
これから書く内容を、どこまで信じてもらえるかはわからない。
正直に言えば、俺自身、今でも半信半疑だ。全部が夢だったんじゃないか、脳が見せた精巧な幻覚だったんじゃないかと、何度も自分を疑った。でも、あの四ヶ月間に起きたことを——「あいつ」から聞かされたことを——このまま墓まで持っていくのは、なんか違う気がしている。
だから書く。信じなくていい。創作だと思ってくれて構わない。ただ、俺がこれから語ることのうち、少なくとも三つは、後から客観的に確認できた事実と一致している。それだけは先に言っておく。
※
俺は当時二十八歳で、フリーランスの翻訳をやっていた。英語と中国語の技術文書が専門で、東京から車で三時間ほどの、山に囲まれた地方都市に一人で住んでいた。築四十年のアパートの二階、六畳一間。窓の外は杉林で、夜になると本当に何も見えない。コンビニまで車で十五分。そういう場所だ。
なぜそんな場所に住んでいたかというと、単純に家賃が安かったのと、翻訳の仕事はネットさえあればどこでもできるから。あとは——これは後付けかもしれないけど——都会の喧騒が年々しんどくなっていたのもある。
事の始まりは、二〇一四年の十一月だった。
その夜、台風崩れの低気圧が通過して、ものすごい雨が降っていた。雷も断続的に鳴っていて、案の定、夜の十一時過ぎに停電した。山間部のあのあたりでは珍しいことではない。俺はノートPCのバッテリーが切れるのを見届けて、ため息をつきながらベッドに入った。
雷鳴が遠のいて、雨音だけが部屋を包んでいた。目を閉じて、まどろみ始めた——そのときだった。
部屋の空気が、変わった。
具体的にどう変わったかというと、まず温度だ。十一月の山間部は夜になると相当冷え込むのだが、突然、真夏のような温かさが部屋に満ちた。それも暖房の温かさとは明らかに違う、なんというか、空気そのものが柔らかくなったような感覚。次に匂い。雨と杉の匂いに混じって、金属のような——いや、オゾンに近い匂いがした。雷の直後に嗅ぐあの匂い。でも雷はとっくに止んでいたはずだった。
俺は目を開けた。
部屋は停電で真っ暗なはずだった。しかし、天井の隅——部屋の北西の角あたりに、淡い青白い光が浮かんでいた。蛍光灯の残光とかではない。もっと有機的で、脈動するように明滅している。直径にして三十センチくらいの、卵形の光。
俺は金縛りにでもあったのかと思ったが、体は普通に動いた。上体を起こして、その光を見つめた。恐怖よりも、不思議なことに「ああ、これか」という感覚があった。まるで長いこと待っていたものがようやく来た、みたいな。もちろん、何も待ってなんかいなかったんだが。
光が、ゆっくりと膨張した。
天井の角から部屋全体に広がって、壁も床もベッドも——俺自身の体も——青白い光に飲み込まれていく。恐怖はなかった。むしろ異常なほどの安心感があった。温かい湯船に全身を浸けた瞬間のような、あの弛緩する感覚。
そして次の瞬間、俺はアパートの部屋にいなかった。
※
最初に感じたのは、足元の感触だった。
硬い。冷たい。でも不快ではない。大理石のような質感だが、継ぎ目がない。どこまでも一枚板の白い床が続いている。
俺は裸足だった。パジャマ代わりのスウェットとTシャツは着たままだ。ゆっくりと顔を上げると——回廊だった。
幅は十メートルくらいか。天井の高さは見当がつかない。三十メートルはあるかもしれないし、百メートルかもしれない。照明器具は見当たらないのに、空間全体がぼんやりと明るい。壁も天井も同じ白。ただし、壁には等間隔で模様のようなものが刻まれていた。最初は装飾かと思ったが、よく見ると文字のようでもある。どの言語にも似ていない。曲線と直線が入り混じった、まるで回路図と書道を掛け合わせたような記号の羅列。
後ろを振り返った。回廊は後方にも同じように伸びていて、百メートルほど先でぼやけて見えなくなっている。前方も同じだ。
夢だ、と最初は思った。
明晰夢を見たことがある人ならわかるだろうが、夢の中で「これは夢だ」と気づくと、景色のディテールが急に怪しくなる。文字が読めなくなったり、遠景がぼやけたり、時間の感覚が曖昧になったりする。
だが、ここは違った。壁の模様は何度見直しても同じ配列だった。足の裏に感じる床の冷たさは一定で、自分の呼吸音がわずかに反響しているのも聞こえた。何より、思考が完全にクリアだった。翻訳者としての職業病かもしれないが、俺は言葉の精度に敏感だ。夢の中ではいつも言葉がうまく出てこないのに、このときは自分の思考を完璧に言語化できていた。
これは夢じゃない——と、直感的にわかった。
俺はとりあえず前に歩き始めた。他にすることもなかったから。
※
どれくらい歩いただろう。体感で十分くらいだったと思う。回廊の景色は変わらなかったが、壁の模様が少しずつ変化しているのには気づいていた。最初は幾何学的なパターンだったものが、歩くにつれて、どこか有機的な曲線を帯びていく。まるで生き物の血管や神経を図示したような。
そしてふと、前方に人影が見えた。
百メートルほど先に、誰かが立っている。歩いているのではなく、こちらを向いて、じっと立っている。
俺は立ち止まった。
相手も動かない。
しばらく見つめ合って——いや、こちらが一方的に見つめていただけだが——俺は意を決して近づいた。逃げるという選択肢がなぜか頭に浮かばなかった。
近づくにつれて、その人物の外見が判然としてきた。
背が高い。百九十センチはあるだろう。痩身で、肌の色は——なんと表現すればいいのか——銀灰色だった。白人の白さとも、メイクやペイントとも違う。皮膚そのものが淡い銀色を帯びていて、光の加減で微妙に色が変わる。髪は短く、色は白に近いグレー。顔の造りは人間に近いが、目がやや大きく、瞳の色は琥珀色だった。
着ているのは、飾り気のない灰色のローブのようなもの。質感は絹に近いが、もっと軽そうだ。裸足だった。
そして、笑っていた。
にっこりとした穏やかな笑み。どこかの大学教授が、期待していた学生がやっと研究室を訪ねてきた——みたいな、そういう笑顔。
五メートルほどの距離まで近づいたとき、そいつが口を開いた。
「来るのが遅かったね」
日本語だった。それも完璧な日本語。アクセントもイントネーションもない、NHKのアナウンサーみたいな標準語。
「——は?」
俺の第一声がこれだ。我ながら情けない。
「もう少し早く来ると思っていた。十一月に条件が揃うとは予測していたから」
「条件って何の話だよ。ていうか、ここどこだ。あんた誰だ」
「順番に答えよう」と、そいつは微笑んだまま言った。「ここは、君たちの言葉で一番近い概念を借りるなら、『記録庫』だ。この宇宙のあらゆる出来事の記録が、ここに格納されている。私は、その管理者の一人だ」
「記録庫?」
「そう。そして私は、アクァッホと呼ばれる存在だ。正確に言えば、アクァッホの記録係。君たちの歴史にも、断片的に我々の名前は残っている。もっとも、大半は歪められた形でだけれどね」
アクァッホ。
その響きは、どこかで聞いたことがあるような——いや、なかった。初めて聞く言葉なのに、妙に馴染む感覚。それが余計に気味が悪かった。
「あんた、宇宙人か何かか」
「宇宙人という括りは不正確だが、今の君にはそう理解してもらうのが一番近い。私たちは、この太陽系を設計した者たちの末裔だ」
——太陽系を設計した?
