
俺は栃木の山寄りの町で、兼業農家をやっている。
平日は隣町の工場に通い、土日は田んぼに出る。
この春、ビニールシートを張っていて、ふと気になったことがあった。
うちで使う木の杭には、全部に同じ一文字が彫ってある。
「巳」の字だ。
ヘビの巳。
うちの苗字とは、何の関係もない字だった。
今まで特に気にしていなかった。
ところが近所の田んぼの杭を見ると、そんな字はどこにも彫ってない。
うちの杭と余所の杭を見分けるための目印かとも思った。
それなら苗字の頭でいいはずだ。
不思議に思って、爺さんに訊いた。
爺さんは八十七で、まだ毎朝、田んぼの水を見に行く。
「見慣れない木の杭は抜くな」
それが、爺さんの昔からの口癖だった。
子どもの頃は、余所の杭を勝手に抜くなという意味だと思っていた。
畦に座って、爺さんは長いこと黙っていた。
「わしが直接見たことじゃねえ」
そう前置きをした。
「わしの親父から聞いた話だ。本当かどうかは分からん」
それから、爺さんは話し始めた。
俺はシートを張る手を止めて、聞いた。
途中で一度、風が吹いて、シートが鳴った。
それ以外、田んぼは静かだった。
思い返せば、杭の彫りは、他の家の杭より深かった。
爺さんが冬になると納屋で、一本ずつ彫り直しているのを見たことがある。
古い杭も、新しい杭も、全部だ。
俺は、それを几帳面な性分だと思っていた。
納屋の隅には、彫り損じた杭が束ねてあった。
彫り損じでも、捨てなかった。
それも、性分だと思っていた。
工場の昼休みに、同僚にこの話をしたことがある。
「爺さんの迷信だろ」と笑われた。
俺も、笑った。
笑いながら、納屋の彫刻刀の箱を思い出していた。
箱の蓋の裏に、鉛筆で「巳」と書いてある。
手本のつもりなのだろう。
その字だけ、何度もなぞって、紙が薄くなっていた。
薪を取りに入った山
大正の初めの話だ。
爺さんが生まれる前、曾爺さんが若かった頃のことだった。
曾爺さんの村に、若者が二人いた。
仮に、AとBとする。
二人は秋の終わりに、薪を求めて山に入った。
お互いの姿が見える距離で、それぞれ薪を集めていた。
正午近くになった。
Aが「そろそろ飯にするか」と、Bに声をかけようとした。
その時だった。
Bが、叫んだ。
人間の喉から、こんな大きな声が出るのかと思うほどの叫びだった。
山の斜面一面に、その声が反響した。
鳥が、一斉に飛び立った。
Aは、呆然と立っていた。
Bは肺の中の空気を出し切るまで叫び続けた。
それから、地面に崩れた。
Aが駆け寄ると、Bは目を開けていた。
ただ、焦点が合っていなかった。
何もない空を、見ていた。
体を揺すっても、頬を張っても、戻らなかった。
Aは、Bを背負って山を降りた。
Bの体は、妙に軽かったという。
一日経っても、Bは戻らなかった。
家族は山の物の怪に憑かれたと思い、寺に連れて行った。
お祓いを受けた。
それでも、Bは戻らなかった。
Bは飯を口に運ばれれば食べた。
ただ、自分で箸を持つことはなかった。
Bの母親は、毎朝、山の方角に手を合わせるようになった。
Aは、それきり山に入らなくなった。
薪は、隣村から買った。
そんな出来事から、一週間ほど経った頃だった。
昼下がりの畑に、また叫び声が響いた。
近くにいた者が駆けつけた。
今まで畑仕事をしていた壮年の男が、鍬を放り出して立っていた。
やはり、空を見ていた。
肩を掴んで揺さぶっても、反応はなかった。
Bの時と、同じだった。
医者に見せても、心身を喪失していること以外は分からなかった。
寺でも神社でも、何も変わらなかった。
年寄りたちは、山の物の怪が里に降りてきたのだと言った。
三人目は、井戸端で水を汲んでいた若い嫁だった。
桶が井戸に落ちる音のあとに、叫び声がした。
四人目は、寺の小坊主だった。
しばらくすると、近隣の村でも同じことが起き始めた。
叫び、そして戻らなくなる。
起こる時間帯はまちまちだった。
やられる人にも、共通するものが何もなかった。
男も、女も、若い者も、年寄りも。
村では、夜になると戸を閉め、誰も外に出なくなった。
それでも、昼の畑で、人は戻らなくなった。
叫び声は、村のどこにいても聞こえた。
聞こえるたびに、人々は手を止め、誰の声かを考えた。
自分の家の者でないと分かると、また手を動かした。
そういう冬だった。
(山に囲まれた集落の信仰と、そこに残るものの話は、土着信仰にも書かれている)
