引き潮の声

赤い灯台と孤独な人

三年前の夏、日本海側のとある港町に夜釣りに行った時の話だ。

俺は東京で営業の仕事をしているが、年に何度か有休をとって地方の港を回るのが趣味だった。釣果はそこまで重要じゃない。夜の海に糸を垂らして、波の音を聞きながらぼんやりする時間が好きだった。

その港町は、会社の同僚に教えてもらった場所だった。同僚の実家がそのあたりにあって、「防波堤からアジがよく釣れる」と聞いていた。宿は港から歩いて十分ほどの民宿をとった。

夕方に到着して、民宿のおばさんに挨拶をした。夜釣りに行くと伝えると、おばさんは少し間を置いてから「何時頃まで?」と聞いてきた。

「まあ、釣れ具合によりますけど。日が変わるくらいまでは」

おばさんは頷いたが、それから妙なことを言った。

「引き潮の時間になったら、帰ってきてね」

潮が引くと魚が散るから、という意味だと思った。俺は軽く返事をして、夕飯を食べてから港へ向かった。

港は小さかった。防波堤は二本あって、外側の長い方は先端に赤い灯台がついていた。漁船が六、七隻繋がれていて、街灯は防波堤の付け根にひとつだけ。先端のほうはほぼ真っ暗だった。

俺は外側の防波堤を歩いて、中ほどに釣り座を構えた。九時過ぎだった。風はほとんどなく、波も穏やかで、糸を垂らすには申し分ない条件だった。

最初の一時間で小ぶりのアジが四匹釣れた。同僚の言う通り、悪くないポイントだった。クーラーボックスにアジを入れながら、缶コーヒーを飲んだ。港町の灯りが対岸にぽつぽつと見えて、静かだった。

十一時を過ぎた頃から、潮の流れが変わり始めた。さっきまで防波堤の壁面に当たっていた波が引いていくのがわかった。引き潮だ。

民宿のおばさんの言葉が頭をよぎったが、まだ帰る気にはならなかった。むしろ潮が動く時間帯は大物が来ることもある。俺はサビキからルアーに替えて、キャストを続けた。

最初に気づいたのは、音だった。

十一時半頃、防波堤の外側――外洋に面した方から、何か低い音が聞こえた。最初は波が岩にぶつかる音かと思った。でも波は穏やかだったし、その音には一定のリズムがあった。

数秒おきに、低くうねるような音が繰り返される。風の音でもない。船のエンジンでもない。何かが海面の下で、規則的に鳴っているような響き方だった。

俺はルアーを巻くのをやめて、耳を澄ませた。

音は少しずつ近づいてきた。そして、それが音ではなく声だと気づいた。

人の声だった。ただし、言葉にはなっていない。母音だけが長く伸びるような、うめきとも歌ともつかない声が、海の方から聞こえていた。一人ではなかった。少なくとも三つか四つの声が重なっている。

俺は立ち上がって、防波堤の縁から海面を見下ろした。引き潮で水位がかなり下がっていて、普段は水の中にある防波堤の基礎部分が露出していた。暗くてよく見えない。ヘッドライトで照らしてみた。

海面には何もなかった。黒い水がゆっくり引いていくだけだ。

でも、声は続いていた。防波堤の真下、基礎のコンクリートの隙間から聞こえているような気がした。

俺は釣りを続ける気になれず、荷物をまとめ始めた。声は相変わらず聞こえていたが、近づいてくる感じはなくなっていた。ただそこにある、という感じだった。

竿をたたんでクーラーボックスを持ち上げた時、防波堤の先端の方で灯台の赤い光が明滅した。灯台自体は最初からついていたが、その光に照らされて、何か動くものが見えた。

防波堤の先端に、人が立っていた。

来た時には誰もいなかった。この二時間半、俺以外に人が来た気配はなかった。先端に向かう通路は一本道で、俺の釣り座の前を通らなければたどり着けない。

その人影は防波堤の縁にぴったり立って、海の方を向いていた。灯台の赤い光が数秒おきにその輪郭を浮かび上がらせた。服装や顔はわからない。ただ、妙に背が高かった。

声はまだ聞こえていた。そして気づいたのだが、その人影が立っている方角と、声が聞こえてくる方角が一致していた。

俺はそれ以上見ていられなくなって、防波堤の付け根に向かって歩き出した。早足だったと思う。振り返らなかった。

防波堤を降りて、港の駐車場を抜けて、民宿への坂道を上がった。途中、一度だけ振り返った。防波堤の先端に赤い灯台の光が点滅しているのが見えた。人影があるかどうかは、距離があって判別できなかった。

声はもう聞こえなかった。

民宿に戻ると、おばさんはまだ起きていた。テレビを見ていたらしく、俺の顔を見て「早かったね」と言った。俺は「潮が引いたんで」と答えた。

おばさんは頷いて、お茶を出してくれた。それから、何気ない調子でこう言った。

「引き潮の時にね、声が聞こえることがあるでしょう」

俺は湯呑みを持ったまま固まった。

「昔、あの港でね、何人か海に落ちてるの。引き潮の時にだけ。だから夜は誰も行かないのよ、ここの人は」

おばさんはそれだけ言って、テレビに目を戻した。俺はお茶を飲み干して部屋に戻ったが、その夜はよく眠れなかった。

翌朝、港を見に行った。昼間の港は穏やかで、漁から戻った船が何隻か揺れていた。防波堤の先端には灯台があるだけで、人影はなかった。当たり前だ。

ただ一つ、気になることがあった。防波堤の外側の壁面に、潮が引いた跡が線になって残っていた。その線の下、普段は海中にある部分のコンクリートに、何か引っかき傷のようなものが無数についていた。

爪で引っ掻いたような、細くて深い傷。それが防波堤の基礎に沿って、ずっと続いていた。

俺は同僚にその港のことを聞いてみた。同僚は少し考えてから、「ああ、あそこは夜行かない方がいいって、ばあちゃんが言ってたな」とだけ答えた。それ以上は何も教えてくれなかった。

あの声が何だったのか、防波堤に立っていたのが誰だったのか、今もわからない。ただ、それ以来、俺は夜釣りに行く時、引き潮の時間を必ず調べるようになった。そして、その時間には絶対に海のそばにいないようにしている。

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