祖母の縫いかけ

和室の縫い物と冬の庭

祖母が亡くなったのは、去年の十一月のことだった。享年八十七。長く患っていたわけではなく、いつも通り朝ごはんを食べて、いつも通り縁側に座って、そのまま静かに眠るように逝ったと母から聞いた。

私は祖母の家に行くのが好きだった。都心から電車で四十分ほどの郊外にある、庭付きの古い一軒家。もう五十年以上前に祖父が建てた家だ。祖父は私が生まれる前に亡くなっていたけれど、家のあちこちに祖父の気配は残っていた。玄関脇の靴べら立て、廊下の柱に刻まれた傷、そして和室の壁にかかった鯉の絵。

祖母が亡くなって三ヶ月ほど経った二月、私は遺品整理のために一人で祖母の家を訪れた。母は足を悪くしていて、父はもう他界していたから、孫の中で一番近くに住んでいる私に白羽の矢が立ったのだった。

和室の押入れを開けると、古い布団や座布団の奥に、見覚えのある裁縫箱があった。桐の箱で、蓋に小さな椿の花が焼き印で押してある。子どもの頃、祖母がこの箱を開けるのを隣で見ているのが好きだった。針山に刺さった待ち針の頭が、色とりどりのガラス玉みたいできれいだった。

蓋を開けると、糸巻き、指ぬき、小さな鋏。それから、折り畳まれた布が一枚入っていた。広げてみると、子ども用の甚平だった。白地に藍色の朝顔が散った生地で、袖と身頃は縫い上がっていたけれど、裾の始末がまだ途中だった。針に糸が通したまま、布に刺さっている。

裁縫箱の底に、祖母の字で小さなメモが挟まっていた。「美咲ちゃんの 三さいのなつに」。美咲というのは、私の娘の名前だ。今年の夏にちょうど三歳になる。

祖母は美咲に会ったことがなかった。美咲が生まれたのは一昨年の八月で、ちょうど祖母が体調を崩し始めた頃だった。写真は何度も送ったし、テレビ電話も試みたけれど、祖母は機械が苦手で、結局画面越しにぼんやりとした顔を映すだけで終わってしまった。

この甚平は、きっと美咲のために縫っていたのだ。完成させられないまま。

私は甚平を元通りに畳んで裁縫箱に戻し、箱ごと持ち帰ることにした。

翌週、また遺品整理のために祖母の家を訪れた。台所の食器を段ボールに詰めていると、ふと和室のほうから、かすかに「カチ、カチ」という音が聞こえた気がした。鋏で布を切るような、あるいは、硬いものが触れ合うような音。

気のせいだと思って作業を続けた。けれど、その日の帰り際、玄関で靴を履いていると、和室のほうからかすかに甘い匂いが漂ってきた。祖母がいつもつけていた練り香水の匂いだった。金木犀を薄くしたような、あの懐かしい香り。

思わず振り返ったけれど、和室には誰もいなかった。午後の日差しが障子を通して畳を温めているだけだった。

その夜、家に帰ってから裁縫箱を開けてみた。何気なく甚平を広げて、はっとした。裾の縫い目が、前回見たときよりも明らかに進んでいた。

私は裁縫をしない。針と糸を持つのは、子どものゼッケンを縫い付けるときくらいだ。夫も、もちろんそんなことはしない。美咲はまだ二歳で、裁縫箱に手が届くことすらない。

見間違いだろうか。いや、前回は身頃の左脇あたりで針が止まっていた。それが今は、裾の折り返しの半分近くまで進んでいる。糸の色も、生地に合った藍色の絹糸で、縫い目は細かく均一だった。祖母の縫い方そのものだった。

怖いとは思わなかった。むしろ胸の奥がじんわりと温かくなって、涙が出そうになった。

次の週末にも祖母の家に行った。今度は裁縫箱を持って。和室に箱を置いて、台所で食器の整理を続けた。二時間ほど作業をして、和室に戻ると、あの金木犀の香りがうっすらと漂っていた。

裁縫箱を開けた。甚平の裾は、さらに縫い進められていた。あと数センチで完成というところまで来ていた。

私はそのまま裁縫箱を和室に置いて帰った。

一週間後、私は美咲を連れて祖母の家に行った。美咲にとっては初めての「ひいおばあちゃんの家」だった。玄関を入ると、美咲は靴を脱ぐなり、迷いなく廊下を歩いて和室に向かった。この家に来たことは一度もないのに、まるで道を知っているみたいに。

和室の襖を開けると、畳の上に裁縫箱があった。蓋は閉じられていた。

美咲が箱に近づいて、小さな手で蓋を開けた。中には、きれいに畳まれた甚平が入っていた。裾の始末はすっかり完成していて、縫い目のどこにも乱れはなかった。針は針山に戻され、鋏もきちんと元の位置に収められていた。

甚平の下に、もう一枚メモが挟まっていた。祖母の字だった。前に見つけたメモよりも少し震えた筆跡で、こう書かれていた。

「まにあった」

美咲は甚平を広げると、自分の体に当てて、にっこり笑った。朝顔の柄が、彼女の小さな体にぴったりだった。

「おばあちゃん、くれたの?」

美咲がそう言った。私は祖母のことを美咲に話したことはなかった。写真も見せたことがない。けれど美咲は、和室の壁にかかった鯉の絵の横あたりを見上げて、もう一度言った。

「おばあちゃん、ありがと」

和室に、金木犀の香りがふわりと広がった。二月の、花の季節にはまだ遠い午後のことだった。

あの甚平は今、うちのタンスにしまってある。今年の夏、美咲に着せるつもりだ。袖を通したとき、あの金木犀の香りがまたするかもしれない。それが少しだけ楽しみで、少しだけ怖い。

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