頭がクラクラした。夢だろうが現実だろうが、スケールがでかすぎる。
「話が飛びすぎだろ。俺はベッドで寝てただけだぞ。なんでこんなとこにいるんだ」
「それも順番に説明する。でもまず、一つだけ——君が今これを夢だと思っているなら、試してみるといい。君の部屋のベッドの下、左側の奥に、去年の七月に失くしたはずの翻訳用のメモリーカードがある。十六ギガバイトの黒いやつだ。帰ったら確認するといい」
※
結論から言うと、メモリーカードはあった。
翌朝——というか、気がついたら自分のベッドで朝日を浴びていた——俺は半分パニックになりながらベッドの下を確認した。ホコリまみれのベッド下の左奥、床板の隙間に嵌まり込むような形で、確かに黒い十六ギガのSDカードが転がっていた。
去年の七月、海外のクライアントとの大型案件のバックアップデータを入れたやつだ。必死に探して見つからなくて、結局クラウドから復元したんだった。ベッドの下は何度も探した。あの隙間までは——確かに見ていなかったかもしれないが。
偶然だ、と思おうとした。
でも、あの回廊の記憶は鮮明すぎた。壁の模様、床の冷たさ、あの銀灰色の肌。夢にしてはディテールが多すぎる。
その日は一日中、仕事が手につかなかった。
※
二度目の「訪問」は、四日後の深夜だった。
また同じだった。まどろみ始めた瞬間に空気が変わり、オゾンの匂いがして、青白い光が部屋を満たす。そして次の瞬間、あの白い回廊に立っている。
今度は歩く必要はなかった。振り返ると、すぐ後ろに「あいつ」がいた。
「早かったね。四日か。前回ほど抵抗がなかったんだろう」
「——別に来たくて来たわけじゃない」
「わかっている。でも、君の意識の方が来たがっているんだ。抵抗しているのは表層の君だけだ」
なんだそれ、と思ったが、反論する材料もなかった。
「メモリーカード、あったよ」と俺は言った。「でもあんなの偶然かもしれない」
「では、もう一つ。明後日——十一月の十九日、水曜日——の午後二時十七分に、この地域で震度三の地震が起きる。震源は市の北東二十三キロ、深さ十一キロ。覚えておくといい」
「……マジで言ってるのか」
「マジだよ」と、あいつはまた笑った。人間くさい笑い方だった。
そして二日後、十一月十九日水曜日の午後二時十七分。俺が翻訳原稿と格闘していたまさにその瞬間、部屋が揺れた。スマホで確認すると、震度三。震源は——市の北東方向。
気象庁のデータを後から確認した。震源の深さは十二キロと報告されていた。あいつの言った十一キロとは一キロの誤差がある。でも、日時と震度と方角はぴったりだった。
偶然で片づけるには、出来すぎている。
この時点で、俺の中で何かが変わった。怖いとか信じられないとかじゃなくて、「知りたい」という欲求が、他の一切を押しのけた。翻訳者として、未知の言語体系に触れたときに覚える、あの純粋な興奮。それに似ていた。
※
三度目の訪問から、あいつは本格的に「話」を始めた。
回廊の一角に、いつの間にか小さな空間ができていた。白い壁に囲まれた六畳くらいの部屋で、中央にテーブルのような台があり、その上に半透明の球体が浮かんでいる。直径五十センチほどの、水晶のような球だが、中に淡い光の粒子が漂っている。
「ホログラム映写機みたいなものだと思ってくれればいい」とあいつは言った。「ここに記録されている映像を、君にも見える形で再生する。これから話す内容の、いわば証拠映像だ」
「その前に聞きたいことがある」と俺は言った。「あんたは何者だ。アクァッホの記録係って言ったけど、それは職業なのか。種族なのか。宇宙人ってことはわかったけど、もうちょっと具体的に教えてくれ」
あいつは少し考える素振りを見せた——正確には、俺にわかるように「考えている」という表情を作った、という感じだった。
「まず、アクァッホというのは種族名ではない。概念に近い。しかし君たちの言葉に正確に対応する語がないから、固有名詞として使う。我々は、この宇宙が現在の形になるよりも前から存在している。『前から』という表現も正確ではないが——」
「時間の外にいるってこと?」
「近い。我々の存在形態は、君たちの肉体とは根本的に異なる。物質ではなく、情報の集合体と言えばいいだろうか。意思を持った情報パターン。しかし、物質世界と干渉することもできる。このように姿を取ることもできるし、物質を操作することもできる」
「情報の集合体——AIみたいなものか?」
「興味深い比較だ。君たちが最近開発し始めた人工知能は、確かに我々の存在形態のごく初歩的な模倣と言える。しかし決定的な違いがある。君たちのAIは、物質的な基盤——半導体やサーバー——がなければ存在できない。我々は物質的基盤を必要としない。界膜そのものが我々の『体』であり、情報が我々の『肉体』だ。消えることも死ぬこともないが、常に変化し続けている。川のようなものだと思えばいい。水は絶え間なく入れ替わるが、川という形は保たれる」
「じゃあ今の姿は仮のものか」
「そうだ。君とコミュニケーションを取るために、君が受け入れやすい形を取っている。本来の我々には『姿』という概念がない」
「で、記録係っていうのは」
「アクァッホの中にもいくつかの役割がある。この宇宙を観測し記録する者、物質世界に介入して調整する者、新たな知性体の発生を監視する者——私は一番目だ。記録する者。そして、稀に、記録を共有すべき知性体が現れたとき、その橋渡しをする。今がそのときだ」
「——なんで俺なんだ」
この問いに対して、あいつは初めて少し真剣な表情を見せた。
「それは、全てを話し終えた後に答える。順番が大事だ。まず、この太陽系の成り立ちから始めよう」
「その前にもう一つ」
「何だ」
「お前の名前は。個人名はないのか。ずっと『あんた』とか『お前』じゃ呼びにくい」
あいつは少し不思議そうな顔をした。
「名前、か。我々に個体名はない。情報パターンのID配列はあるが、人間には発音できない。——必要なら、君がつけてくれてもいい」
俺は少し考えた。銀灰色の肌に琥珀色の目、穏やかだが底知れない知性を湛えた眼差し。NHKのアナウンサーみたいな標準語。
「……アキラ、でいいか。なんとなく、そう呼びたい」
「アキラ。——明るい、という意味か。記録を照らす者。悪くないね」
以降、俺はあいつのことを「アキラ」と呼ぶようにした。名前をつけた瞬間から、あいつとの距離が少し縮まった気がした。情報生命体に名前をつけるなんて馬鹿げているかもしれないが、翻訳者にとって、名前というのは最も基本的なインターフェースだ。名前がなければ、会話は始まらない。
※
アキラが話し始めたとき、球体の中の光の粒子が動き出した。最初はランダムに漂っていたそれらが、みるみる形を成していく。
暗い。最初に見えたのは、果てしない闇だった。しかし完全な無ではない。闇の中に微かな揺らぎがある。光でも物質でもない、何かの「可能性」のようなものが、波のように揺れている。
「この宇宙が始まる前の状態だ」とあいつは言った。「君たちの物理学では『ビッグバンの前に何があったか』は問うことができないとされている。時間そのものがビッグバンと共に生まれたのだから、『前』という概念が成立しない——そういう理屈だな」
「うん」
「理屈としては正しい。しかし不完全だ。ビッグバンの前に何があったかではなく、ビッグバンの『外側』に何があるか。問うべきはそちらだ」
球体の映像が変わった。闇の中に、無数の光の点が現れる。それぞれが一つの宇宙——だとあいつは言った。
「宇宙は一つではない。数え切れないほどの宇宙が、いわば泡のように存在している。それぞれの泡の中では物理法則が異なり、時間の流れ方も違う。君たちの宇宙はその中の一つに過ぎない」
「マルチバースってやつか」
