天保七年の測量杭

霧の中の過去と現代

これは、俺が三十一歳のときに体験した話だ。

信じてもらえなくて構わない。実際、俺自身いまだに信じきれていない。ただ、あの体験を証明するものがひとつだけ手元にある。それについては最後に書く。

二〇一八年の十月、俺は測量技師として北関東のある町に出張していた。

新しいバイパス道路の建設に伴う用地測量で、町の北側に広がる丘陵地帯の境界を確認する仕事だった。県道から外れた農道を車で二十分ほど走った先にある、雑木林と畑が交互に続くような場所。人家はほとんどない。

十月の半ば、朝から天気が不安定だった。晴れたり曇ったりを繰り返して、午後になると急に霧が出始めた。北関東の丘陵地帯では珍しくないことだが、その日の霧は異常だった。

三メートル先が見えない。

俺は測量機材を片付けて車に戻ろうとした。GPSの測量端末がおかしな挙動をしていた。座標が飛ぶ。現在地が百メートル単位でずれる。電波状況の問題だろうと思ったが、スマホの電波も圏外になっていた。

車はどこだ。農道沿いに停めたはずだが、霧が濃すぎて方向がわからない。

コンパスを出した。方位磁針が、ぐるぐると回っている。北を指さない。

そのとき、トンビが鳴いた。

「ピーヒョロロロ……」

妙に近くで鳴いた気がした。頭のすぐ上で。

その声を聞いた瞬間、足元がぐらついた。立ちくらみのような、でもそれとは明らかに違う感覚。地面そのものが傾いたような。

視界が白くなった。霧ではない。もっと根源的な白。何もかもが溶けて消えていくような白さ。

俺は意識を失った。

目を開けると、空が青かった。

霧は消えていた。仰向けに倒れている。体の下に、稲の刈り株が当たる。刈り取った後の田んぼに横たわっていた。

起き上がって周囲を見回した。

畑と田んぼが広がっている。だが、俺が測量していた場所とは明らかに違う。アスファルトの農道がない。電柱がない。コンクリートの用水路がない。代わりに、土の畦道と木の水路。遠くに藁葺屋根の家が点在している。

俺は最初、映画のセットか何かに迷い込んだのだと思った。時代劇の撮影でもしているのか。でも、どこを見てもカメラもスタッフもいない。

スマホを確認した。電源は入っているが、圏外。時刻表示は「14:23」。日付は「2018年10月16日」。充電は六十二パーセント。

測量端末も確認した。座標はめちゃくちゃな数値を表示して、エラーを吐いている。

畦道を歩いた。五分ほど歩くと、小さな集落が見えてきた。五、六軒の藁葺きの家。庭先で女性が洗濯をしている。着物姿だ。

「すみません」

声をかけると、女性が顔を上げた。そして俺の姿を見て、悲鳴を上げた。

無理もない。俺は作業着にヘルメット、安全ベストという格好だった。江戸時代の人間から見れば、異星人のようなものだろう。

……江戸時代?

なぜ俺は「江戸時代」と思ったのだろう。その時点では、まだ確証はなかった。ただ、直感的にわかっていた。これは映画のセットではない。本物だ、と。

女性の悲鳴を聞いて、家の中から男たちが出てきた。三人。一人は刀を腰に差している。

言葉が通じるか不安だったが、意外なことに、話は通じた。方言が強くて聞き取りにくい部分はあったが、日本語だった。

「おめぇ、どこから来た。何もんだ」

刀を差した男が警戒心むき出しで聞いてきた。

「東京から……いや、江戸から来ました」

咄嗟にそう答えた。東京という地名は通じないだろうと思った。

「江戸? 江戸もんが何でこんな格好しとるんだ。その妙ちくりんな被りものは何だ」

ヘルメットのことだ。俺は慌ててヘルメットを脱いだ。

「旅の途中で道に迷いまして。ここは何という土地でしょうか」

「下野国安蘇郡の田沼じゃ」

下野国。現在の栃木県。田沼。佐野市の旧田沼町あたりか。俺が測量していた場所から、地理的にはそう遠くない。

「今は何年ですか」

「何を阿呆なことを聞く。天保七年に決まっとろう」

天保七年。西暦一八三六年。

百八十二年前。

混乱する俺を、集落の庄屋が引き取ってくれた。庄屋は五十がらみの穏やかな男で、名を伊兵衛と言った。俺の奇妙な格好と持ち物に興味を示しつつも、追及はしなかった。

「訳ありのようじゃな。まあ、飯でも食え」

出されたのは、粟と麦の混じった飯と、味噌汁、漬物。天保七年といえば天保の大飢饉のまっただ中だ。この地域では、まだ深刻な飢餓には至っていないようだったが、それでも食事は質素だった。