田んぼに立っていた杭
曾爺さんがそれに出くわしたのは、そんな時だった。
その日、曾爺さんは弟と二人で、田んぼの仕事をしていた。
弟は巳之助という名で、曾爺さんより三つ下だった。
口は少ないが、目のいい男だったという。
遠くの山の稜線に立つ鹿を、誰より先に見つけた。
夕方になり、仕事を終えて帰ろうとした。
自分が耕していた場所に、木の杭が一本、立っていた。
つい先ほどまで、そんなものはなかった。
忽然と、そこにあった。
曾爺さんは、それをまじまじと見た。
新しい杭ではなかった。
雨に打たれたように、灰色に乾いていた。
「誰だ。こんなことをしたのは」
わずかな怒りが湧いた。
他人の田んぼに、邪魔なものを突き刺してある。
邪魔だ、と思った。
邪魔だ。
邪魔だ。
その言葉だけが、頭の中を埋めていった。
今すぐ引き抜きたい。
それ以外のことが、考えられなくなった。
曾爺さんは腰を屈め、杭に両手をかけた。
木の感触は、あった。
冷たく、湿っていた。
力を溜めた。
その時、肩を掴まれた。
巳之助だった。
「兄ぃ、何しとる」
我に返った。
辺りを見た。
杭は、どこにもなかった。
両手には、まだ冷たさが残っていた。
「杭が」
「杭なんぞ、ねえ」
巳之助は、そんなものは見ていないと言った。
兄が、ふと何かに目を留めた。
何もないところを、じっと見た。
それから、何もないところで、何かを引き抜く姿勢を取った。
腰を屈め、両腕に力を溜めた。
それを見て、肩を叩いたのだという。
曾爺さんは、その場にしゃがみ込んだ。
村を騒がせている出来事を、思い出したからだ。
もし弟に止められず、杭を抜いていれば。
自分も、空を見たまま戻らなくなっていた。
そう思い至って、肝を潰した。
「巳之助、おめえは見えなかったんか」
「見えねえ」
「本当か」
「本当だ。兄ぃだけだ」
二人は、黙って家に帰った。
帰り道、巳之助は一度も兄の顔を見なかった。
代わりに、田んぼのほうを、何度も振り返った。
その夜、曾爺さんは眠れなかった。
目を閉じると、灰色の杭が見えた。
邪魔だ、という言葉が、まだ頭の隅に残っていた。
隣の布団で、巳之助も眠っていなかった。
息の音で、分かった。
翌朝、曾爺さんは一人で田んぼに戻った。
杭が立っていた場所を、探した。
土に、杭の太さの穴が一つ、開いていた。
深さは、指の長さほどだった。
曾爺さんは、その穴を足で埋めた。
埋めても、しばらくそこから動けなかった。
見慣れない木の杭の触れ
それからしばらくして、村の犠牲者が十人を越えた。
村長と村役によって、村人が集められた。
寺の本堂だった。
村長は、昨今の出来事に触れた。
この村だけでなく、近隣の村でも起きていること。
近隣の村々と協議し、対策を進めている最中であること。
解決には、今しばらく時間がかかること。
それまでの当面の対処として、一つだけ伝えられた。
「見慣れない木の杭を見かけても、決してそれを引き抜くな」
本堂が、ざわめいた。
曾爺さんだけが、黙っていた。
自分の予想が、当たっていた。
村長はさらに続けた。
「農作業で使う杭には、自分の家のものだと分かる目印を彫り込め」
自分の杭の中に、例の杭が紛れ込んでいた時のためだった。
誤って引き抜くことへの、防御策だった。
一頻りの説明のあと、問う者がいた。
「今の事態を起こしているのは、何者なんですか」
村長は、首を振った。
「人の怨霊や、動物霊や、物の怪の類ではない。それ以外は、よく分からん」
「影響の範囲が広い。非常に力を持った何かだとしか言えん」
「やられた者は、元に戻るんですか」
「戻らん」
村長は、はっきりと言った。
「祓ってもらいに行った時、神主に言われた。彼には祓うべきものは何も憑いていない、と」
狐が憑いて、ああなったのではない。
何かの力の一端に触れて、心が壊れた。
その結果が、あの状態なのだと。
だから寺でも神社でも、どうすることもできない。
「杭さえ引き抜かなければ、何も恐れることはない」
村長はそう締めくくり、解散となった。
触れは紙に書かれ、各戸に一枚ずつ配られた。
その紙は、今もうちの仏壇の引き出しにある。
村人が去ったあと、曾爺さんは村長のところへ行った。
自分が体験したことを話し、なおも食い下がった。
村長は、しばらく曾爺さんの顔を見ていた。
「おめえも見たか」
「見ました」