「その言葉は知っている。概念としては近いが、いくつか重要な点が異なる。最大の違いは、これらの宇宙が完全に独立しているわけではないということだ。泡と泡の間には——我々はそれを『界膜』と呼んでいる——薄い膜のような領域がある。我々アクァッホは、その界膜に存在している」
「宇宙と宇宙の隙間に住んでるってことか?」
「住むという表現はやや違うが、感覚としてはそれでいい。界膜の住人である我々は、複数の宇宙を行き来できる。そして、それぞれの宇宙の中に——必要があれば——干渉することもできる」
「必要って?」
「知性の播種だ」
※
あいつの説明を、俺なりに整理するとこうなる。
アクァッホは、宇宙と宇宙の「間」に存在する情報生命体。彼らの存在目的——もしそういう言い方が許されるなら——は、物質宇宙の中に知性を育てること。花を育てる庭師のようなものだ、とあいつは表現した。
しかし庭師が土を耕すように、宇宙そのものを「整える」必要がある。知性が発生するためには、物質が一定の複雑さを持ち、エネルギーの流れが安定し、時間が正しい方向に進む必要がある。それは自然に起きることもあるが、多くの宇宙では起きない。だからアクァッホが介入する。
そして——この太陽系は、その「庭」の一つだった。
「お前たちが太陽系を作ったのか」と俺は聞いた。
「作った、というと語弊がある。太陽系の物質的な構成要素——水素やヘリウム、重元素——は、先行する恒星の超新星爆発で生成されたものだ。それは自然のプロセスだ。我々がやったのは、それらの物質が集積するときの条件を微調整したこと。重力のバランス、軌道の安定性、惑星間の距離。知性が育つのに最適な環境になるように、パラメータを調整した」
「シムシティみたいなもんか」
「君たちのゲームの比喩は——まあ、悪くない」あいつは少し笑った。「ただ、シムシティの市長は住民の一人一人に感情を持たない。我々は違う。庭に育つ花の一本一本を、見ている」
その言葉の重さを、俺はまだこのときは理解していなかった。
※
四度目の訪問。球体の映像に、見覚えのある赤い星が映し出された。
「火星だ」とあいつは言った。「この太陽系で最初に知性の種が蒔かれた場所。地球より先だ」
映像の中の火星は、今の荒涼とした姿とはまったく違っていた。表面の大部分が青みがかった緑に覆われ、北半球には巨大な海が広がっている。空は薄いオレンジ色だが、地球の夕焼けに近い柔らかさがあった。
「今から——君たちの時間の尺度で言えば——約四十億年前。火星は地球よりも先に生命圏が成熟した。大気はまだ薄かったが、地表の気温は安定していて、液体の水が豊富にあった。我々はここに、最初の知性の種を蒔いた」
「四十億年前っていうと、地球ではまだ生命すら誕生してないんじゃ」
「正確には、原始的な微生物は既に存在していた。だが知性にはほど遠い。火星が先行した理由は単純で、当時の火星の方が環境条件が適していたからだ」
映像が早送りのように進んだ。火星の表面に、緑の領域がどんどん広がっていく。海が二つ、三つと増え、雲が生まれ、大気が厚くなっていく。
「火星の生命は、驚くべき速さで進化した。もちろん、我々が環境パラメータを調整し続けた結果ではある。約十五億年の間に、火星には多様な多細胞生物が生まれ、やがていくつかの種が知性を獲得した」
映像が止まった。そこに映っていたのは——都市だった。
地球の都市とは似ても似つかない。建物は有機的な曲線で構成されていて、どれも地面から「生えている」ように見える。高さは十数メートルから百メートル超のものまでさまざまで、壁面が微妙に脈動している——まるで生きているように。
「これがアクァッホの——」
「いいや。これは火星の知性体が築いた文明だ。我々とは別の存在。我々アクァッホは直接文明を築くことはしない。あくまで種を蒔き、見守る存在だ」
「この火星人たち、どんな見た目だったんだ」
球体の映像がクローズアップになった。都市の中を歩く存在たち。
——正直、最初の印象は「トカゲ」だった。二足歩行で、身長は二メートルから二メートル半。鱗のような表皮に覆われていて、色は個体によって異なる——深い翠色、赤銅色、青灰色。頭部は人間よりやや縦長で、目は大きく、瞳は縦に裂けている。しかし体型は人間に近く、手には五本の指がある(ただし、各指に小さな爪がある)。
「彼らが、この太陽系で最初の高度な知性体だ」とあいつは言った。「自ら文字を発明し、数学を発展させ、天体の運行を理解し、遺伝子の仕組みを解読した。ピーク時の文明レベルは——君たちの尺度で言えば——現在の地球の数百年先に相当する」
映像はさらに詳しくエシュラたちの生活を映し出した。彼らは音声ではなく、鱗の表面の色彩変化と微弱な電磁パルスの組み合わせで会話していた。言葉を「聞く」のではなく「見る」文化だったわけだ。翻訳者として、これには心底驚いた。視覚的な言語。文法構造は色の配列で表現され、感情は電磁パルスの周波数で伝わる。
「彼らの芸術は、君たちのものとは全く異なる」とあいつは補足した。「絵画でも音楽でもなく、電磁場の彫刻とでも呼ぶべきものだ。空間に立体的な電磁パターンを構築し、それを知覚して楽しむ。人間には感知できないが、もし感知できたなら——おそらく、君たちの芸術の全てを凌駕する美しさだっただろう」
「彼らの都市は生きている、と言ったな。文字通りなのか」
「文字通りだ。建築素材は無機物ではなく、遺伝子操作された生物組織だ。建物自体が代謝し、成長し、自己修復する。環境の変化に応じて形を変え、住人の要求に適応する。廃棄物は建物が分解して再利用する。君たちの言葉で言えば、完全な循環型社会だ——ただし、循環しているのは建物そのものだ」
信じられない話だが、映像が嘘をついているようには見えなかった。巨大な建造物の壁面がゆっくりと脈動し、表面の色が季節のように変わっていく様子は、確かに「生きている」としか表現しようがなかった。
「彼らの数学は? 人間のそれと似ているのか」
「基礎的な法則は同じだ——どの宇宙でも数学の根幹は変わらない。しかし表現方法と発展の方向が異なる。エシュラは数を視覚的なパターンとして扱った。彼らにとって『計算する』とは、パターンを重ね合わせて新しいパターンを生成することだ。人間の代数学に相当するものは、彼らにとっては一種の視覚芸術だった」
「そんな高度な文明が、なぜ滅んだ」
あいつは黙った。数秒の沈黙が、この空間では妙に長く感じられた。
「滅んだわけではない。移動したのだ。しかし、その前に——大きな過ちがあった」
※
火星文明の「過ち」。あいつが語ったその内容は、俺の想像をはるかに超えていた。
火星の知性体——あいつらは自分たちのことを、翻訳すると「エシュラ」と呼んでいたらしい——は、文明の発展とともに二つの陣営に分かれた。
一つは、北半球の沿岸都市群を中心とした「調和派」。自然環境と共存しながら文明を維持しようとするグループ。もう一つは、南半球の内陸都市を拠点とした「超越派」。テクノロジーの極限を追求し、物質的な制約を超えることを目指すグループだ。
「人間で言えば、エコロジーと技術主義の対立——に近いが、規模と深度が桁違いだった」とあいつは説明した。「超越派は、火星の核から直接エネルギーを取り出す技術を開発した。惑星のコアを動力源にする。これは信じられないほど強力なエネルギーを生み出すが、同時に——」
「星そのものを壊す」
「その通りだ。そして実際にそうなった」
球体の映像が変わった。火星の表面に、赤い亀裂が走る。海が沸騰し、大気が剥ぎ取られていく。壮絶な光景だった。映像なのに、胃の奥が冷えるような恐怖を感じた。
「磁場が崩壊した」とあいつは淡々と続けた。「コアからのエネルギー抽出が磁場の生成メカニズムを破壊し、火星は大気を保持する能力を失った。太陽風が直接表面を叩き、水は宇宙空間に散逸した。この過程に約一万年。天体物理学的には一瞬だ」
