親は恨んだりしないと司祭は言った

教会(フリー画像)

親父が旅立ってから、今日でちょうど一年になる。

うちはキリスト教だから、一周忌という言い方はしない。

親父は、教会の司祭だった。

口癖は、「親は恨んだりしない」だった。

そして、幽霊の存在を認めていた。

ほかの司祭や信徒たちからは、異端だとか、悪魔憑きだとか、陰で言われていた。

それでも親父は、不可解なものに悩む人たちを、無償で助け続けた。

今日は、その中の一件を書いておく。

誰にも言うなと言われた。

それでも、親父の生き方を、少しだけ自慢させてほしい。

一番後ろの席の鞄

キリスト教の考え方では、亡くなった人がこの世に化けて出ることはない。

だから、幽霊という存在は、基本的に認められない。

もし見えたなら、それは悪魔が幻を見せていると考える。

親父は、子どもの頃から、それがよく見えたらしい。

気が狂いそうになる中で、救いを求めてたどり着いたのが、教会だった。

それでも見え続けた。

やがて親父は、見えるものを、救えるようになった。

「これは神様のお力添えなんだよ」

親父はいつも、そう言って笑っていた。

うちの小さな貧乏教会には、二週間に一度は、そういう悩みを抱えた人が訪れた。

親父は一人ひとりの話を、親身に聞いた。

礼拝のあとには、小さな茶話会が開かれた。

秋山さんはそこで、必ず紙コップの紅茶を二つ受け取った。

一つは自分の前に。もう一つは、鞄の置かれた隣の席の前に。

そして帰るまで、その一つには、決して手を付けなかった。

俺は当時、高校二年だった。

学校帰りに、礼拝堂の掃除を手伝うのが日課だった。

その年の春、一人の女性が、教会に通い始めた。

秋山さん(仮名)。

四十代半ばの、独り身の女性だ。

日曜の礼拝のたびに、彼女は一番後ろの席に座った。

そして、隣の席に必ず鞄を置いた。

他に誰も座らないのに、きちんと、椅子の真ん中に。

鞄の持ち手は、いつも内側へ丁寧に折り込まれていた。

誰かに、座り心地を譲るかのように。

最初は、癖か何かだと思っていた。

けれど、奇妙なことが、いくつか続いた。

まず、親父だ。

親父は祈りの前に、一番後ろの席へ向かって、小さく会釈をした。

秋山さんにではない。

鞄の置かれた、空いた席にだ。

次に、蝋燭だった。

後ろの壁際に立てた蝋燭の炎だけが、いつも彼女のほうへ傾いた。

窓も閉まっていて、風はなかった。

三つ目は、軋みだ。

秋山さんが祈りに入ると、隣の席の木の座面が、きしりと鳴った。

誰かが静かに体重を預けたような、そんな音だった。

俺は掃除の手を止めて、母に聞いた。

「あの席、何かいるのかな」

「いるわけないでしょう」

母は、床を拭く手を速めた。

雑巾の水が、ぽたりと床に落ちて、輪を作った。

礼拝堂の床板は、古い蝋の匂いがした。

母は、そう笑った。

同じように、見えない席の気配を描いた話を、庭にあるお墓という体験談で読んだことがある。

残された人の側に何かが寄り添う話なら、絵日記も忘れがたい。

けれど、笑いながら、俺と目を合わせようとはしなかった。

親は恨んだりしない夜

夏の初めの夕方だった。

学校から帰ると、教会の前にパトカーが停まっていた。

中に、警官が二人いた。

「秋山さんが、暴れて倒れたのよ」

母が、小声で言った。

近所の人が大声に驚いて、勝手に通報したらしい。

うちの教会は、そういう騒ぎで、すっかり有名だった。

秋山さんは、警官に両脇を抱えられて、パトカーに乗せられた。

親父も、後で警察署に顔を出すように言われていた。

彼女が暴れる少し前の話を、あとで母から聞いた。

その日、秋山さんは、親父に向かって、こう言ったのだそうだ。

「私は、親に呪われているんです」

「呪われている?」

「長い間、顔を見に行っていないから」

親父は、静かに首を振った。

「子を呪うような親は、いませんよ」

「親は恨んだりしない。私は、そう信じています」

けれど、秋山さんは、聞き入れなかった。

自己暗示のように、同じ言葉を繰り返した。

呪われている。呪われている。

母が、その言葉の端に、引っかかった。

「親御さんは、まだご存命なんですか」

「ええ。実家に、一人で」

それならば話は早い。

親父と母は、秋山さんを連れて、実家を訪ねることにした。

学生で信者でもない俺は、留守番だった。

電球の点いた家

数時間後、母から電話があった。

受話器の向こうの母の声は、かすれて、ひどく小さかった。

後ろで、救急車のサイレンが回っている音がした。

車で迎えに来てほしい、という。

