三月の坪庭

池の畔

古い温泉旅館でアルバイトをしていた時のことを書く。

その旅館は、山あいの温泉街のひときわ奥まった場所にひっそりと建っていた。創業から八十年以上という老舗で、木造の本館と石造りの蔵が渡り廊下でつながった、昔ながらの造りをしていた。廊下の床はどこを踏んでも軋み、柱には年季の入った傷がいくつもあった。宿のおかみはそれを「老舗の証です」と笑うのだが、深夜に一人でいると、そういう言葉では片付けられない何かが、建物のあちこちに染みついているような気がした。

私の仕事は夜勤のフロントだった。チェックインが落ち着く夜十一時頃から翌朝のチェックアウトが始まるまで、基本的に一人でフロントを守る。二時間おきの館内巡回と、大浴場の施錠確認が主な仕事で、あとはひたすらカウンターに座っているだけだった。

静かな仕事だったが、ただ一つ、どうしても慣れないことがあった。

深夜の巡回で大浴場の前を通る時、廊下のガラス戸越しに見える坪庭が、昼とまったく違う顔を見せた。

その旅館の坪庭には、古い池がある。

直径五メートルほどの小ぶりな池で、縁に置かれた灯篭が水面をほんのりと照らしていた。昼間は錦鯉が泳ぎ、宿泊客が縁側から眺めることもある、風情ある場所だった。ところが深夜になると、灯篭の火が絞られて池の大半が暗くなり、黒い水面が天を映してぬめるように光った。その気配が、どうにも居心地悪かった。

同僚に話すと「そういうもんよ」と笑われた。感受性が鋭い宿泊客から「あの庭は夜になると独特の雰囲気がありますね」と言われることも、年に一、二度あった。私はそのたびに「歴史のある宿ですから」と笑って流していた。

最初の一年は、それだけで済んでいた。

強いて言えば、深夜の巡回でガラス戸の前を通るたびに、池の方向から目を逸らしたくなる、という感覚があった。怖いというより、見てはいけない気がした、というのが近い。それでも何かが起きたわけではないので、私は自分の気のせいだと思い込もうとしていた。

異変が起きたのは、二年目の三月のことだ。

深夜一時を少し回った頃、私はいつもの館内巡回に出た。二階の客室廊下を確認し、階段を降りて一階へ。浴場入口の施錠を確認したあと、廊下の角を曲がったところで、ガラス戸越しに坪庭が目に入った。

池のそばに、人が立っていた。

女性だった。旅館支給の浴衣ではなく、白みがかった着物のようなものを着て、池の縁にじっと立ち、水面を見つめていた。微動だにしなかった。

まず「宿泊客が外へ出てしまった」と思った。夜中に庭へ出ること自体は禁じていないが、三月の夜は冷える。案内しなければと思い、ガラス戸の取っ手に手をかけた。

冷たい外気が入ってきた瞬間、女性の輪郭が揺れた。

霧のせいかと思った。その夜は山から薄い霧が下りてきていた。だが霧にしては形がはっきりしすぎている。着物の裾の重なり方まで、はっきりと見えた。

「すみません」

声をかけた。返事はなかった。

もう一度呼びかけようとした時、足元の庭石に仕込まれたセンサーライトが一瞬消えた。一秒もなかったかもしれない。瞬きをするほどの短い暗闇だった。

光が戻ると、池のほとりには誰もいなかった。

水面だけが、かすかに揺れていた。風は吹いていなかった。

翌朝、長年この宿に勤める番頭の市川さんに、昨夜のことを話した。

「何時頃ですか」と彼は聞いた。表情は変わらなかった。

「一時過ぎです」と答えると、市川さんはカウンターの引き出しから古い台帳を取り出し、何かを確かめるように数ページをめくった。それから台帳を閉じて、こう言った。

「この宿が建つ前、あの池は別の家の庭にあったんですよ」

それだけだった。私が何か聞く前に、「今日はお疲れ様でした」と言って、市川さんは事務室へ消えた。

その態度が、かえって怖かった。

気になって、物置にある古い写真を調べてみた。旅館の創業前後に撮られたらしい白黒写真が数十枚、古い木箱に入っていた。

その中の一枚に、あの池を前にして立つ女性が写っていた。着物姿で、池を覗き込むような立ち方をしていた。顔は俯いていて、表情は見えなかった。

写真の裏には、昭和三十年代と思われる日付が記されていた。三月、と読めた。

それ以上のことは調べなかった。調べる気になれなかった。

あれから二年が経つ。

今も旅館でアルバイトを続けている。三月になると、気づけばあのガラス戸を確認するようになった。去年の三月も、深夜の巡回で池のそばに白っぽいものが見えた気がした。立ち止まって目を凝らしたが、霧なのか人なのか、結局分からなかった。

確認しに外へ出る気には、もうなれなかった。

以前、宿泊者のブログで「三月に泊まった時、夜中に坪庭を見たら池のそばに人影があった」という記事を偶然見つけたことがある。写真は暗くて何も写っていなかったが、コメント欄で「それ宿の方では?」と聞かれた投稿者は、「違うと思います」とだけ答えていた。

池は今も変わらず、旅館の中庭にある。

何だったのか、いまだに分からないままだ。

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