俺は庄屋の好意に甘えながら、状況を整理しようとした。

タイムスリップした。そんなことがあり得るのか。あり得ないはずだ。でも、目の前の現実は否定しようがなかった。

スマホの写真機能で周囲を撮影した。これが証拠になるかもしれない。充電が切れたら終わりだが、今できることはやっておくべきだと思った。

翌日、伊兵衛に連れられて村を案内された。そのとき、村はずれの小屋に一人の男が住んでいることを知った。

「あの小屋の男は、十年前にお前と同じように現れた」

伊兵衛がそう言った。

俺は小屋を訪ねた。

中にいたのは、四十代半ばに見える痩せた男だった。髷を結い、百姓の着物を着ているが、顔立ちが現代人だった。もっと正確に言えば、現代人の痩せこけた姿だった。

男は俺を見て、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

「あんた……平成の人?」

男の名は木下さんといった。埼玉県に住んでいた会社員で、二〇〇八年にこの時代に来たという。

「ドライブで栃木に来てて、山道で霧に巻かれた。トンビが鳴いて、気がついたらここにいた」

俺と同じだ。トンビの声。霧。そして気づいたら江戸時代。

「十年……十年もここにいるんですか」

木下さんは無表情で頷いた。

「最初の二年は毎日、元の場所に行った。俺が倒れていた田んぼの場所。霧が出るたびに立ってみた。トンビの声を聞くたびに目を閉じた。でも、何も起きなかった」

木下さんの目は、何かを諦めた人間の目だった。絶望の先にある、静かな受容。

「帰れないってことですか」

「わからない。帰れるかもしれない。でも、法則がわからない。何がきっかけで来て、何がきっかけで帰れるのか。全部偶然なのか、何か条件があるのか」

木下さんは庄屋の伊兵衛に助けられ、最初の数年は言葉や風習を覚えることに必死だったという。今では農作業もこなし、村の一員として生活している。

「家族は?」

「妻と、娘がいた。娘は当時三歳で……今は十三歳か」

木下さんの声が掠れた。

「写真も持ってないんだ。財布の中の一枚だけ。もう擦り切れてほとんど見えない」

俺はスマホを取り出した。

「これ、カメラがついてるんです。写真撮れます。木下さんの写真、撮りましょうか」

木下さんの目が、初めて揺れた。

「……撮ってくれるか」

俺は木下さんの写真を撮った。小屋の前で、少しだけ笑った木下さんの写真を。

木下さんは、帰れるかもしれない方法について、ひとつだけ仮説を持っていた。

「俺が来た場所と、あんたが来た場所。多分、同じ場所なんだ。村の北東、田んぼが終わって雑木林に入る手前あたり。あそこには昔から妙な言い伝えがある」

「言い伝え?」

「この村の人間は、あの場所を『かくり野』と呼んでる。隠り野。時々、霧が出ると景色がおかしくなるらしい。見たことのない建物が見えたり、聞いたことのない音が聞こえたりする。村の人間は近づかない」

「じゃあ、そこに行けば」

「霧が出たときだけだ。しかも、戻れる保証はない。俺は何度も試した。でもな、あんたは来たばかりだ。来たばかりのうちなら、まだ繋がりが残っているかもしれない」

木下さんは俺の目をまっすぐに見た。

「明日の朝、霧が出る。この時期は朝霧が多い。あんた、試してみろ」

その夜、俺は木下さんの小屋で過ごした。

囲炉裏の火を眺めながら、木下さんは十年間の話をしてくれた。最初の絶望。言葉の壁。食べ物の違い。病気になったとき、医者もいない中で死にかけたこと。それでも、村の人間たちが助けてくれたこと。

「伊兵衛さんがいなかったら、俺はとっくに死んでた」

木下さんは火を見つめたまま言った。

「ここでの生活は、悪くない。仲間もいる。飯も食える。ただ……」

木下さんは言葉を切った。

「娘の顔が思い出せなくなってきた」

「帰れたら、妻に伝えてくれ」

朝霧が出る前、木下さんが言った。

「木下は生きている。帰る方法を探している、と」

「木下さんも一緒に行きましょう」

「いや。俺が行くとダメな気がする。何度も試してダメだった。でも、あんたは来たばかりだ。窓が開いてるうちに帰れ」

木下さんは、俺にもうひとつ渡した。

小さな木の杭だった。長さ三十センチほどの、削りかけの杭。表面に、墨で何か書いてある。

「測量技師なんだろ。これ、俺がこっちに来てから作った。元の時代のことを忘れないように、測量の真似事をしてたんだ。方位と距離を刻んでる」

杭の表面には、「北三十七度東 百二十間」と墨書きされていた。江戸時代の単位で書かれた測量記録。

「俺がいた証拠だ。持っていってくれ」

夜明け前、霧が出た。

俺は木下さんに教えられた場所、村の北東の雑木林の手前に立った。濃い霧が足元から這い上がってくる。

木下さんは、二十メートルほど離れた場所に立っていた。俺を見送るように。

「木下さん! 必ず伝えます!」

俺は叫んだ。木下さんが何か答えた気がしたが、霧に吸い込まれて聞こえなかった。

トンビが鳴いた。

「ピーヒョロロロ……」

足元がぐらついた。あの感覚。地面が傾く感覚。

白。

目を開けると、アスファルトの上に倒れていた。

農道だった。俺が測量に使っていた農道。二十メートル先に、俺の車が停まっているのが見えた。

体を起こした。全身が痛い。頭がぼんやりしている。手元を見ると、作業着は泥だらけだが、江戸時代で着ていた同じ作業着だった。

スマホを確認した。日付は「2018年10月18日」。二日が経過していた。時刻は「6:47」。

右手に、木下さんの測量杭を握りしめていた。

車に戻り、会社に連絡した。二日間連絡が取れなかったため、捜索届が出される寸前だったらしい。上司に「測量中に転倒して意識を失っていた」と説明した。病院で検査を受けたが、異常は見つからなかった。