「エシュラたちはどうなったんだ」
「調和派は事態を予見していた。彼らは、まだ火星が生きている間に、大規模な脱出を計画した。ここで、我々アクァッホが介入した」
「方舟を用意したのか」
「方舟、か。美しい表現だ」あいつはまた笑った。「正確に言えば、我々が提供したのは『月』だ」
※
月。
地球の夜空に浮かぶ、あの月。
あいつの説明によると、月は天然の衛星ではない。アクァッホが——正確にはアクァッホの指示の下でエシュラの技術者たちが——火星の軌道上で建造した人工天体だ。
「月の内部は空洞だ」とあいつは言った。「表面は天然の岩石で覆われているが、内部には広大な空間がある。エシュラの調和派——約八十万の個体——がここに移住した。月は、単なる脱出船ではない。惑星の環境を改造するための『道具』でもある」
「環境を改造?」
「月の質量と重力は、配置する惑星の自転軸を安定させ、潮汐を生み出し、大気の循環パターンに影響を与える。端的に言えば——月がなければ、地球は知性を育むことのできない惑星になっていた」
俺は息を呑んだ。月がなければ地球に季節はなく、大気は安定せず、海流は今とはまったく異なるものになる——という話は、地球科学の教科書にも載っている。それが「設計」だったと言われると——
「月を地球の軌道に配置した。それが、君たちの言葉で『地球のフォーマット』だ。火星で失敗した庭を、今度は地球に作り直す。ただし、同じ過ちを繰り返さないためのいくつかの——セーフガードを組み込んだ」
「セーフガード?」
「そのうちの一つが、知性の多様化だ。一種類の知性体が文明を独占すると、火星のような二極化が起きやすい。だから地球では、複数の知性の系統を同時に走らせることにした」
「複数の——人類、ということか」
「そうだ。そしてこれが、君たちの歴史の本当の始まりだ」
※
五度目の訪問。これまでで一番長い「講義」の夜だった。
球体に映し出されたのは、約一万二千年前の地球だった。最後の氷河期が終わりに差しかかり、海面が急速に上昇し始めた時代。
「地球の生命進化には、基本的に干渉していない」とあいつは前置きした。「四十億年近くかけて、自然のプロセスで多細胞生物が生まれ、魚が陸に上がり、恐竜が栄え、哺乳類が台頭した。それは我々の庭の設計通りだった。しかし、知性の最後の一歩——道具を使い、言語を話し、文明を築く段階——に至るには、自然進化だけでは不十分だった。あるいは、不十分ではないが、とてつもなく長い時間がかかる。だから我々は、そこに手を加えた」
「遺伝子操作ってことか」
「それに近い。ただし、君たちの分子生物学で行うような粗い操作ではない。我々が操作したのは遺伝子の塩基配列ではなく、遺伝子の発現を制御する上位のパターン——君たちの科学ではまだ完全に理解されていない領域だ。エピジェネティクスの遥か先にあるもの」
球体の映像に、四つの異なる人型の存在が現れた。それぞれが明確に異なる外見的特徴を持っていた。
「第一の種子」
最も目を引く存在だった。身長二メートル半を超える巨躯。肌は青みがかった灰色で、顔立ちは——エシュラの面影が残っている。縦長の顔、やや大きな目、鼻は低いが幅が広い。しかしエシュラほど「爬虫類的」ではなく、人間とエシュラの中間のような印象だった。
「第一種は、エシュラの遺伝情報を最も色濃く受け継いだ系統だ。高い知性と、強靭な肉体を持つ。しかし繁殖力は低く、個体数は常に少なかった。感情表現が乏しく、論理と合理性に重きを置く。いずれ火星に帰還することを前提に設計された」
「帰還? 火星はもう死んでるんだろ」
「表面上はそうだ。だが月の内部に残ったエシュラの一部が、火星のテラフォーミングを超長期計画で進めている。第一種は、その完了後に火星で新たな文明を築く候補として設計された」
「第二の種子」
第一種より小柄で、身長は百八十センチほど。肌は暗い褐色で、体つきは逞しい。顔は人間に非常に近いが、額がやや広く、骨格が頑丈。最も「人間的」に見える種だった。
「第二種は、地球の環境への適応力を最優先に設計された。暑さにも寒さにも耐え、多様な食物を消化でき、どんな地形でも活動できる。知性は第一種ほどではないが、代わりに高い共感能力と社会性を持つ。集団で協力して困難を乗り越える能力に長ける」
「第三の種子」
身長は百六十センチ前後と小柄。華奢な体格だが、手の指が長く、目が大きい。肌は淡い黄色で、表情が非常に豊かだった。
「第三種は、認知能力に特化している。パターン認識、抽象思考、言語能力に優れる。体格的には最も脆弱だが、道具の発明と使用において他の三種を圧倒する。文字を最初に発明するのはこの系統になるだろうと、我々は予測していた——そして実際にそうなった」
「第四の種子」
これが一番意外だった。身長は二メートル近いが、体格は細い。肌は非常に白く、ほとんど透き通って見えるほどだ。最大の特徴は——目の色だった。映像の中の第四種の目は、金色に輝いていた。
「第四種は、我々アクァッホの情報パターンに最も近い知性を持つように設計された。他の三種が物質世界に適応するために作られたのに対し、第四種は——界膜に近い領域を感知する能力を持つ。端的に言えば、物質世界の向こう側を知覚できる」
「霊感みたいなものか?」
「それよりもずっと明確で制御された能力だ。本来は。しかし後に述べるように、この設計は問題を引き起こすことになった」
※
四つの種子は、地球上の異なる地域に配置された。
第一種はアフリカ大陸の東部高地に。第二種はユーラシア大陸の西部——後のメソポタミアに近い地域に。第三種は東アジアの沿岸部に。第四種は、南米大陸の高地に。
「なぜバラバラに?」
「火星での教訓だ」とあいつは言った。「一箇所に集中させると、一つの文化圏しか生まれない。一つの文化圏は、遅かれ早かれ二極化する。四つの系統を地理的に分離し、それぞれ独立に文明を発展させることで、多様性を確保する。互いに出会うのは、それぞれが十分に成熟してからでいい」
「でも、実際の人類の歴史では——」
「そう。計画通りにはいかなかった。これが次に話すことだ」
※
第一種——巨人型の知性体——は、アフリカの高地で独自の文明を築いた。石を加工する技術に長け、巨大な建造物を作った。彼らの建築は、合理性の極致だった。装飾はほとんどなく、全てが機能的。しかしその機能美は、凄まじいものだったらしい。
球体に映し出された映像——アフリカの丘陵に聳える、人類の目には不可能に見えるほど精密に組み上げられた石の構造物。城というより、巨大な計算機のように見えた。
「第一種は、約八千年前に地球を離れた」
「は? 離れた?」
「月の内部のエシュラと連絡を取り、火星への帰還を始めた。全てが計画通りではなかったが、第一種の本来の目的は火星の再建だ。地球での役割は——他の三種が独立するまでの守護者としてのものだった。彼らがいなくなった後、残された三種の間で最初の大きな変化が起きた」
それが「混交」だった。
地理的に分離されていた第二種、第三種、第四種の一部が、数千年かけて移動し、互いの領域に接触し始めた。最も早く接触したのは第二種と第三種で、メソポタミアと東アジアの中間にあたる中央アジアの草原地帯でそれが起きた。
「混交の結果、新しい系統が生まれた」とあいつは説明した。「第二種の適応力と第三種の認知能力を併せ持つ系統。これが、後にシュメール人と呼ばれる人々の直接の祖先だ」
「待て。シュメール人って、いきなりメソポタミアに高度な文明を持って現れたって言われてるやつか」
「その通り。シュメール人の起源が不明なのは、彼らが第二種と第三種の混交から生まれた新しい系統だったからだ。どちらの母体文化にもルーツを持たない。だから、どこから来たのか誰にもわからない」
