
三月の末に、私は限界だった。
締め切りが重なり、四日間ほとんど眠れない状態が続いて、ある夜ふと「消えたい」という言葉が頭に浮かんだ。自分を傷つけたいとか、そういう話じゃない。ただ、誰にも連絡がとれない場所で、完全に孤独になりたかった。
旅行サイトで条件を絞った。「Wi-Fiなし」「携帯電波弱」「一人部屋あり」。
そこで出てきたのが、長野の山間にある小さな温泉旅館だった。写真は古くて、口コミはほぼなかった。でも、だからよかった。
その日のうちに予約を入れて、週末に出発した。
※
新幹線を乗り継いで、さらに在来線で一時間。最寄り駅は無人駅で、ホームに降り立つと、空気の冷たさが肌に刺さった。
送迎の車が来ていた。白髪の老人が無言でドアを開け、そのまま山道を走った。十五分ほどで、杉林の奥に古い三階建ての建物が見えてきた。
玄関を入ると、廊下の奥から足音がして、割烹着を着た年配の女将が現れた。
「お帰りなさいませ」
一瞬、引っかかった。
「いらっしゃいませ」ではなく、「お帰りなさいませ」。
でも旅館によっては客に対してそういう言い方をするところもある、と聞いたことがあった。私は気にしないことにした。
帳場に案内されて、宿帳に名前と住所を書いた。女将はその紙をちらりと見て、「ではお部屋へ」と歩き出した。名前を声に出して読む様子はなかった。
二階の突き当たりの和室だった。窓の外に庭と湯煙が見え、すこしだけ気持ちが楽になった。
荷物を解きながら、文机の引き出しを確認した。旅先ではいつも引き出しを開ける癖がある。以前、前の客の忘れ物が入っていたことがあって、それからの習慣だ。
引き出しの中には、旅館のメモ用紙が数枚と、小さな紙片が一枚入っていた。
丁寧な毛筆で、こう書かれていた。
「窓際のお席がお好みでございます。お刺身はお控えくださいますよう」
名前は書かれていなかった。
前の宿泊客の情報が残っていたのだろうか、と思った。でも不思議なことに、窓際の席は私の好みと一致していたし、刺身はアレルギーではないが得意ではない。偶然だろう、と自分に言い聞かせて、浴衣に着替えて温泉へ向かった。
露天風呂は貸し切り状態だった。湯けむりの向こうに山の稜線が見え、一時間ほどぼんやりと浸かった。脱衣所に戻ってタオルで髪を拭きながら、私は初めて「来てよかった」と思った。
夕食は一階の食事処で出た。広い部屋に私一人だった。案内された席は、窓に面した場所だった。
刺身は出なかった。
女将が燗酒を運んできたとき、私は聞いてみた。
「あの、部屋の引き出しにメモが入っていたんですが」
「ああ」と女将はうなずいた。「先代の書き付けでございます。母がお客様のことを細かく記録しておりましたので。十二年前に亡くなりましたが、几帳面な人でして」
「先代の……ということは、前の常連さんの情報ということですか」
「そうでございます」
それで納得した。前に同じ部屋に泊まった誰かの記録が、そのまま残っていただけだ。
その夜は、久しぶりによく眠れた。
※
翌朝、廊下で女将と顔を合わせた。
「昨夜はよくお休みになれましたか」
「ええ、おかげさまで」
女将はかすかに目を細めた。「そうでございますか。夜中にお歩きになるかと存じましたが、今夜はお静かでしたね」
私は立ち止まった。
「歩くって……私のことですか」
「はい。夜のお散歩が恒例でいらっしゃいますから。お一人で廊下を何度も行き来されることが多くて」
「いえ、昨夜は九時には部屋に戻って、そのまま朝まで出ていません」
女将は不思議そうな顔をした。「左様でございますか」
それ以上何も言わなかった。私も聞けなかった。
朝食を食べながら、ずっと考えていた。
「恒例でいらっしゃいますから」という言い方が、どうしても頭から離れなかった。
※
チェックアウトの朝、帳場に向かうと、昨日いなかった若い男性スタッフが立っていた。
「ありがとうございました。またいつでもいらしてください」
領収書を受け取って、私は気づいた。
印刷された名前は、私の名前だった。下の名前まで正確に。
「あの、私の名前はどこで」
「チェックイン時のご記入から」とスタッフは言った。
帳場の奥を見ると、古い台帳が一冊置かれていた。私が書いた紙は、どこにも見当たらなかった。
送迎車の中で、もう一度考えた。
チェックインのとき、私は宿帳に名前を書いた。でも女将が私の名前を確認した様子はなかった。荷物を持って、先を歩いて、部屋の前でドアを開けた。一度も名前を口にしなかった。
それなのに、「恒例でいらっしゃいます」という言葉が出てきた。
私がその旅館に来たのは、あれが初めてのはずだった。
無人駅に着いて、電車を待ちながら旅行サイトのページを開こうとした。
その旅館のページが、見つからなかった。
予約確認メールを辿ると、リンク先は「このページは存在しません」と表示されていた。
私はスマートフォンを鞄にしまって、線路の先を見た。
よく眠れた旅だったことは、確かだった。
ただ、何かに迎えられていたような気がして、今でもうまく説明できない。