
40年近くトラック運転手をやってきたが、こんな経験は初めてだった。
その日は、大阪から新潟へ向かう深夜便の配送だった。高速を使わず、下道で旧国道を走るルートで指示されていた。理由は聞いてはいけないと言われていた。配送業界では、そういうことがある。指示されたルートを走り、目的地に着き、帰ってくる。質問は無用だ。
20代の頃から、こういった怪しい指示には従ってきた。配送会社側にも理由があるだろう。高速料金の節約か、あるいは別の理由か。いずれにせよ、俺には関係ない。ただ、走れと言われた道を走るだけだ。
夜中の1時を過ぎた頃、俺は車を一度止めた。ガソリンスタンドを探していたのだが、旧道沿いには何もない。暗い山道を走るばかりだ。ふと、左手に小さな灯りが見えた。集落だ。地図には記載されていない。だが、大きなトラックの俺には、ガソリンの残量が気になる。メーターは警告レベルに近づいていた。
その集落に進む道を見つけ、ハンドルを切った。砂利道を進むこと5分。やがて、古い民家が数軒見えた。すべて全く灯りが消えていた。時間は夜中の1時半。民家で灯りがついているはずがない。だが、その時、一軒だけ、小さな窓から光が漏れているのが見えた。その家は、他の家よりも一回り大きく、かつ新しく見えた。
※
俺は車を止め、その家に近づいた。ノックをすると、しばらくして扉が開いた。白髪の老人が立っていた。年は80は越えているだろう。深いしわと、濁った目。だが、その笑顔は優しかった。
「すまん。ガソリンのことを知ってないか。この近くにスタンドはあるか?」と俺は尋ねた。
老人は考えるそぶりを見せた後、「ああ、あるぞ。だがな、今は行かない方がいい」と言った。
「なぜですか?」
「今は昼間に来るもんじゃない。夜間に来るもんじゃない。この道は…」老人は言葉を濁した。「お前さん、どこから来た?」
「大阪からです。配送業務で」と俺は答えた。
老人は何度も頷いた。「そっか。配送か。ああ、そうか。配送か」と、同じことを繰り返した。その反応は異常だった。まるで、プログラムされた人形のように。
「あの、ガソリン…」と俺が言いかけると、老人は再び話を始めた。その語り口は、まるで何度も何度も同じセリフを話してきたような、機械的なものだった。
「この集落は、もう誰もいない。みんな出ていった。だが、出ていってはいけなかった者もいる。出ていきたかったが、出ていけなかった者がいる」
「どういう意味ですか?」
「昭和の初めな。この集落では、七年に一度、人身御供をしなくちゃならなかった。山の神に捧げるんだ。選ばれた者は、夜間に山道を一人で歩くんだ。夜明けまでに帰ってこなかったら…その者は『選ばれた者』として祭られた」老人の声は、抑揚がなかった。
俺は寒気を感じた。「昭和の初めですか?」
「そうだ。だが、最後の人身御供は、昭和46年だった。その後、誰も選ばれなくなった。みんな集落を離れたんだ。だが…」老人は視線を動かした。「その道は、いまだに『選ばれた者の道』と呼ばれている」
「それは…」俺は言葉を失った。
「夜間に走ると、選ばれた者の霊が、乗り物を引っ張るんだ。その乗り物は、山奥へ向かう。そして、朝日が昇る頃に、乗り物は戻ってくる。だが、乗り物の乗り手は…」老人は俺の目を見つめた。
「お前さん、どこから来た?」老人は再び聞いた。同じ質問を。
「大阪からです。さっき話しましたが」と俺は答えた。だが、答える際に、俺は自分の手首に視線を落とした。そこには、誰が付けたのか分からない、人の指による深い跡が残っていた。いつできたのか、全く覚えていない。
「そっか。配送か。ああ、そうか。配送か」と、老人は再び同じことを繰り返した。その時、老人の笑顔が消えた。「お前さん…帰ってくるといいな」
※
不気味さを感じた俺は、その場を後にすることにした。ガソリンスタンドについては、聞きそびれてしまった。だが、もう聞きたくなかった。その老人の言葉は、まるで同じ時間を何度も何度も繰り返しているかのようだった。あたかも、ループに閉じ込められた人間のように。
車に戻り、エンジンをかけた。燃料計は、まだ大丈夫だった。俺は再び旧道に戻ることにした。その時、後部ミラーを見ると、老人が立っていた。その表情は、悲しそうだった。
深夜2時。旧道を走り続けていた。すると、突然、前方にトラックの赤いテールランプが見えた。俺の前を走るトラック。だが、その走り方が不自然だった。ゆっくり走っているが、スピードが安定しない。時々、急に速くなり、時々、急に遅くなる。
俺は減速し、その車との距離を保った。やがて、そのトラックが見えなくなった。カーブの向こうへ消えたのだ。俺も後を追った。だが、カーブの向こうには、何もなかった。直線道路が延々と続いている。トラックは、消えていた。
その時、俺の後部ミラーに人影が映った。真っ白い着物を着た女の人だ。俺はバックミラーを見た。何もない。再び後部ミラーを見た。その女の人は、俺のトラックに手を当てていた。その手は、透き通っていた。その手の力は、じわじわと強まっていた。
俺は加速した。時速100キロで走り続けた。夜明けまで、ただひたすら走り続けた。朝日が昇った時、やっと息をつくことができた。
新潟に着いて、荷物を下ろした後、俺は帰社報告をした。その時、上司が言った。「あの道は…大丈夫だったか?」と、まるで予め知っていたかのように。
「大丈夫です」と俺は答えた。だが、その時、俺の腕を見た。白いしわが、手首に深く刻まれていた。見覚えのないしわだ。その形は、5本の指。女の人の手首のサイズの指だった。
今、俺はもう70を越えた。あの時から30年近く経っている。だが、あの夜のことは、昨日のことのように覚えている。そして、毎年、その夜が近づくと、俺の手首のしわが痛くなる。その痛みと共に、あの女の人の声が聞こえる。「帰ってこい」と。