木下さんのことを調べた。

スマホで撮った写真はちゃんと残っていた。江戸時代の風景。藁葺きの家。畦道。そして木下さんの顔。

ただ、写真をよく見ると奇妙なことに気づいた。風景写真は全体的にセピアがかっている。まるでフィルム写真のように。デジタルカメラでこんな色味になるはずがない。

木下さんの名前と失踪時期を手がかりに調べた。二〇〇八年に埼玉県で行方不明になった木下という男性。見つかった。

木下拓也。当時三十五歳。二〇〇八年十月十四日、栃木方面へドライブに出かけたまま行方不明。車は佐野市内の山道脇で発見。本人は発見されず。

妻の名前も、娘の名前も、木下さんが話してくれた通りだった。

木下さんの奥さんに連絡を取ったのは、帰還から一週間後だった。

どう説明すればいいのかわからなかった。「ご主人は江戸時代で生きています」とは言えない。言えるわけがない。

結局、俺は手紙を書いた。

「偶然、ご主人に縁のある場所を訪れた際、ご主人が生きているという不思議な確信を得ました。根拠を示すことはできません。ただ、ご主人は元気でした。帰る方法を探しています」

曖昧で、無責任な手紙だと思った。でも、木下さんとの約束を果たすにはこれしかなかった。

手紙と一緒に、木下さんの写真をプリントして同封した。

二週間後、返事が来た。

「写真の男性は、間違いなく夫です。十年分老けていますが、夫です。あの人が今どこにいるのか、教えていただけませんか」

俺は二通目の手紙で、すべてを書いた。信じてもらえないかもしれないが、体験したことのすべてを。

奥さんから三通目の手紙が届いたとき、便箋が涙で波打っていた。

「信じます。主人は、測量が好きでした。脱サラして測量の仕事をしたいと言っていました。あの人が測量杭を作っていたという話を読んで、夫だと確信しました」

あれから七年が経った。

木下さんの測量杭は、今も俺の仕事机の引き出しにある。「北三十七度東 百二十間」と刻まれた、手作りの木の杭。

木材の年代を調べてもらったことがある。大学の研究室に持ち込んで、年輪年代学の専門家に分析してもらった。

結果は、「一八二〇年代から一八三〇年代に伐採された木材と推定される」だった。

天保七年は一八三六年。年代は一致する。

去年の秋、あの場所をもう一度訪れた。

バイパス道路は完成していて、丘陵地帯の景色は一変していた。雑木林は伐採され、畑の一部は造成地になっている。

木下さんが「かくり野」と呼んだ場所は、ちょうどバイパスのインターチェンジになっていた。

工事現場を遠くから眺めていたとき、作業員の一人が何かを掘り出しているのが見えた。

土の中から出てきたのは、古い木の杭だった。

俺は思わず駆け寄った。

「それ、見せてもらえませんか」

作業員は不思議そうな顔をしながらも、杭を渡してくれた。

泥を拭うと、かすかに文字が読めた。墨はほとんど消えかけていたが、確かに読めた。

「南三十七度西 百二十間」

俺が持っている杭と、対になる方位。同じ距離。

木下さんは、もう一本の杭を埋めていたのだ。俺がいなくなった場所に。百八十二年前に。

この杭は、木下さんがまだあの時代で生きていた証拠だ。あるいは、生きていた、という過去形の証拠かもしれない。天保七年から数えて、もう百八十年以上が経っている。木下さんが今もあの時代にいるとすれば、とっくに寿命を迎えているはずだ。

でも、俺にはわからない。時間は、あの場所では本当に一方向にだけ流れているのだろうか。

木下さんの娘さんは、今年で二十歳になるはずだ。

奥さんとは今でも年に一度、手紙のやり取りをしている。娘さんは大学に進学したそうだ。専攻は歴史学。江戸時代の研究をしていると聞いた。

偶然なのか、それとも。

俺は時々、あの丘陵地帯に出かける。今はもうバイパスが通って、かつての田んぼの面影はない。でも、霧の出る朝に行くと、アスファルトの下から、かすかに稲の匂いがする気がする。

トンビは、まだあの辺りを飛んでいる。

「ピーヒョロロロ……」

その声を聞くたびに、俺は空を見上げる。

木下さん、元気ですか。

娘さん、大きくなりましたよ。

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