三秒先の音

幽玄な廊下の時計と幽霊

あれはいつ頃から始まったのか、正確には覚えていない。

たぶん、去年の秋くらいだったと思う。

俺は地方都市で小さな学習塾を一人でやっていて、築四十年の木造アパートに住んでいた。二階の角部屋で、隣は空き室。下の階には定年後のおじいさんが一人で住んでいて、たまに顔を合わせると会釈する程度の関係だった。

静かなアパートだった。壁が薄いから、隣に人がいたら気になっただろうが、空き室だからほとんど無音だった。夜になると、外から聞こえるのは遠くの国道を走るトラックの音と、時々鳴く猫の声くらいだった。その静けさが気に入っていた。

最初に気づいたのは、電話だった。

スマホの着信音が鳴る数秒前に、同じ着信音が聞こえた。ほんの一瞬、二、三秒くらいだ。最初は空耳だと思った。疲れているのかもしれない、と。

でも、何度も続いた。

スマホが鳴る前に、着信音が聞こえる。三秒後に、本当に鳴る。毎回、きっちり三秒。

気味が悪くなって着信音を変えた。変えた直後から、新しい着信音が三秒前に聞こえるようになった。

次に気づいたのは、玄関のチャイムだった。

宅配便が来たとき、チャイムが鳴る三秒前に、同じ音が聞こえた。ドアを開けると、配達員がちょうどインターホンのボタンに指を伸ばしているところだった。

「あ、まだ押してないんですけど」

配達員は不思議そうな顔をしていた。俺もどう説明していいかわからなかった。

それから注意して過ごしてみると、あらゆる音が三秒だけ先に聞こえていることに気づいた。

テレビのバラエティ番組のツッコミが三秒前に聞こえる。台所のやかんが沸騰する音が三秒前に聞こえる。階下のおじいさんが咳をする音が、三秒前に聞こえる。

現実の音が鳴ると、「ああ、やっぱり」と思うだけだった。

困ったのは、塾の教室でもそれが起きるようになったことだ。

中学生の男子が質問しようとして手を挙げる。その三秒前に、その生徒の声が聞こえる。

「先生、この問題の二番がわかりません」

聞こえてしまうから、つい先に答えてしまう。

「二番はな、ここの公式を使えばいい」

生徒が手を挙げる。「先生、この問題の二番が——」と言いかけて、首をかしげる。

「え、まだ何も言ってないんですけど」

最初は「エスパーみたい」と笑ってくれていた生徒たちも、何度も続くうちに笑わなくなった。俺が生徒の言葉を先回りして口にする。生徒は黙る。教室の空気がだんだん重くなっていった。

十一月に入った頃から、ずれが広がり始めた。

三秒が五秒になり、十秒になり、ある日は三十秒先の音が聞こえた。

教室に誰もいない時間に、三十分後に来る生徒たちの足音や笑い声が聞こえることがあった。俺はホワイトボードの前に立って、まだ誰もいない教室に響く未来の笑い声を、一人で聞いていた。

ある日、授業が終わって生徒が全員帰ったあとの教室で、椅子に座ってぼんやりしていた。すると、数分先の音なのか、翌日の音なのか、判別できない声が薄く重なって聞こえてきた。複数の時間の音が同時に鳴っているような、ラジオのチューニングが合わないときのような、そんな音だった。

十二月のある夜だった。

寝支度をしていると、目覚まし時計のアラーム音が聞こえた。翌朝六時にセットしてある音だ。時計を見ると、まだ夜の十一時だった。

七時間先の音が聞こえたということだった。

布団に入っても眠れなかった。天井を見つめていると、次々と音が降ってきた。

翌朝のやかんの音。歯を磨く水の音。テレビのニュースのジングル。自分が「おはよう」と独り言を言う声。

全部、まだ起きていないはずの音だった。

部屋の中に、明日の自分がもう一人いるような感覚だった。暗い天井を見つめながら、ふと思った。この音は本当に未来の音なのだろうか。それとも、この部屋にはもう一つの時間が流れていて、俺はたまたまそれを拾っているだけなのだろうか。

答えは出なかった。出ないまま、音だけが降り続けた。

年が明けて、俺は引っ越した。

理由は特に説明しなかった。大家に「仕事の都合で」とだけ伝えて、荷物をまとめた。新しいアパートは鉄筋コンクリートの、築浅のマンションだ。

引っ越した日から、先回りの音はぴたりと止んだ。嘘みたいだった。

電話は鳴ってから聞こえるし、チャイムはボタンを押されてから鳴る。当たり前のことが、ひどく安心だった。

一つだけ、気になっていることがある。

先月、塾の帰りにあの古いアパートの前を通った。もう誰も住んでいないはずの二階の角部屋を見上げた。

窓は暗かった。カーテンもない、空っぽの部屋のはずだった。

ただ、通り過ぎる瞬間に、あの部屋の中から音が聞こえた気がした。

やかんが沸騰する音。テレビのチャンネルを変える音。そして、誰かが「ただいま」と言う声。

俺の声だった。

足を速めた。振り返らなかった。背中に、あの部屋の窓が貼りついているような気がした。

あの部屋では、まだ俺の明日が鳴り続けているのかもしれない。

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