
大学二年の夏、俺は駅前のコンビニで深夜バイトを始めた。
シフトは二十二時から翌朝六時まで。週四日、一人体制。面接のとき店長に「夜は暇だから楽だよ」と言われた。実際、深夜一時を過ぎると客はほとんど来ない。たまに酔っ払いのサラリーマンが千鳥足で缶ビールを買いに来るか、部活帰りの高校生がアイスを選んでいるくらいだった。
一週間もすると深夜のコンビニに慣れた。蛍光灯の下で品出しをして、床にモップをかけて、レジの前でスマホを見て、また品出し。怖いことなんて何もなかった。
ただ、一人だけ気になる客がいた。
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毎晩、きっちり午前三時に来る男だった。
五十代くらい。グレーのジャケットに白いシャツ、少し古い感じの革靴。髪はきちんと撫でつけてある。深夜三時にしては身なりが整いすぎていた。飲み帰りでもなく、夜勤帰りという雰囲気でもない。ただ、丁寧な人だった。
買うものはいつも同じ。肉まん一つと、缶のお茶。温かいほう。
レジに品物を置くと、小さく会釈をする。
「これ、お願いします」
声は穏やかで、丁寧だった。どこか懐かしいような声だと思った。
会計は毎回、ぴったり小銭で払う。一円の端数まで正確に。レシートは要らないと首を振る。
「どうも」
そう言って、自動ドアから出ていく。毎晩、寸分たがわず同じ流れだった。
最初の一ヶ月は、ただの常連だと思っていた。夜型の生活をしている人なんていくらでもいる。こっちだって午前三時にレジに立っているのだから、お互い様だ。
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異変に気づいたのは、八月のある夜だった。
店長に頼まれて防犯カメラの映像を確認する機会があった。前日の深夜帯に万引きの疑いがあるとかで、二時から四時までの映像を早送りで見ることになった。
二時五十五分。店内は無人。俺がレジの奥で品出しの段ボールを開けている。
三時ちょうど。自動ドアが開く。
誰も映っていない。
ドアだけが開いて、数秒後に閉まる。レジの前には誰も立っていない。肉まんのケースに手を伸ばす人影もない。
なのに、画面の中の俺が、誰かに向かって話しかけている。肉まんを袋に入れている。お釣りを渡している。頭を下げている。完全に一人芝居だった。
背筋が冷たくなった。
レジの記録を見た。三時〇〇分の会計は確かに記録されている。品目も金額も合っている。レジは嘘をつかない。
ただ、カメラには客が映っていなかった。
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それを知ってから、俺は三時が近づくと少し身構えるようになった。二時四十五分を過ぎると、品出しの手が止まる。レジの前に立って、入口のドアを見つめる。心臓がうるさい。
三時。ドアが開く。
グレーのジャケットの男が入ってくる。いつも通りの穏やかな顔。肉まんを一つ取り、缶のお茶を持ってレジに来る。
「これ、お願いします」
同じ声。同じ小銭。同じ会釈。
怖かった。でも、怖いと同時に、なんだか拍子抜けした。だって、この人は何もしない。肉まんを買って、お茶を買って、きっちり払って帰るだけなのだ。万引きすらしない。
試しに話しかけてみた。
「毎晩ありがとうございます。お仕事帰りですか」
男は少し照れたように笑った。
「まあ、そんなところです」
「この辺にお住まいで」
「ええ、まあ。長いこと」
それ以上は聞けなかった。「長いこと」がどのくらいなのか、聞いてはいけない気がした。
※
九月に入って、俺は深夜の眠気に負けることが増えた。試験期間が終わった安心感と、夏の疲れが重なっていた。
ある朝、カウンターに突っ伏して目を覚ますと、レジの横に肉まんの代金がきっちり置いてあった。小銭が一円の狂いもなく、きれいに並べてある。肉まんのケースは一個分空いていて、冷蔵棚のお茶も一本減っていた。
小銭の横に、小さなメモが挟まっていた。
「お疲れさまです。勝手にやりました。お釣りは結構です」
丁寧な、少し古風な筆跡だった。
翌日も、その翌日も同じだった。俺が寝ている間に、男は自分で商品を取り、きっちり代金を置いて帰っていく。お釣りはいつも多めに置いてある。十円か二十円、必ず余分だった。
店長にこのことを相談しようかと思った。だが何と説明すればいいのか分からなかった。「防犯カメラに映らない常連客がいるんですけど、自分でお会計を済ませて帰っていきます」なんて言ったら、クビになるか病院を紹介されるかのどちらかだ。
何より、実害がなかった。むしろ俺が寝落ちしても売上が立っている。ある意味、助かっていた。
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十月のある夜、起きていられた日に、俺は思い切って聞いてみた。
「あの、いつも俺が寝ちゃってるとき、セルフでやってくださってるみたいで。すみません」
男は穏やかに笑った。
「いえいえ。若い人は寝るのが仕事みたいなものですから」
「お釣り、多く置いてくださってますよね。ちゃんとお返ししないと」
「いいんですよ。寝てるところを起こすのも悪いし、ちょっとした気持ちです」
幽霊にチップをもらっている。そう気づいたとき、俺は笑いそうになった。怖い話のはずなのに、まったく怖くない。
※
結局、俺はそのバイトを十一月まで続けた。
男は最後の日も三時に来た。その日は珍しく俺がきちんと起きていた。
「今日で最後なんです。バイト、辞めることになって」
男はいつもの穏やかな顔で頷いた。
「そうですか。お疲れさまでした」
肉まんと缶のお茶を買い、いつもの小銭を置いた。少しだけ間があって、男は言った。
「あなた、良い店員さんでしたよ」
「いや、寝てばっかりでしたけど」
「寝ていても、ちゃんと温かい肉まんを用意してくれていた。それだけで十分です」
自動ドアが開いて、男は夜の中に消えていった。
※
後任のバイトは、翌週から入った後輩の山田だった。引き継ぎのとき、俺は迷った末に言った。
「三時に来る常連がいるから、肉まん一個は切らさないでおいて」
山田は首を傾げた。
「三時? そんな時間に来る人います?」
「来る」
俺はそれだけ言った。防犯カメラの話はしなかった。
一ヶ月後、山田から連絡が来た。
「先輩、あの三時の人、マジでいますね。めちゃくちゃ礼儀正しいっすね」
「だろ」
「でもなんか、防犯カメラに——」
「うん。それは気にすんな」
あの人は今日も三時に、肉まんとお茶を買っているのだろう。きっちり小銭を揃えて。