「抜かんでよかった」
それから、村長は声を低くした。
「幽霊や物の怪や、人の祀る神様と人との間には、お約束というべきものがある」
相手の領域に無闇に立ち入らない。
定期的に祈りを捧げる。
それを破った者には祟りをなすが、守る限りは問題がない。
「しかし、今回のものには、それが当てはまらん」
その何かは、ただそこに在る。
在るだけで、人を正常でいられなくする。
呪う意図も、祟る意図も持たない。
「存在そのものが、人を狂わせる」
「わしも、そこまでしか聞かされておらん」
「こういうものは、人は必要以上に知らんほうがいいのかもしれん」
村長はそう言い残して、去った。
その夜、曾爺さんは家中の杭を納屋に集めた。
苗字の頭の一字を、一本ずつ彫った。
それから暫くして、村で神社の建立が始まった。
場所は、Bが叫んだ山の麓だった。
近隣の村からも、人と材木が集まった。
犠牲者は出続けたが、その数は収束に向かった。
神社が完成した頃には、全く起きなくなったという。
曾爺さんは、あとになって爺さんにこう話した。
木の杭は、何かを封じた呪いの類だったのかもしれない。
それを誰かが引き抜いたことで、力の一部が解き放たれた。
神社が建てられたことで、それは再び封じられた。
「そう思いたかったんだろう」
爺さんは、そう言った。
「親父は、そう思わねえと、眠れなかったんだ」
(土地の因果が今も形を変えて残る話は、峠の廃村にもある)
SさんとMさんの杭
俺は、爺さんの話をそこまで聞いて、一つ訊いた。
「じゃあ、この巳の字は、うちの目印か」
爺さんは、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「人ってのは、喉元過ぎるとなんとやらでな」
今ではあまり、やっている家を見かけない。
だがこの近所だと、SさんとMさんの家は、今でもやっている。
見てくるといい、と爺さんは言った。
俺は次の日曜、Sさんの田んぼに行った。
確かに、杭に漢字一文字が彫ってあった。
Mさんの杭にも、あった。
ただ、二軒とも、うちの字とは違った。
Sさんの杭には「吉」。
Mさんの杭には「ふ」に似た、崩した字。
どちらも、苗字とは関係がなさそうだった。
俺は、Sさんの家の縁側で、Sさんの婆さんに訊いた。
「この吉って、何の字ですか」
婆さんは、少し笑った。
「うちの大叔父の名だ。吉蔵」
「杭に、名前を」
「あの人が、抜いてしまったからな」
婆さんは、それ以上は言わなかった。
Mさんの家では、話を聞けなかった。
玄関先で「杭の話か」と言われ、それきり戸が閉まった。
俺は家に帰って、爺さんの前に座った。
「今でも彫っている家は、犠牲者を出した家か、その親族の家だ」
爺さんは、俺が何か言う前に、そう言った。
「うちも、出したんか」
爺さんは、長いこと黙っていた。
それから、話した。
寺の本堂で触れが出たあとのことだ。
巳之助は、目印を彫らなかった。
杭が見えなかった男だ。
自分には関係のないことだと思っていたのだろう。
兄が彫った杭を、巳之助は「手間なことをする」と笑っていた。
その秋、巳之助は自分の田んぼで、杭を一本見つけた。
目印のない、灰色の杭だった。
自分が打った杭だと思った。
誰も見ていなかった。
夕方、田んぼの真ん中で、巳之助は空を見て立っていた。
曾爺さんが見つけた時、杭はどこにもなかった。
土に、杭の太さの穴だけが、開いていた。
巳之助は、それから四十年、生きた。
縁側に座らせると、いつも田んぼのほうを向いていた。
一度も、自分で箸を持たなかった。
曾爺さんは、その冬、納屋で杭を全部集めた。
彫ってあった苗字の頭を、削った。
そして、別の一字を彫り直した。
目印なら、苗字の頭でよかった。
そうしなかった。
杭に彫られていた一文字は、目印ではなかった。
弟の名だった。
「巳の字を彫っとけば、巳之助が見てくれる」
「親父は、そう言っとった」
爺さんは、それだけ言って、水を見に出ていった。
先週の夕方のことだ。
俺は田んぼの端に、杭が一本立っているのを見た。
灰色に乾いた杭だった。
俺が打った覚えはなかった。
近づいて、彫りを見た。
何も彫られていなかった。
俺は、それを抜かなかった。
翌朝、その場所には、指の長さほどの穴が一つ残っていた。
俺は今も、うちの杭の全部に、巳の字を彫っている。
そして、見慣れない木の杭は、抜かない。