501号室の老人(神父の子5)

マンション(フリー素材)

その部屋に入った途端、老人の声が変わった。

寝たきりのはずの八十歳の口から、五十代の男の低い声が出たのだ。

今でも、あの声の太さを思い出すと、うなじの毛が逆立つ。

これは、俺が教会の息子だった頃に体験した、501号室の老人の話だ。

県営マンションの四階

ある日のこと。

教会に来る信者さんで、ホームヘルパーの仕事をしている田中さん(男性・仮名)に頼まれた。

「一緒に行って欲しい家があるんです」

老人の一人暮らしの家なのだが、どうにも薄気味悪いという。

住んでいた人が次々に出ていった建物の中で、ただ一人、残っている。

夜になると、廊下のどこかで蛇口の水が出しっぱなしになっている音がするのだそうだ。

一人で行くと、神経が参ってしまうらしい。

親父に一応相談すると、こう言われた。

「行ってあげなさい」

お礼にガストのステーキをご馳走すると言われて、俺は二つ返事で付いていった。

訪ねる先は、古い県営住宅の四階だった。

ドアの表札には、なぜか501号室とある。

四階なのに五階の番号がついている理由は、田中さんも知らなかった。

老人は八十歳くらい。

この県営マンションができた頃から、ずっと住んでいるのだという。

建物の大半は空き家だった。

窓にはどこもカーテンがなく、中が空洞のように見える。

正面には、同じ大きさの綺麗なマンションが建っていた。

順番に取り壊して建て替える計画があるのだろう。

何も知らない俺にも、そう想像がついた。

エレベーターは、古い機械油の匂いがした。

四階のボタンを押すと、階数表示が「4」の手前で、少しのあいだ止まった。

ガタン、と箱が揺れる。

誰かが乗り込んだような、小さな揺れだった。

けれど、扉が開いたとき、そこには誰もいなかった。

田中さんは、それについて何も言わなかった。

聞こえなかったふりをしているのだと、俺にはわかった。

エレベーターで四階に上がる。

廊下に出た途端、奥の部屋の半開きのドアが、バタンと閉まった。

空き家だらけだと思っていたが、人は住んでいるらしい。

俺は、そう思っただけだった。

ところが田中さんは、そのドアの閉まった部屋の前で足を止めた。

書類ケースから鍵を取り出す。

チャイムも鳴らさずに鍵を開け、元気な声で呼びかけた。

「おじいちゃーん」

501号室の老人の声

部屋の中には、お爺さんが一人で寝ていた。

枕元に、古い置き時計があった。

針は三時十分で止まっていた。

電池を替えてもすぐ止まるのだと、あとで田中さんが教えてくれた。

昼間なのにカーテンが閉め切られ、真っ暗だった。

汚物の臭いが、濃く溜まっている。

田中さんは慣れた手つきで窓を全開にして、俺に換気扇を回すよう指示した。

「おじいちゃーん」

大きな声で呼びながら布団を捲ると、蠅が数匹、飛び出した。

お爺さんは、

「あうあう」

と声を出して、それに答えている。

その声は、赤ん坊の泣き声に、どこか似ていた。

何も要求せず、何も期待していない、ただ空気を震わせるだけの声だった。

聞いているうちに、胸のあたりが、すっと冷えていく。

田中さんは下の世話を手際よく片付け、寝返りをさせて、シーツをするりと抜き取った。

まとめて大きなビニール袋に入れる。

「替えのパジャマとシーツを、車に取りに行ってくるよ」

そう言い残して、部屋を出ていった。

残された俺は、重い空気に耐えられなかった。

何か話し掛ければ、やり切れなさが少しは和らぐかもしれない。

お爺さんの傍に膝をついて、できるだけ明るく声を掛けた。

「おじいちゃん!はじめまして!」

その瞬間だった。

お爺さんの口が、動いた。

「もう、終わらせてくれないか」

はっきりとした口調だった。

声のトーンが、まるで違う。

「あうあう」と言っていた老人の声ではない。

五十歳くらいの、立派な男の、低くて太い声だった。

俺は息を呑んだまま、立ち尽くした。

布団の中の老人は、もう、また「あうあう」としか言わなかった。

そこへ、田中さんが走って戻ってきた。

息を切らせ、汗びっしょりだった。

「どうしましたか?」

「何でもない。何でもない」

田中さんは、それしか答えなかった。

ガストで聞いた話

その後は、新しいシーツを敷き、パジャマを着替えさせ、ご飯を食べさせた。

帰り際、体を拭くタオルや雑巾を台所で洗い、ベランダに干した。

手すりの外側から、冷たい風が吹き込んでいた。

「さようなら!」

大きな声で挨拶すると、お爺さんは、

「あうあう」

と答えた。

駐車場に降りたところで、田中さんが立ち止まった。

車の鍵を握ったまま、四階のほうを見上げようとして、やめた。