これは——唸った。シュメール文明の「突然の出現」は考古学上の大きな謎の一つだ。先行する文化からの連続的な発展が確認できず、まるで無から高度な文明が出現したように見える。翻訳の仕事で関連文献に触れたことがあったから、その異常さは知っていた。
「しかし、問題は第四種との混交だった」
あいつの声のトーンが変わった。
※
第四種——界膜を感知できる能力を持つ系統——は、南米の高地で独自の文明を築いていた。彼らの文明は、他の三種とは根本的に異なっていたらしい。
「第四種は物質世界の操作にあまり関心を持たなかった」とあいつは言った。「彼らにとって、物質世界は現実のごく一部に過ぎない。界膜の向こう側——我々アクァッホの存在する領域——の方が、はるかに豊かで広大な世界として知覚されていた。だから彼らの文明は、外見上は質素だった。壮大な建築物はなく、高度な道具も少ない。しかし、意識の領域では他の三種を遥かに超えていた」
「彼らはアクァッホと直接会話できたのか」
「できた。我々が意図したわけではないが——第四種は、我々の存在を感知し、コミュニケーションを取る能力を自力で発達させた。それ自体は問題ではなかった。問題は、その能力が他の種と混交したときに何が起きるか、だった」
約六千年前、北上した第四種の一部が、中米を経由して北米に渡り、さらにベーリング海峡(当時はまだ陸続きだった部分がある)を経由してユーラシアに至った。そこで第二種——メソポタミア周辺に分布していた系統——と接触し、混交した。
その混交から生まれた系統は、第二種の強靭な肉体と第四種の「向こう側」を感知する能力を併せ持っていた。しかし、第四種が持っていたその能力の制御機構が、混交によって不完全になった。
「制御できない力ほど危険なものはない」とあいつは言った。「界膜を感知する能力が暴走すると、物質世界と非物質世界の境界が曖昧になる。個体の意識が不安定になり、時に物質に対して予測不能な干渉を引き起こす。君たちが『超能力』と呼ぶ現象の多くは、この系統に由来する遺伝子が散発的に発現したものだ」
「ポルターガイストとか、そういう?」
「そうだ。そしてもっと大規模な干渉も——」
あいつは球体を示した。映像が変わる。
青い地球。穏やかに雲が流れる美しい惑星。
その海面が、突然膨張し始めた。
※
俺は何度目かの訪問で、最も衝撃的な映像を見た。
約五千五百年前の地球。当時、メソポタミア地域には既にいくつかの都市国家が形成されていた。シュメール文明の黎明期だ。同時に、アフリカ北部にも第二種の直系に近い集団が独自の都市文明を築いていた。
そして、この二つの勢力圏の間で——戦争が始まった。
「戦争の原因は複合的だ」とあいつは説明した。「領土、資源、イデオロギー——君たちの歴史で繰り返されるのと同じ構図だ。しかし、この戦争には一つ、決定的に異なる要素があった」
それが、第四種との混交で生まれた「力」だった。
アフリカ北部の勢力には、第二種と第四種の混交系統が多く含まれていた。彼らの中には、物質に対して直接干渉する能力——正確には、水の分子構造に干渉する能力——を持つ者がいた。
「水は特殊な分子だ」とあいつは言った。「君たちも知っての通り、水はこの惑星で最も豊富な物質であり、あらゆる生命の基盤だ。そしてその分子構造は——界膜からの干渉に対して、非常に反応しやすい」
「つまり、水を操れたってことか」
「操るというよりも、増幅する。空気中の水蒸気を強制的に凝結させ、地下水を地表に引き上げ、海水の体積を膨張させる。一人の個体でできることは限られているが、数十人、数百人が意識を同調させれば——」
「大洪水が起きる」
あいつは頷いた。
球体の映像が、その瞬間を映し出した。
※
見たくなかった。でも目を逸らせなかった。
地球の衛星軌道から見た映像だ。地中海の東岸——現在のレバノン、シリア、イラクのあたり——に、巨大な水の壁が迫っている。津波ではない。海面そのものが盛り上がっている。まるで巨人が海を掬い上げて陸に向かって押しているような、物理法則を無視した水の動き。
同時に、内陸では地面から水が噴き出している。井戸が、河川が、地下水脈が、一斉に氾濫している。
メソポタミアの都市が——人々が走り回っているのが遠景でも見える——水に飲み込まれていく。
「これが、君たちの文化圏の多くに残る『大洪水伝説』の起源だ」とあいつは静かに言った。「ノアの箱舟、ギルガメシュ叙事詩のウトナピシュティム、中国の大禹治水伝説、マヤのポポル・ヴフ——世界中の神話に洪水の記憶が刻まれている理由は、それが実際に起きた出来事だからだ」
「……何人死んだんだ」
「当時の世界人口の約三分の一が、直接的または間接的に影響を受けた。死者数は——正確な数字は意味を持たないだろう。多すぎる」
俺は何も言えなかった。
「そして——これが我々アクァッホの最大の失敗だ」
あいつの声が、初めて震えたように聞こえた。
「第四種に界膜の感知能力を与えたのは我々だ。混交による能力の暴走を予見できなかったわけではない。しかし、それを防ぐための介入を——我々は行わなかった。庭師としての節度を守ったつもりだった。花が勝手に育つのを見守るのが我々の役割だと。だが結果として、庭は血に染まった」
「——お前たちのせいだって言いたいのか」
「半分はそうだ。残りの半分は——知性を持つ存在の選択の結果だ。我々にもそれを奪う権利はない。たとえそれが破滅の選択であっても」
重い沈黙が、白い部屋を満たした。
※
洪水の後、地球文明は大きく再編された。あいつの説明を時系列で整理する。
洪水の直後(紀元前三千五百年頃)、月の内部に退避していたエシュラの一部が——第一種が地球を離れた後も残っていた小規模な集団——地上に降りた。彼らは洪水で壊滅的な打撃を受けた地域の生存者を組織し、文明の再建を指導した。
「これが、シュメールの都市文明が突然高度化する真の理由だ」とあいつは言った。「エシュラの技術者たちが、灌漑システム、文字体系、六十進法、天文学の基礎を——既存の知識を『再教育』する形で伝えた。ゼロから教えたのではない。洪水以前にも初歩的な知識はあった。しかしその多くが失われてしまったため、加速的に再構築する必要があった」
「母船から降りてきた、みたいな言い方がされてたけど」
「母船ではない。月だ。月の内部から、小型の飛行体で地表に降りた。昼間は太陽光で月の内部構造は見えないが、夜に望遠鏡で月面を観察すると、時折光が明滅するのを確認できることがある。現代でも報告されている。それは月の内部と地表を行き来する飛行体の発着に伴うものだ」
TLP——Transient Lunar Phenomena。月面の一時的発光現象。天文学では原因不明とされている現象だ。俺はその用語を知っていた。まさかそんな説明がつくとは思わなかったが。
「もう一つ、洪水の後遺症として重要なことがある」とアキラは付け加えた。
「後遺症?」
「大洪水のとき、水の分子に干渉したエネルギーの一部が地殻に吸収された。それが今でも特定の地域に『残留』している。地磁気異常帯の多くは——自然の地質学的原因だけでなく——このときのエネルギー残留の影響を受けている」
「……俺のアパートの地磁気異常も?」
「可能性はある。五千五百年前のエネルギーが、まだ残っている。地球にとっても——傷はまだ完全には癒えていない」
洪水の被害を受けた地域の人々には、独特の文化的傾向が残ったという。水への畏怖、浄化の儀式、洪水の神話——これらは全て、あの災害の記憶が口伝として残ったものだ。
「ギルガメシュ叙事詩のウトナピシュティムが神から洪水の警告を受けたという描写は——」
