
これは去年の秋、実家に帰省したときの話だ。
俺は二十八のサラリーマンで、実家は中国地方の山あいにある小さな集落にある。盆と正月しか帰らないのが常だったけど、その年は珍しく秋にも一度戻った。特に理由はなく、なんとなく疲れがたまってたし、久々に山の空気でも吸いたいと思っただけだ。
実家は山を背負うようなかたちで建っていて、裏手にはすぐ雑木林が始まる。子供の頃から「裏山には入るな」と親に言われ続けてきたが、理由はよくわからなかった。危ないから、というのが親の答えだったけど、崖があるとか道がないとか、具体的なことは何も教えてもらえなかった。子供のうちはそういうもんだと思って、素直に従っていた。
帰省して二日目の昼過ぎ、母は買い物に出ていた。
俺はぼんやりと縁側に座って庭を眺めていたのだが、なんとなく立ち上がって、庭の奥の方へ歩いていた。裏山の入り口には竹の柵みたいなものがあって、子供の頃はそこで必ず引き返していた。でもその日は、なぜか柵を乗り越えた。大人だし、少しくらい入っても問題ないだろうという気持ちと、もう一つ、なんか呼ばれてるような感じがして。今思えば、その感じ自体がおかしかったと思う。
最初のうちは普通の雑木林だった。
落ち葉の積もった地面、低い枝が顔にかかる道。秋の午後の光が木の間から差し込んで、悪い雰囲気はなかった。ただ、鳥の声が聞こえなかったのが今になって気になる。山の中なのに、虫も鳥も、何の音もしていなかった。自分の足音だけが、落ち葉の上に響いていた。
二十分ほど歩いたころ、木が急に開けた。
※
視界が広がった先に、集落があった。
古い木造の家が十軒ほど、細い路地を挟んで並んでいた。瓦屋根は苔が生えていたけど、崩れているわけじゃない。庭には柿の木があって、熟した実がいくつかなっていた。路地の真ん中に古い井戸もあった。
廃村というより、今も誰かが住んでいるみたいな雰囲気があった。
一軒の玄関先に、麦わら帽子が置いてあった。縁側には洗濯物が干してあった。どこかから、焦げたような、飯を炊くような、うっすらとした匂いがしていた。俺はしばらく路地の入り口で立ったまま、中の様子を眺めていた。
でも、人がいなかった。
声をかけようとしたけど、なんとなくできなかった。路地を少し歩いていると、奥の方に鳥居が見えた。集落の一番奥に、小さな神社があるようだった。なんとなく引き寄せられて、近づいていった。
鳥居は古くて、朱色がかなり剥げていた。石段が五段ほど続いて、上に拝殿らしき建物があった。石段の脇に、石灯籠が二基立っていた。どちらも苔むしていたけど、ちゃんと立っていた。
石段を上り始めたとき、急に足が重くなった。
頭の中に、「入ったらいけない」という言葉が浮かんだ。誰かに言われたわけじゃない。でも、そう思った瞬間から、体が前に進もうとしなかった。なんというか、空気が変わった感じ。石段の向こう側の空気が、こちら側とは違う種類のものになっている気がした。
拝殿の前に、人の形をした何かが立っていた。
正確には、何かが立っているように見えた。距離があって、暗くて、はっきり見えなかった。ただじっとこちら側を向いているような気がして、俺はその場に立ったまま、しばらく目を細めて見ていた。やがてそれが一歩こちらへ動いたような気がして——気がしただけかもしれないが——反射的に来た道を引き返した。
歩きながら、気づいたら走っていた。集落を抜けて、林の中に入って、それでも足が止まらなかった。柵が見えたとき、初めて息を止めていたことに気づいた。
※
実家に戻ったとき、母が帰っていた。
俺の顔を見て、「どこ行ってたの」と言った。「裏山、少し歩いてきた」と答えたら、母の顔色が変わった。
「集落、見たか」
俺は頷いた。
「神社には、入らんかったろうね」
首を横に振ると、母は小さく息を吐いた。「よかった」と言った。
聞いたら、あの集落は昔本当にあったらしい。でも五十年以上前に、住人がそろっていなくなった。ある晩のうちに全員いなくなって、荷物も家財も何もかも残ったまま、一人もいなくなったと。その後、誰も近づかないようにと地域で取り決めをして、入り口に柵を作ったのだそうだ。
「あそこに入ったやつは、帰ってこなかったって話もある」
母はそれだけ言って、それ以上は何も言わなかった。台所に戻って、夕飯の支度を始めた。
俺はしばらくの間、縁側に座ったまま裏山の方を見ていた。木がうっそうとして、中は何も見えなかった。あの煙の匂いが本当にしていたのか、今になってもわからない。洗濯物が干してあったのも、今思えば確認しに戻れなかった。
神社の前で見たものが何だったか、俺は今でもわからない。あれが人だったのか、人の形をした何かだったのか、そもそも何も見ていなかったのか。
ただ、あのとき石段を上っていたら、今こうして書いてはいないかもしれないとは思っている。