助手席に置いた毛布の匂いが、いつまでも鼻の奥に残った。

俺は住所をカーナビに入力して、夜道を走った。

着いた先は、ゴミ屋敷と呼ぶのが相応しい、古い一軒家だった。

窓という窓に、膨れたゴミ袋が押し付けてあった。

近づくと、チーズのような、甘酸っぱい臭いが鼻を突いた。

夏の夜だというのに、鳥肌が立った。

庭の草は膝まで伸び、郵便受けからは、茶色く変色した広告が溢れていた。

どの窓にも、明かりはなかった。

その家の前には、パトカーと救急車が、すでに数台停まっていた。

赤い光が、夜のゴミ屋敷を、ぐるぐると照らしている。

母は、家の外でおろおろしていた。

「一体、どうしたんだ」

そう聞いた、その瞬間だった。

玄関の引き戸が開いた。

この世のものとは思えない異臭が、一気に溢れ出した。

その中から、秋山さんが出てきた。

警官に両肩を支えられている。

腕には、古い毛布で包んだ、何かを抱えていた。

大切そうに、赤ん坊をあやすように。

俺と母は、道端で、胃の中のものを戻した。

膝ががくがくと笑って、立っていられなかった。

街灯の下で、母は濡れたハンカチを口に当てたまま、動けなかった。

野次馬の何人かも、同じように口を押さえた。

その後ろから、親父が出てきた。

顔が、真っ青だった。

「残念ながら、お母さんは、もう旅立っておられた」

親父は、そう言った。

服は泥だらけで、あの甘酸っぱい臭いが染み付いていた。

俺は、車に乗る前に、服を脱がせて捨てた。

パンツ一枚の親父を、警察署まで送った。

家の玄関先で、ひとつだけ、目に焼き付いたものがある。

荒れ果てた家の中で、玄関の電球だけが、新しい白色に替えてあった。

ゴミの山の中で、そこだけが、不自然にきれいだった。

空いた席の本当の持ち主

その後、秋山さんは、教会のみんなに支えられた。

親父は毎晩、遅くまで礼拝堂に残っていた。

俺が戸口から覗くと、一番後ろの席に向かって、低い声で何かを話していた。

「ええ。もう少しだけ、待ってあげてください」

そんな言葉が、聞こえた気がした。

「誰と話してたんだ」

翌朝、パンを齧りながら聞くと、親父は湯呑みを置いた。

「お客さんだよ。ずいぶん長く、待っておられる方だ」

「どんな人」

「小さなお年寄りだ。いつも、膝に風呂敷を載せておられる」

俺はそれ以上、何も聞けなかった。

母親をひとりで旅立たせてしまった、という罪悪感が、重くのしかかっていた。

彼女は毎日のように、お祈りに参加した。

少しずつ、元気を取り戻しているように見えた。

けれど、元気になるにつれて、様子が変わった。

彼女は、亡くなった母親の悪口を、言い始めたのだ。

口うるさかった。頑固だった。私の人生を、台無しにした。

最初は、みんな黙って聞いていた。

やがて、耳に耐えかねて、彼女を避けるようになった。

それでも親父だけは、黙って頷いて、聞き続けた。

ある日の礼拝の後、いつものように暴言が止まらなくなった。

親父が、ついに口を開いた。

その声は、いつもの穏やかさのまま、少しだけ低かった。

「秋山さん」

「あなたのお母さんは、あの席に、ずっと座っておられました」

俺は、思わず息を止めた。

空いた席。傾く炎。軋む座面。

全部が、一本の線でつながった。

「あなたの隣に座って、毎週、あなたの横顔を見ていた」

「恨んでなんか、いませんよ」

「親は恨んだりしないと、私は何度もお伝えしたはずです」

秋山さんの顔から、血の気が引いていった。

唇が、わなわなと震え始めた。

次の瞬間、彼女は金切り声を上げた。

「やめて! やめて!」

「あの人が、見ているのなんて、わかってた!」

彼女は泣き叫び、床に崩れ落ちた。

「呪われてるのは、私が、あの人を見捨てたからなのよ!」

そのまま、気を失った。

鞄は、床に落ちて、中身が飛び散っていた。

その隣の席の座面が、また、きしりと小さく鳴った。

その夜、母は、俺にだけ、こっそり教えてくれた。

「お父さんはね、最初から、全部知っていたの」

俺は、親父の背中に、尋ねた。

「これで、よかったのか」

親父は、振り向かずに、一言だけ答えた。

「誰にも言うなよ」

秋山さんが、その後どうなったのかは、聞いていない。

今、俺は同じ体質を引き継いだ。

キリスト教に入るかどうか、いまだに迷っている。

けれど、日曜の礼拝のたびに、一番後ろの席に鞄を置いている。

隣に誰が座っても、困らないように。

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