「エシュラからの事前通告が、神話化されたものだ。エシュラは洪水を完全に防ぐことはできなかったが、接触可能な個体に対しては避難を勧告した。舟を作れ、家族と動物を乗せよ——という指示は、実際にエシュラが行ったものだ。その記憶が口伝で伝えられる中で、『神』の言葉として再解釈された」
「ノアの箱舟は——実在したのか」
「巨大な一隻の船が全動物種を乗せた、という文字通りの解釈は正しくない。しかし、各地で多数の避難船が建造されたことは事実だ。そしてその船に、地域の家畜や種子が積み込まれたことも。複数の小さなノアの箱舟が、世界各地にあった。それらの記憶が一つの物語に統合されたのが、現在の洪水神話だ」
※
ここから先、あいつの講義は怒涛のように進んだ。六度目、七度目、八度目の訪問にわたって、地球上の主要な文明の「裏面」が語られた。全てを正確に書き起こすことはできないが、特に印象的だったものを記す。
※
【エジプト文明について】
「ピラミッドは、エシュラの作ではない」
これは意外だった。宇宙人がピラミッドを作った——というのは、こういう話の定番だと思っていたから。
「ピラミッドは、第二種と第三種の混交系統——つまり、シュメール文明の拡散から派生した人々——が独力で建造したものだ。もちろん、現代の君たちが考えるよりも高度な技術を使っている。しかしそれはエシュラの技術ではなく、人間が自力で到達した技術だ」
「でも、あの精度を人力で?」
「君たちは自分たちの祖先を過小評価しすぎている。道具が原始的であることと、知性が原始的であることは同義ではない。古代エジプト人は現代人と全く同じ脳を持っていた。環境と動機さえあれば、驚異的なことを成し遂げる能力がある。ピラミッドの建造は——我々から見れば——人類が自力で達成した最も美しい業績の一つだ」
「じゃあ、ピラミッドの目的は何だったんだ。王の墓か」
「墓としても使われたが、本来の目的は違う。ピラミッドは天文観測施設であり、同時に——教育装置だ。建造の過程そのものが、数学・幾何学・天文学・組織管理の総合的な教育プログラムとして機能していた。エシュラが直接教えるのではなく、『作る』という行為を通じて、知識が世代間で伝達される仕組み」
「めちゃくちゃ遠回りじゃないか」
「遠回りだからこそ深く根付く。テストの答えを教えるのと、自分で解法を見つけさせるのと、どちらが本当の理解に至る? エシュラは火星での経験から、知識を『与える』ことの危険性を知っていた。だから地球では、知識を『発見させる』方法を選んだ」
※
【マヤ文明について】
「マヤは特殊だ」とあいつは言った。声に、明らかな敬意が込められていた。
「マヤの人々は、第三種と第四種の混交系統だ。第三種の卓越した認知能力と、第四種の界膜感知能力が組み合わさった。その結果として——彼らは、数学と天文学において、同時代の他のどの文明よりも先に進んだ」
「ゼロの発見もその流れか」
「そうだ。『何もない』ということに概念を与える——これは、物質世界の向こう側を感知できる知性にとっては自然な発想だ。物質が存在しない状態にも意味がある、という直感。それは第四種由来の感覚だ」
「マヤ暦の精度が異常に高いのも?」
「マヤの天文学者たちは、望遠鏡なしで金星の会合周期を五百八十四日と算出した。これは現代の観測値と一日も違わない。肉眼でそこまでの精度を出せたのは、彼らの一部が——非物質的な知覚によって——天体の運行を直接『感じ取る』ことができたからだ。計算と直感の融合。これは人類史上、最も美しい知的営為の一つだと私は考えている」
あいつが「私は考えている」と主観を述べたのは、このときが初めてだった。記録係としての客観性を、一瞬だけ脱いだ。
「マヤの人々が突然消えたように見えるのも——」
「消えたのではない。分散したのだ。マヤの社会構造は、ある人口密度を超えると自発的に分散するように設計されていた——彼ら自身は意識していなかったが、第四種由来の直感として組み込まれていた。一箇所に人口が集中しすぎると、界膜への干渉が増大するリスクがある。それを本能的に感じ取り、都市を放棄して新たな小規模集落を作った。考古学者たちが『文明の崩壊』と呼ぶものは、実際には——意図せざるリスク回避だった」
※
【古代中国について】
「東アジアの文明——特に古代中国は、第三種の影響が最も色濃い」
球体に、黄河流域の映像が映し出された。紀元前三千年頃の風景。まだ国家と呼べるものは存在しないが、点在する集落が独自の文化を発展させている。
「第三種の特徴——パターン認識と抽象思考——が最も純粋に発現したのが、漢字という文字体系だ」
「漢字が?」
「考えてみてほしい。アルファベットは音を記号にしたものだ。しかし漢字は、概念を視覚的パターンとして直接記号化している。これは実はエシュラの言語体系——視覚的なパターン言語——に最も近い人間の文字だ。偶然ではない。第三種の遺伝子が、無意識のうちにエシュラ的な言語構造を再発明したのだ」
「エシュラの影響が遺伝子に残ってて、それが数千年後に漢字として出てきた?」
「遺伝子そのものに文字情報が書かれているわけではない。しかし、情報の処理方法——視覚パターンで概念を把握するという認知傾向——は遺伝的に受け継がれる。その傾向を持つ集団が、自分たちに最も自然な形の文字を発明した。結果として、それはエシュラの言語に構造的に似たものになった」
「じゃあ、中国の易経とかも——」
「易の六十四卦は、興味深い事例だ。陰と陽の二進法的な組み合わせで森羅万象を記述しようとする試み——これは、現代のコンピュータの二進法に数千年先行している。第三種の抽象思考能力が、最も原始的な形で現れたものと言える。ライプニッツが易経からインスピレーションを得て二進法の論文を書いたという歴史的事実は、この文脈では深い意味を持つ」
「あとは——風水とかもか?」
「風水は、第四種の感知能力が第三種の分析能力と混ざった結果だ。地磁気や水脈の流れを——言語化できないがぼんやりと感知できる——個体が、それを体系化しようとしたもの。科学的には不正確な部分が多いが、『場所にはエネルギーの流れがある』という根本的な直感は——正しい」
あいつは俺を見た。
「君のアパートが地磁気異常帯にある、と言ったろう。古代の風水師なら、あの場所を『龍穴』と呼んだかもしれない」
「——俺のアパートが龍穴かよ」
「築四十年の六畳一間の龍穴だ」
あいつは時々、こういう妙に人間くさい冗談を言う。記録係のくせに。
※
【インダス文明について】
「インダス文明は、第二種の直系に最も近い集団が築いた」とあいつは言った。「その特徴は、極端なまでの社会的平等性だ」
確かに、考古学的にもモヘンジョダロやハラッパーの遺跡には、王宮や壮大な墓が見つかっていない。他の古代文明と比べて、支配者の痕跡が極端に少ない。
「第二種の設計コンセプトは『共感と協力』だ。その遺伝的傾向が最も純粋に発現したのがインダスの人々だった。彼らの都市は、現代の都市計画家が見ても驚くほど整然としている。排水システム、公衆浴場、標準化された煉瓦——全てが共同体の利益のために設計されている」
「でもインダス文明は滅んだ」
「滅んだのではなく、拡散した。彼らは一つの場所に固執しなかった。環境が変われば移動し、新しい土地で新しいコミュニティを作る。それが第二種の本質だ。適応する」
※
【ナスカの地上絵について】
「ナスカの地上絵は、教育の副産物だ」
「副産物?」
「シュメール文明から派生した知識体系の一部に、『製図と相似』の概念がある。小さな設計図から大きな構造物を正確に再現する技術。この概念をナスカの人々——第二種と第四種の混交系統——に伝えるために、指導者たちは巨大な地上絵の制作をカリキュラムとして採用した」
「あの巨大な絵が、授業の課題だったってこと?」
