だった。「ま」の最後のはね方、「よ」の結びの角度——そういった細かな特徴が、目の前の紙と重なって見えた。わたしは昔、祖母の書いたものをよく受け取っていた。誕生日のカード、運動会の応援メッセージ。あの字を何十枚も見てきた。

気のせいだ、と自分に言い聞かせながら、紙を元の場所に戻した。手が微かに震えていた。周囲を見回しても、人の姿はなく、川の水音だけが聞こえた。空は薄い青で、まだ朝の静けさが残っていた。

その日一日、落ち着かなかった。

夫には話せなかった。どう説明すればいいのか分からなかったし、笑われるのも嫌だった。ただ祖母のことを繰り返し思い出した。入院していた頃、毎週会いに行っていたこと。亡くなる一週間前、病室で「ありがとう」と小さな声で言っていたこと。葬儀が終わった後も、なんとなく心の整理がつかないまま来てしまっていたこと。子どもが生まれたとき、報告する相手がいなくて、仏壇の前で声に出して話しかけたこと。

翌朝、もう一度行こうと決めた。今度はちゃんと確かめようと思って。

でも祠は、なかった。

ベンチの脇の草むらに、何もなかった。昨日まであった木製の祠が、跡形もなく消えていた。草が踏み荒らされた様子もなく、土が掘られたような痕もない。まるで最初からそこに何も存在しなかったかのように、ただの川べりだった。

しばらくその場に立ったまま、何度も目を凝らしたが、見間違いではなかった。何もなかった。写真を撮っておけばよかったと思ったが、後の祭りだった。

帰り道、近所で顔を合わせることのある老人に声をかけてみた。毎朝ゴミ出しで会う、昔からその地域に住んでいるような方だ。「川べりのベンチのそばに、小さな祠がありましたよね」と尋ねると、その方は首をかしげた。

「祠? そんなもん、見たことないよ。あそこは昔から何もない川べりだもの」

穏やかな口調だったが、はっきりとそう言った。

その後、川沿いをよく利用していそうな人を何人か捕まえて聞いてみたが、誰も知らなかった。

それからもう一年近くが経つ。あの場所にはその後も何度も行っているが、祠はもちろん、それに似たものも現れていない。

あの字が祖母のものだったのか、そうでなかったのか、今となっては確かめる術がない。「まいにち、みてるよ」という言葉が、誰に向けられたものだったのかも。

ただ、あれを見た日から、不思議と気持ちが少し軽くなったような気がしている。うまく言えないのだが、ずっと胸のどこかにあった何かが、すっと溶けたような感覚がある。子どもの成長を見てほしかった、という気持ちをずっと引きずっていたことに、そのとき初めて気がついた。

今朝も同じ道を歩いた。川沿いの遊歩道は今日も静かで、水音だけが聞こえた。ベンチの脇の草は風に揺れていた。

何もなかった。何もなかったけれど、あの場所を通るとき、いつも少しだけ足が遅くなる。

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