「見ないほうがいいよ」

低い声だった。

そう言われると、人は見てしまうものだ。

俺は、顔を上げた。

夕方の空を背に、四階の端の部屋が見えた。

501号室の老人の部屋だ。

ベランダには、さっき干したタオルと雑巾が揺れていた。

風は、右から吹いている。

なのに、タオルだけが、左へ引かれるように傾いていた。

まるで、手すりの向こうから、誰かが引っ張っているみたいに。

手すりの影が、一瞬だけ、人の肩の形に見えた。

首を振って、もう一度、目を凝らす。

夕日が硝子に反射して、何も見えなかった。

瞬きをした。

次に見たときには、タオルは何事もなかったように、風に揺れていた。

ガストでステーキをご馳走になりながら、田中さんと向かい合った。

少し迷ったが、俺は話の切っ掛けになればと思って、切り出した。

「あの人、俺に『終わらせてくれないか』って言いました」

田中さんの手が、止まった。

それから、堰を切ったように話し始めた。

あの部屋では、不思議なことがいろいろ起こるのだという。

前任のヘルパーは、三か月で担当を外れたそうだ。

辞める直前、ひどく痩せて、窓のほうを見ようとしなくなったらしい。

「あの人はね、根っこは悪い人じゃないんだよ」

田中さんは、前任者のことをそう庇った。

誰が悪いわけでもない。

それがかえって、後味を悪くしていた。

話してよいか迷っていたのは、キリストの教えを疑うように聞こえるからだったらしい。

本当は親父に相談したかったが、まず俺に体験させて、ワンクッション置こうとしたのだ。

田中さんが最も頻繁に見るのは、部屋の外から見上げたときの光景だった。

501号室の老人の、手すりの向こうに立つ姿だという。

夕方が多いらしい。

西日が手すりに差す頃、窓の下の駐車場で、誰かが必ず足を止めるのだそうだ。

顔を上げた人は、みな同じ表情で、同じ方向を見つめている。

そして何も言わずに、足早にその場を離れていく。

ベランダの手すりの向こうへ、あのお爺さんが身を投げる姿が、見えるのだという。

駆け付けても、下には何もない。

部屋に戻ると、お爺さんは何事もなく眠っている。

同じ光景を、前任のヘルパーも、その前の担当者も、主任さんも見ていた。

目撃者は近所にも広がっていた。

今では、この県営マンションの大半が空き家状態になっている。

近所でも、噂になっているそうだ。

そういえば、ベランダの洗濯物を干したとき、手すりの下を覗く気には、どうしてもなれなかった。

生霊という言葉

教会に帰って、親父にこの話をした。

親父は、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。

「生きている人の、生霊というやつだな」

「どうしたら、いいと思う?」

俺は尋ねた。

「どうしようもないだろう。願いを叶えてあげる訳にはいかないのだから」

その夜、俺は眠れなかった。

布団の中で、何度も501号室の老人の声を思い返した。

あれは、本当に老人の声だったのか。

それとも、あの部屋に染みついた誰かの声が、老人の口を借りただけなのか。

答えの出ない問いが、天井の暗がりで回り続けていた。

翌週の日曜、礼拝のあとで、田中さんは親父に深く頭を下げた。

「神父さま、お願いがあります」

親父は、祭壇の前で、静かに首を振った。

祈ることはできる。

けれど、あの老人が望むことを、叶えるわけにはいかない。

そう言う親父の横顔は、いつもより少し老けて見えた。

その日の祈りは、いつもの倍ほど長かった。

長椅子に座った俺の耳には、礼拝堂の高い天井から、あの「あうあう」という声が降ってくるように思えた。

あの低い声が、耳の奥に貼りついていた。

もしお爺さんが老衰で亡くなったとして、あの生霊は、本物の霊になって残るのではないか。

時間は、人のプライドと羞恥心を壊していく。

何もできなくなっても、常識は「生きていなさい」と強いる。

そうして生き続ける人の、ぶつける場所すらない怒りと怨みは、いったい、どんな「負」を作っていくのだろう。

そして今は、高齢化社会だ。

俺たちの未来は、その「負」を避ける術を持っていない。

あの四階の廊下で閉まった半開きのドアの音を、俺は今でも、ときどき夢の中で聞く。

同じ神父の子の体験談として、子猫の里親(神父の子3)も読んでみてほしい。

教会と人の暮らしの境目を描いた話には、自己暗示(神父の子4)もある。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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