
私は四十二歳で、介護施設の夜勤を始めてもう六年になる。
夜勤は二人体制だ。二十一時に夜の巡回を終え、深夜帯は基本的にナースステーションで待機しながら、二時間おきに各居室を見回る。入居者の多くは八十代以上で、夜中にトイレに起きる人、寝言を言う人、ベッドの柵をがたがた揺らす人。いろいろだけれど、大きなトラブルがなければ比較的静かな時間が過ぎていく。
この仕事を続けていると、どうしても避けられないことがある。入居者さんが亡くなることだ。高齢の方ばかりだから、月に一人か二人、静かに旅立たれることも珍しくない。悲しいけれど、穏やかな最期に立ち会えることは、この仕事のもうひとつの意味だと思っている。
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あの夜のことを話したい。
三月の初め、二〇四号室の田所サキさんが亡くなった。九十一歳。元小学校の教師で、入居してからも折り紙を器用に折っては、他の入居者さんに配って歩いていた。鶴、兜、手裏剣。子どもみたいに楽しそうに折るから、フロア全体がいつもサキさんの折り紙で飾られていた。
サキさんは静かに亡くなった。夜勤中の午前三時、巡回に行ったら眠るように息を引き取っていた。前日まで元気に折り紙を折っていたから、まるで疲れて眠ってしまったように見えた。
ご家族への連絡、看護師への報告、いつもの手順を淡々と進めた。六年もやっていれば慣れる、と言いたいところだけれど、サキさんの場合は少し堪えた。いつも私の夜勤のとき、ナースステーションまで来て「夜遅くまでご苦労さまね」と声をかけてくれた人だったから。
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サキさんが亡くなって三日目の夜勤だった。
午前二時の巡回を終えてナースステーションに戻り、記録をつけていた。隣で夜勤パートナーの中島さんが仮眠をとっている。廊下の非常灯だけがぼんやりと緑色に光る、いつもと同じ深夜の風景だった。
ふと、三〇一号室のナースコールが鳴った。三〇一号室は村田ハナさん。八十七歳、認知症が少し進んでいるけれど、夜間にコールを押すことはめったにない。
急いで行くと、ハナさんはベッドの上に起き上がって、にこにこ笑っていた。
「どうしましたか、ハナさん。お手洗いですか」
「ううん。サキさんが来てくれたのよ」
一瞬、何を言われたかわからなかった。サキさんはもう亡くなっている。
「サキさんが、鶴をくれたの。ほら」
ハナさんが両手を差し出す。そこには何もなかった。けれどハナさんは、何かを大事そうに包み込むような手つきで、嬉しそうにしていた。
「よかったですね」と笑ってみせて、ハナさんが再び横になるのを見届けてからステーションに戻った。認知症の方は亡くなった人が見えることがある。それは珍しいことではない。そう自分に言い聞かせた。
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ところが翌週、今度は一〇五号室の鳥飼さんが同じことを言った。
「夜中にサキちゃんが来てな。手を握ってくれたんや」
鳥飼さんは九十三歳。しっかりした人で、認知機能に問題はない。新聞を毎朝読み、将棋のテレビ対局を欠かさず見る。その鳥飼さんが、目に涙を浮かべながらそう言った。
「夢じゃないんか言われたらそれまでやけどな。でもな、手の温度があったんや。冷たくなかった。あったかかった」
鳥飼さんとサキさんは、食堂でいつも隣同士に座っていた。サキさんが折った鶴を「また折ってくれたんか」と言いながら受け取って、部屋の窓際に並べていた。
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その後も、ぽつりぽつりと同じ話が続いた。
二〇六号室の吉川さん。「昨日の夜、サキさんが足をさすってくれた。膝が楽になった気がする」
三〇三号室の前田さん。「サキさんが来て、もう大丈夫よって言ってくれた。何が大丈夫なのかわからんけど、安心した」
みんな別々の夜に、別々のタイミングで、「サキさんが来た」と言う。共通しているのは、みんなが穏やかな顔をしていることだった。怯えている人は一人もいない。まるでサキさんが生きていた頃と同じように、一人ひとりのところに来て、声をかけて回っているかのようだった。
中島さんに話すと、「気味が悪い」と言った。私はそうは思わなかった。気味が悪いというよりも、ああ、やっぱりサキさんだな、と思った。生きていた頃と同じことをしているだけだから。
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サキさんが亡くなって二週間が経った夜のことだ。
午前三時。ナースステーションで一人、記録をつけていた。中島さんは仮眠中。いつもと何も変わらない夜だった。
ふわり、と折り紙の匂いがした。
折り紙に匂いなんてあるのか。あるのだ。紙とのりの混ざった、どこか懐かしいあの匂い。サキさんの居室はいつもこの匂いがしていた。
顔を上げると、ナースステーションのカウンターの上に、小さな折り鶴が一羽、置いてあった。
赤い折り紙で丁寧に折られた鶴。翼の角が少し丸みを帯びていて、それはサキさん独特の折り方だった。きっちり折るのではなく、わざと少しだけ角を柔らかくする。「硬い折り方は疲れるでしょう」と笑っていたのを覚えている。
巡回で三十分前に通ったとき、カウンターの上には何もなかった。中島さんは仮眠室にいる。この時間、他の職員はいない。
鶴を手に取った。指先に紙の感触がたしかにあった。
「ご苦労さまね」
聞こえた気がした。声というよりも、記憶の中の音が一瞬だけ浮かび上がったような感覚だった。振り返っても、廊下には誰もいない。非常灯の緑色の光が静かに伸びているだけだった。
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翌朝、あの赤い折り鶴はまだカウンターの上にあった。夢ではなかった。
私はそれをロッカーにしまい、今でも通勤バッグのポケットに入れている。少し角が丸い、サキさんの折り鶴。手に取ると、あの夜の折り紙の匂いがかすかに残っている気がする。
あれから「サキさんが来た」という声は聞かなくなった。全員のところを回り終えたのだと思う。最後に私のところにも来てくれたのだと思うと、なんだか泣けてくる。
怖い話ではない。けれど、この仕事をしていて一番不思議で、一番あたたかい夜だった。