
俺は長距離トラックの運転手を二十年近くやっている。関東から山陰方面への定期便が主なルートで、深夜の山道はもう体が覚えているといってもいい。
あの夜も、いつもと同じ配送だった。中国自動車道を降りて、県道を北へ向かう。荷主の倉庫には朝の六時に着けばいい。時刻は午後十一時を少し過ぎたところで、余裕のあるスケジュールだった。
異変に気づいたのは、カーナビの画面だった。いつも使っている県道のはずなのに、ナビ上では道のない場所を走っていることになっている。GPSの受信状態を見ると、衛星を完全に見失っていた。山間部ではたまにあることだから、最初は気にしなかった。
※
しばらく走ると、見慣れない分岐が現れた。左は今まで通りの県道。右は細い下り坂で、道路標識も案内板もない。二十年このルートを走っているが、こんな分岐があった記憶はなかった。
普段なら迷わず左に行く。だが、そのときなぜか右のほうが正しい道に思えた。説明のつかない確信だった。ハンドルを右に切って、暗い下り坂に入った。
道は想像以上に長かった。片側一車線の舗装路が延々と続く。対向車は一台もない。ヘッドライトの先に映るのは、古びたガードレールと杉林だけだった。十五分ほど走ったころ、谷間が開けて、小さな集落が見えた。
※
十数軒の民家が斜面に沿って建ち並んでいる。街灯がぽつぽつと灯っていて、人の気配はある。だが、深夜だというのに妙に明るかった。空を見上げると、星がひとつもない。曇っているのかと思ったが、雲の形も見えない。ただ、のっぺりとした黒い天井が広がっているだけだった。
集落の入口に小さな商店があった。ガラス戸から蛍光灯の光が漏れている。真夜中に開いているのは不自然だったが、道を確認したかった。トラックを路肩に停めて降りた。
店に入ると、奥に白髪の老婆が一人座っていた。棚には缶詰や調味料が並んでいたが、どのパッケージも見たことのないデザインだった。メーカー名も商品名も、読めるのに意味が頭に入ってこない。
「すみません、ここはどの辺りになりますか」
老婆はゆっくりとこちらを見た。目は穏やかだったが、どこか遠いものを見ているような表情だった。
「道に迷ったのかい」
「ええ、県道から分岐に入ったんですが」
「そうかい」
老婆はそれだけ言って、棚の奥から湯呑みを出し、茶を注いでくれた。断る理由もなく、一口飲んだ。温かかったが、味がしなかった。
※
茶を飲みながら店内を見回した。壁掛け時計があったが、針が動いていなかった。十一時十四分を指したまま止まっている。ちょうど俺がナビの異常に気づいた頃の時刻だった。
「あの、ここの地名を教えてもらえますか」
老婆は少し首を傾げた。
「地名ねぇ。ここはここだよ」
会話が噛み合わない。だが、老婆に悪意は感じなかった。ただ、質問の意味がわからないといった様子だった。
外に出て、集落を少し歩いてみた。民家はどれも木造の古い造りで、瓦屋根が重なり合っている。表札は出ているが、どの家も同じ名字だった。読めるのに、次の瞬間には忘れている。電柱はあるが、電線が一本もつながっていない。街灯は光っているのに、電源がどこにあるのかわからなかった。
一番奥の家の前まで来たとき、背筋に冷たいものが走った。その家の縁側に、人が座っていた。白いシャツを着た男が、こちらに背を向けて座っている。微動だにしない。声をかけようとしたが、口が開かなかった。体がそうすることを拒んでいた。
※
引き返して、トラックに戻った。老婆に礼を言おうと店を覗いたが、さっきまでいた場所に誰もいなかった。湯呑みも消えていた。茶を飲んだはずの口の中には、何の余韻も残っていなかった。
エンジンをかけて、来た道を戻った。下り坂だったはずの道を登っていく。バックミラーに集落の灯りが映っていたが、カーブをひとつ曲がった瞬間に消えた。振り返りたい衝動を抑えて、ただ前だけを見て走った。
十五分ほどで県道に出た。ナビが復帰していた。時刻を見て目を疑った。午前四時五十二分。集落にいたのは三十分程度のつもりだったが、六時間近くが経過していた。
※
翌週、同じルートを走った。あの分岐を探したが、どこにもなかった。その次の週も、その次も。何度走っても、県道はまっすぐ一本道のままだった。
デジタコの記録を確認すると、あの夜のデータだけが欠落していた。午後十一時十四分から午前四時五十二分まで、走行距離も速度もゼロになっている。五時間半以上、俺のトラックはどこにも存在していなかったことになる。
あれから三年が経つ。あの集落がどこにあったのか、あの老婆が何者だったのか、縁側に座っていた男が誰だったのか。何ひとつわからないままだ。わかっているのは、あの分岐はもう二度と現れないだろうということだけだ。