金木犀の夜に触れたもの

月光の庭と幽霊の老婆

私が看護師になって二年目の夏のことだ。

祖母が亡くなったという連絡を受けたのは、夜勤明けの朝だった。病棟の廊下で携帯を見たとき、母からの不在着信が七件並んでいた。折り返すと、母は静かな声で「おばあちゃん、今朝早くにね」とだけ言った。私は壁にもたれたまま、しばらく何も言えなかった。

祖母の家は、新潟の山あいにある古い木造の一軒家だった。最寄り駅からバスで四十分、そこからさらに歩いて十五分。子どもの頃は毎年夏休みに泊まりに行っていた。祖母は無口な人だったけれど、私が来ると台所に立って、朝から晩まで何かしら作っていた。茄子の揚げ浸し、冷やしトマト、とうもろこしのかき揚げ。夏の食卓はいつも祖母の手料理で溢れていた。

でも看護学校に入ってからはほとんど足が遠のいて、最後に会ったのはもう三年も前のことだった。忙しいからと電話も短く切って、盆も正月も帰らなかった。それがずっと、胸のどこかに引っかかっていた。

葬儀は家族だけの小さなものだった。近所の人が数人、焼香に来てくれた程度で、山の集落はどこも高齢化が進んでいて、顔ぶれは私の知らない人ばかりだった。

祖母の家に泊まることになり、私は二階の、子どもの頃にいつも使っていた部屋に布団を敷いた。畳の匂いが変わっていなくて、それだけで胸が詰まった。押入れの襖には、私が小学三年生のときにシールを貼った跡がまだ残っていた。キラキラ光る星のシールで、祖母に怒られた記憶がある。でも次の夏に来たとき、シールはそのままだった。剥がさずにいてくれたのだ。

夜、なかなか眠れなかった。階下では母と叔母が小声で何か話しているのが聞こえていた。遺品の整理をどうするか、家をどうするか。そういう現実的な話だった。

私はぼんやりと天井を見つめていた。古い木の天井板の節目が、子どもの頃はお化けの顔に見えて怖かった。祖母に「怖い」と言ったら、祖母は何も言わずに私の手を握って、そのまま隣で眠ってくれた。

うとうとしかけた頃、廊下の向こうから、かすかな音が聞こえた。

からん、ころん。

風鈴の音だった。

祖母はいつも縁側に南部鉄の風鈴を吊るしていた。夏になると、あの澄んだ音が家中に響いて、暑さの中に一瞬だけ涼しい隙間を作ってくれた。でも今は九月の半ばで、葬儀の準備で縁側の飾りはすべて片付けたはずだった。風鈴は母が段ボールにしまったのを、私もこの目で見ている。

私は布団から出て、廊下に出た。月明かりが障子を通してぼんやりと廊下を照らしていた。足元の板がきしんで、子どもの頃と同じ音を立てた。

音は、一階の縁側のほうから聞こえてくる。

階段を降りて、台所を通り抜けて、縁側に続く座敷に入った。月が明るくて、庭の木々の影が畳の上にくっきりと落ちていた。虫の声が四方から聞こえていて、それ以外はしんと静かだった。

縁側には、誰もいなかった。風鈴もなかった。

でも、空気が少しだけ違った。縁側の硝子戸が薄く開いていて、夜の庭の匂いが流れ込んでいた。草と土と、それから、かすかに金木犀の香り。祖母が好きだった金木犀が庭の隅に一本あって、毎年この時期になると小さな橙色の花をつけていた。祖母はよく「この花が咲くと、あんたの夏が終わるんだねえ」と言っていた。

私は硝子戸のそばに座って、庭を眺めた。月明かりの中で、金木犀の木が静かに揺れていた。

そのとき、左の頬に何かが触れた。

風ではなかった。もっと温かくて、柔らかい。まるで誰かの手のひらが、そっと頬を撫でたような感触だった。

驚いて振り向いたけれど、やはり誰もいない。ただ、その瞬間、金木犀の香りがふわっと強くなって、私を包み込むように広がった。

不思議と怖くなかった。むしろ、懐かしさと、温かさが胸の奥からこみ上げてきた。子どもの頃、縁側で祖母の隣に座ると、祖母はいつも何も言わずに私の頬を撫でた。「よく来たね」の代わりに、いつもそうしていた。ざらざらした、でも優しい手のひらだった。

私は声を出さずに泣いた。三年間、一度も来なくてごめんなさい。そう心の中で繰り返しながら、しばらくの間、縁側に座っていた。

翌朝、母に昨夜のことを話した。風鈴の音が聞こえたこと、縁側で頬を撫でられた気がしたこと。

母は少し驚いた顔をしてから、静かに笑った。

「おばあちゃんね、亡くなる前の日に、あんたの名前をずっと呼んでたのよ。美咲、美咲って。最期まで、会いたかったんだろうね」

私は何も言えなかった。台所の窓から朝の光が差し込んでいて、庭の金木犀の木がわずかに揺れていた。小さな橙色の花が、朝露に濡れて光っていた。

あの風鈴の音が何だったのか、頬に触れたものが何だったのか、今でも説明はつかない。でも、私はあの夜、祖母に会えたのだと信じている。三年間、一度も来なかった私に、祖母は怒っていなかった。ただ「よく来たね」と言ってくれた。あの頬の温もりは、そういうことだったのだと思う。

あれから何年か経った今も、金木犀の香りがすると、あの夜の縁側を思い出す。左の頬が、少しだけ温かくなる気がする。

祖母の家はもう取り壊されて、更地になった。風鈴は実家の仏壇の横に置いてある。鳴ることはない。

でも時々、本当に時々だけど、夜勤明けの疲れた朝に病院の廊下を歩いていると、どこからともなく金木犀の香りがして、からん、ころん、と聞こえる気がするのだ。そのたびに私は立ち止まって、少しだけ目を閉じる。

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