母の面影
公開日: 輪廻転生に関する話

うちは母子家庭だった。
母ちゃんは地元のスーパーでパートとして働きながら、ひとりで俺を育ててくれていた。
親父が何をしていた人なのか、俺には分からない。
というより、そもそも会った記憶すらなかった。
気がついた時には、古びた小さな集合住宅の一室で、母ちゃんと二人きりの生活が始まっていた。
俺は重度の小児喘息を患っており、毎晩寝入りばなや夜明けの、気温と体温の差が激しくなる時間帯になると、決まって発作が出た。
母ちゃんはいつも、吸入器を俺の口に咥えさせながら、背中をさすってくれた。
時には、口から泡を吹いて呼吸ができなくなることもあった。
そんなとき、母ちゃんは俺を抱きかかえて、タクシーをつかまえて救急病院へ連れて行ってくれた。
※
ある日――まだ俺が小学校に上がったばかりの頃の話だ。
夜中に自分の激しい咳で目を覚まし、母ちゃんが部屋の電気を点けた。
あまりの苦しさに、呼吸が追いつかず、咳も止まらず、俺はそのまま意識を失った。
※
それから何年も経って、ある日、家族四人で隣の市の有名な祭りを見に行くことになった。
父さんと母さん、それに四歳になったばかりの、やんちゃな妹と一緒に車に乗り込んだ。
土曜の午後、お祭りを見て大いに楽しんだ帰り道、
「夜に何か食べようか」
と話になり、高速道路の入り口近くにあるスーパーに車を停めた。
※
妹が「きゃー!」と叫んで店内に駆け込むと、父さんと母さんが「こらこら」と追いかけて行った。
俺はもう小学生だったから、自分の食べたいものを選ぼうと惣菜コーナーに向かった。
すると、三角巾をつけたおばさんが、商品の値札を貼り替えていた。
その横顔を見て、俺は、息を呑んだ。
――母ちゃん?
白髪混じりで、少し疲れた表情のおばさん。
俺は思わず声に出しそうになった。
『母ちゃん……?』
でも、言葉にならなかった。
おばさんは、俺の方を見て、少し微笑んだ。
「どうしたの、坊や? 迷子かな?」
その声は、どこか懐かしい響きだった。
俺は、声にならない声で叫んでいた。
『俺だよ。あの頃、背中をさすってもらっていた、あの時の子どもだよ。母ちゃん…!』
どう言えば伝わるんだろう。名前? 何か思い出してもらえる言葉?
でも、何も浮かばない。言葉にならない。
おばさんは、俺の様子を気にかけるように優しく微笑んで、もう一度、
「大丈夫?」と聞いてきた。
そのとき、不意に後ろから腕が伸びてきて、俺をぎゅっと抱きしめる小さな力を感じた。
「お兄ちゃん、いたー!」
振り返ると、妹が満面の笑みを浮かべていた。
そしてその後から、父さんと母さんもやって来た。
「なんか食べたいもの決まったか?」と父さんが尋ね、
母さんが俺の頭を優しくくしゃくしゃと撫でた。
「お菓子も買っておこうか?」
俺は振り返り、母ちゃん――いや、あの三角巾のおばさんが、
静かに両親に一礼して、奥のほうへと歩いて行くのを見つめた。
その後ろ姿を、しばらく見送ってから、俺は小さな声で言った。
「うん、そうだね」
※
あれは現実だったのか、それとも幻だったのか。
でも、確かに、あの時会ったのは母ちゃんだった。
母子家庭で育ったあの頃の、俺の母ちゃんだった。
きっと、あの時発作で意識を失ったとき、俺は一度、この世界を離れていたのかもしれない。
そして、もう一つの時間の中で、母ちゃんに育てられた記憶だけを持って、今の人生を生きているのかもしれない。
※
高校生になってから、あのスーパーにもう一度行ってみた。
けれど、店はすでに閉店しており、建物も取り壊されていた。
あの再会以来、もう二度と彼女の姿を見ることはなかった。
だけど、あの時、どうしても伝えたかった言葉は、今でも心の中にある。
「母ちゃん、ありがとう」
これは、確かに僕が体験した、本当の話です。