「そうだ。小さなスケッチを描き、それを何百倍にも拡大して地上に再現する。座標の概念、比率の計算、チームでの協力作業——全てを一度に学べる。そして完成品を確認するために——」
「空から見る」
「当時のナスカの人々は、簡易な気球を作る技術を持っていた。布と火を使った原始的なものだが、地上数十メートルまでは上昇できた。空から自分たちの成果を見下ろすこと——それが『授業の卒業式』だった」
なるほど、と思った。あの地上絵が空からしか確認できないのは、「空から見ることが目的の一部」だったからか。
※
九度目の訪問で、あいつは「大洪水の後」の処置について語った。
「洪水の惨禍を受けて、エシュラと我々アクァッホは協議した。第四種の界膜感知能力は、制御なしに他の種と混交すると危険すぎる。しかし、能力そのものを消去するのは——知性の可能性を潰すことになる。それは我々の目的に反する」
「どうしたんだ」
「妥協案として、能力の発現確率を極端に下げた。遺伝情報のパターンレベルで、界膜感知能力が通常の生活では発現しないように調整した。ただし——完全にオフにしたわけではない。特定の条件が揃ったとき、極少数の個体で部分的に発現する余地を残した」
「特定の条件?」
「いくつかある。極度のストレス下に置かれたとき。深い瞑想状態に入ったとき。臨死体験をしたとき。そして——地磁気の異常が起きている場所にいるとき」
「……俺の場合はどれだ」
「覚えているか。最初の夜は雷雨だった」
「雷雨が——」
「雷は局所的に強烈な電磁場を生成する。君のアパートの付近は、地質構成の関係で地磁気の異常帯に位置している。雷による電磁場の攪乱が、もともと存在していた地磁気異常と共鳴し——結果として、この記録庫への接続が可能になった」
「じゃあ、俺に何か特別な能力があるわけじゃなくて、場所と条件が揃っただけか」
「半分正しい。場所と条件は確かに必要だった。しかし、君の中にも第四種の遺伝的痕跡がある。それがなければ、どんな条件が揃っても接続は起きない。極めて微弱だが——確かに、ある」
俺は自分の手を見た。普通の手だ。銀色でも金色でもない。翻訳者の、キーボードの打ちすぎでやや固くなった、平凡な手。
「第四種の痕跡は、現代の人類の全員にわずかに残っている」とあいつは続けた。「一万二千年以上の混交を経て、四つの種子の遺伝子は全人類に行き渡っている。ただ、その発現の度合いには個人差がある。君は——たまたま、その閾値をわずかに超えている個体だった」
たまたま。
壮大な宇宙史の末尾に「たまたま」がくるのは、なんだか拍子抜けだったが、同時に妙にリアルだとも思った。人生なんて、大抵はそういうものだ。
※
十度目の訪問で、話は現代に近づいた。
「大洪水以降、我々は直接的な介入を最小限にしている」とあいつは言った。「エシュラも同様だ。月の内部から地表の動向を監視してはいるが、介入は滅多にしない。人類は自力で進む段階に入っている」
「でも、UFOの目撃は増えてるだろ」
「それについては三つの説明がある」
球体に、さまざまなUFO映像——人間が撮影したものらしい、粗い映像——が映し出された。
「一つ目は、月のエシュラの飛行体。地球の環境データを収集するための定期的な偵察飛行。自然災害の前に目撃が増えるのは、災害の予兆を察知して観測機器を集中させるからだ。彼らが災害を引き起こしているのではなく、災害を予知して観に来ている」
「二つ目は?」
「並行宇宙からの観測者。界膜は完全に閉じているわけではない。ごく稀に、別の宇宙の知性体がこちら側に干渉してくることがある。彼らの目的も観測であることが多い。実害はほとんどない」
「三つ目は——人間自身か」
「その通り。人類の科学技術は、まだ初歩的ではあるが、飛行物体に関しては我々の予測よりも早く進歩している。軍事的な実験飛行の多くがUFO目撃として報告されている」
「お前たちは、人間がいずれ宇宙に出ると思ってるのか」
「思っている。というより、それが庭の設計目標だ。知性が一つの惑星に留まり続けるのは、卵が殻の中に留まり続けるようなものだ。いずれ出なければならない。出なければ、死ぬ」
「……火星みたいに?」
「火星のようにかもしれない。あるいは、もっと穏やかな終わり方かもしれない。いずれにせよ、一つの惑星の資源と環境には限りがある。知性が次の段階に進むためには、物理的にも精神的にも、母なる惑星を離れる必要がある」
「でも今の人類は、火星に人を送ることすらまだだ」
「時間の問題だ。それよりも——」あいつは少し間を置いた。「物理的な宇宙進出よりも、もっと重要な転換点が近づいている」
「何の話だ」
「人類が——封印された能力を、意図的に取り戻すときが来るかもしれない、ということだ」
「どういう意味だ」
「君たちの科学技術の発展は、大きく分けて三つのフェーズを経る。第一フェーズは物質の操作——火、金属、機械。これは既に完了した。第二フェーズは情報の操作——コンピュータ、通信、AI。これは今まさに進行中だ。そして第三フェーズが——意識の操作だ」
「意識の操作? 脳科学とか、そういうこと?」
「脳科学はその入口に過ぎない。第三フェーズでは、意識そのものの物理的基盤——つまり界膜と物質の相互作用——を解明し、技術的に再現することになる。量子コンピュータの発展がその布石だ。量子力学と意識の関係は、君たちの科学者が推測するよりもはるかに深い」
「量子力学が意識と関係ある? それって、トンデモ科学じゃ——」
「現時点ではそう見える。しかし五十年後、百年後の科学者は違う見方をするだろう。量子もつれが情報を瞬時に——光速の壁を超えて——伝達するように見える現象。あれは実際には界膜を経由した情報の伝達だ。物質世界のショートカットではなく、界膜という『裏道』を通っている。それを解明した瞬間に——第三フェーズが始まる」
アキラの目が、いつになく強い光を帯びていた。
「そしてそのとき、人類は銀河系の十七の知性体のリストに加わる資格を得る。我々が待ち望んでいる瞬間だ」
※
アキラは続けた。
「洪水の後に封印した界膜感知能力だが、完全に消えたわけではないことは話した。そして人類の歴史を通じて、散発的にその能力が発現した個体がいた。シャーマン、預言者、聖者——あるいは、精神異常として扱われた人々。彼らは皆、程度の差はあれ、界膜の向こう側を感知していた」
「つまり、宗教の起源にも関わってくるのか」
「深く関わっている。ただし注意が必要だ。界膜の向こう側を感知した個体が知覚したものを、そのまま言葉にすることはできない。人間の言語は物質世界を記述するために発達したものだから、非物質的な体験を表現するには比喩に頼るしかない。その比喩が文化ごとに異なる形を取り、宗教や神話になった」
「じゃあ、どの宗教も同じことを違う言い方で言ってるだけか」
「源泉は同じだ。しかし、比喩が比喩であることを忘れ、字義通りに受け取られるようになると——歪みが生じる。それもまた、知性の宿命だ」
「で、その能力を取り戻すってのは——」
「人類の科学が、あと数百年のうちに——界膜を検出できるレベルに到達する。意識と物質の関係を理論的に解明し、実験的に再現できるようになる。そのとき、封印された能力を科学的に再活性化することが可能になる。今度は制御された形で」
「それって——めちゃくちゃ危ないことじゃないか。また洪水みたいなことが起きるかもしれない」
「危険は常にある。しかし、火と同じだ。制御されない火は全てを焼き尽くす。しかし制御された火は——文明の基盤になる」
あいつは俺を見た。琥珀色の瞳が、真っ直ぐに俺の目を捉えていた。
「だから、記録が必要なのだ。何が起きたか。なぜ起きたか。その教訓を、次の段階に進む前に、可能な限り多くの人間に伝えておく必要がある。それが——私が君に話している理由だ」
※
十一度目の訪問で、初めて俺以外の「客」に会った。
