
それは、ある晩のことだった。
京都駅からJR線に乗り、長岡京へ向かっていた私は、仕事疲れもあってか、ついウトウトと居眠りしてしまった。
気づいたときには、電車はすでに見知らぬ駅に停まっていた。
慌てて降りたものの、そこは聞いたこともない名前の駅だった。
駅名表示には、ひらがなでこう書かれていた。
――『すたか』
※
駅はひどく薄暗く、照明は頼りなく点滅していた。
改札もなく、まるで廃駅のようだった。
周囲には人気もなく、遠くに山影が見えるばかり。
どこか、現実の空気とは違うものが漂っていた。
私はとりあえずベンチに座り、携帯電話で現在地と電車の時間を確認しようとしたが、圏外だった。
不安になって駅構内を見回すが、時刻表も路線図もどこにも見当たらない。
まるで、この駅が“地図に載っていない場所”のように思えた。
※
そんなとき、私と同じ電車から降りていた小柄なおばあさんが、ゆっくりとした足取りでこちらに歩いてきた。
私は思い切って声をかけた。
「すみません、この駅……次の電車はいつ来るんでしょうか?」
おばあさんは一瞬、私の顔をじっと見つめたあと、こう答えた。
「じきに来るよ」
それだけを言うと、おばあさんは何かを思い出すように、山の方へと歩いて行ってしまった。
※
しばらくぼんやりしていると、駅の向こうから小学生くらいの男の子が、制服姿で走ってきた。
彼は無言のまま、私の前を通り抜けてホームの端へと向かっていく。
その途中で、ポケットから何かを落とした。
私は慌てて拾い上げてみると、それは古びた“お守り”だった。
鮮やかな赤に金糸で文字が刺繍されており、どこか懐かしい香りがした。
私は男の子の後を追おうとしたが、すでに彼の姿は見えなかった。
代わりに、近くに戻ってきたおばあさんに声をかけ、お守りを手渡すと、彼女は一瞬だけ沈黙し――そして、ぼそりとこう言った。
「……それは、あの子のものじゃ」
その言葉が何を意味しているのか、私は聞き返すこともできなかった。
おばあさんは、そのままホームの外れへと姿を消した。
※
しばらくすると、駅の静寂を破るように、「モォォ……」という、牛のような、けれども何かが喉を鳴らしているような低い音が山から聞こえてきた。
不気味なその音に背筋がぞわりとした。
山の方を見ると、木々の合間に、提灯のような小さな明かりがひとつ、またひとつと灯っていくのが見えた。
まるで、何かが“山から降りてくる”ような気配があった。
その時――
さっきの男の子が、再び現れた。
今度は私をまっすぐに見つめていた。
そして、どこか不機嫌そうな顔で、ホームの先を指差した。
私は何かに導かれるように、彼の後を追った。
※
気づけば、私は見覚えのある道に出ていた。
目の前にあったのは、阪急の長岡天神駅。
“すたか駅”からここまで、どうやって来たのか、まったく覚えていなかった。
※
自宅に戻った私は、すぐに「すたか駅」という名の駅が実在するのか調べた。
だが、どの路線図にも、そのような駅は存在していなかった。
Google Mapにも、鉄道路線のサイトにも、『すたか』という文字はどこにも見つからなかった。
ただ、ふと気になって、“お守りの刺繍と似た文様”を検索してみた。
すると、ある古い神社の画像に目が留まった。
そこには、“災いを封じる子どもの霊を祀る”という伝承が記されていた。
お守りは、その神社で配られていたものと、瓜二つだった。
※
――“すたか駅”。
あれは、現実と幻の境目にある、何か特別な場所だったのだろうか。
あの駅で出会った子ども。
不思議な提灯の光と、山からの鳴き声。
そして、すべてを無言で見送っていた、おばあさんの静かな表情。
あの夜の出来事が、夢だったのか、現実だったのか、私には今でも答えが出せない。
けれど、確かに“存在しないはずの駅”で、私は何か大切なものを受け取った気がしている。