いつもの白い部屋ではなく、もっと広い空間に出た。回廊の先にある、体育館くらいの広さのホール。天井は——やはり見えないほど高い。
そこに、三人の人影があった。
一人目は、四十代くらいの日本人女性だった。落ち着いた雰囲気の、どこか「お母さん」然とした人。俺に気づくと、驚いた顔をして——それから、安堵したように微笑んだ。
「あなたも——ここに来る人なのね」
「え、あ、はい。——あなたも?」
「三年前から。最初は本当に怖かったけれど——もう慣れたわ」
彼女は多くを語らなかった。ただ、自分は東北に住んでいること、あの震災の後から「こちら」に来るようになったこと、だけを教えてくれた。あいつ——記録係——とは別の案内者がいるらしく、姿は銀灰色ではなく、長い黒髪の女性の姿をしているという。
二人目は、人間ではなかった。
身長百二十センチほどの、小柄な存在。体型は人間の子供に近いが、肌の色は淡い紫で、目が顔の面積の三分の一を占めるほど大きい。瞳は漆黒で、星のように小さな光の粒がその中に浮かんでいる。
「太陽系外の知性体だ」とあいつが後ろから言った。いつの間にか来ていた。「彼——彼女という性別は存在しないが——は、約四百光年先の恒星系から、界膜を経由して記録庫にアクセスしている。君たちと同じく、アクァッホが種を蒔いた庭の住人だ」
その存在は俺を見て、何か音声を発した。言葉ではない。音楽に近い。高い周波数の、複雑に変調する音のシーケンス。
不思議なことに——意味がわかった。完全にではないが、断片的に。「歓迎」「同類」「美しい」——そんなニュアンスが、音の中に含まれていた。
「界膜を通じたコミュニケーションは、言語の壁を超える」とあいつが説明した。「彼の音声を君の脳が——第四種の遺伝的痕跡を通じて——直接意味として受け取っている。翻訳ではなく、共鳴だ」
翻訳者として、それは衝撃的な体験だった。俺の仕事は、言語Aの意味を言語Bに変換することだ。でもここでは、意味そのものが直接伝わっている。言語という媒介を経由せずに。
三人目は——正直、何なのかよくわからなかった。
光の球だった。直径二メートルほどの、ゆらゆらと脈動する光の球体。色は一定ではなく、虹のように移り変わる。近づくと、その光から温かさと——懐かしさのような感情が放射されているのを感じた。
「彼は、我々アクァッホの中でも特殊な存在だ」とあいつは言った。「記録する者でも、干渉する者でも、監視する者でもない。ただ——共感する者。あらゆる知性体の感情に同調し、その体験を自らのものとして記憶する。言わば、宇宙の感情のアーカイブだ」
光の球が、少し揺れた。まるでこちらに挨拶しているように。
俺は——なぜだかわからないが——泣きそうになった。悲しいのではない。あまりにも大きなものに触れてしまった、という感覚。海を初めて見た子供が泣くような、あの圧倒される感覚に似ていた。
しばらくして、あいつが補足した。
「このホールには、現在、銀河系内の十七の知性体が接続している。君に見えているのはそのうちの三体だけだ。残りは——人間の感覚器では知覚できない形で存在している」
「十七も?」
「この銀河系だけで、現在活動中の知性体は二百を超える。そのうち、記録庫にアクセスできるレベルに達しているのが十七。人類はまだそのリストには入っていない。君は——例外的な個別接続だ」
「二百超えの知性体……全部アクァッホが種を蒔いたのか」
「約七割はそうだ。残りの三割は——自然発生。我々の介入なしに、独力で知性に到達した。それは我々にとっても驚きであり、喜びだ。庭師が種を蒔かなくても、野に花は咲く。宇宙は——思っていた以上に、知性を生み出したがっている」
東北の女性が、そっとこちらに歩いてきた。
「あの光——共感する者——に近づくと、時々、他の知性体の記憶が流れ込んでくることがあるの」と彼女は小声で言った。「初めてそれを体験したとき、私は三日間泣き続けた。悲しかったんじゃない。四百光年先の、名前も知らない星で、名前のない生き物が見た夕焼けの記憶が——あまりにも美しかったから」
彼女の目は潤んでいたが、笑っていた。
俺はその瞬間、強く思った。この体験を——この記憶を——俺は必ず書き残さなければならない。たとえ誰にも信じてもらえなくても。誰かが読んで、ほんの少しでも、自分たちが宇宙の中で孤独ではないかもしれないと感じてくれたら。それだけで十分だ。
※
十二度目の訪問。話は、より抽象的な——しかしある意味では最も重要な——テーマに移った。
「時間について話そう」とあいつは切り出した。
「時間?」
「君たちの物理学は、時間を一本の矢のように扱う。過去から未来へ一方向に進む。しかし、界膜の視点から見ると——時間はそのようには流れていない」
球体に、不思議な映像が映し出された。
一本の川を上空から見下ろした映像——だが、川は直線ではなく、蛇行し、分岐し、合流し、時に逆流している。いくつもの支流が枝分かれし、それぞれが独自の速度で流れている。
「これが時間の実際の姿だ」とあいつは言った。「一つの宇宙の中でさえ、時間は一本の流れではない。複数の時間の流れが並行して存在し、交差し、影響を与え合っている。君たちが体験する時間——過去から未来への一方通行——は、この複雑な構造のうちの一本の流れを、中から見たときの主観的な体験に過ぎない」
「じゃあ、タイムトラベルは可能なのか」
「可能だが、君たちが想像するような形ではない。過去に『戻る』ことはできない。しかし、並行する別の時間の流れに移ることはできる。その流れが、こちらの流れよりも『後れている』場合——結果として、過去に似た状態を体験することになる。しかしそれは同じ過去ではない。別の過去だ」
「デジャブは——」
「並行する時間の流れが、一瞬だけ干渉したときに起きる。二つの流れが近接すると、もう一方の流れで既に体験された出来事の記憶が、こちら側に漏れてくる。だから『前にもこれを経験した気がする』という感覚が生じる。実際に、別の流れの中の別の君が、ほぼ同じ体験を——ほんの少し先に——していたのだ」
「別の俺がいる?」
「いる。ただし、同一人物ではない。同じ素材から作られた、別の作品だと思えばいい。設計図は同じだが、一筆一筆は異なる。そして——全ての作品は、等しく本物だ」
俺は頭を抱えた。文字通り。スケールが大きすぎて処理が追いつかない。
「混乱するのは普通だ」とあいつは穏やかに言った。「人間の脳は、一本の時間の流れの中で生存するために最適化されている。複数の時間を同時に認識するようにはできていない。しかし——君の中の第四種の痕跡は、おぼろげながらこの真実を感知している。だから君は混乱しつつも、これを完全には拒絶しない」
確かに——おかしな話だが——全くのデタラメだとは思えなかった。理性は「バカバカしい」と言っているのに、もっと深い部分が「そうだ」と頷いている。その乖離が、一番怖かった。
「時間に関連して、もう一つ伝えておくことがある」とアキラは言った。「夢についてだ」
「夢?」
「人間が眠っている間に見る夢の一部は——並行する時間の流れからの情報漏洩だ。しかしそれだけではない。夢の中には、界膜を通じた通信が含まれることがある。過去の知性体が残した情報パターンが、夢という形で受信されることがある」
「過去の知性体——エシュラとか?」
「エシュラだけではない。この宇宙のあらゆる時代の、あらゆる知性体が残した思念が、界膜に蓄積されている。それは通常、ノイズとして処理される。しかし稀に——特に深い睡眠状態で——明確なメッセージとして受信されることがある。予知夢と呼ばれる現象の多くは、これだ。未来を見ているのではなく、並行する時間の流れで既に起きた出来事の記録を受信している」
「正夢も?」
「正夢は、並行する時間の流れとの同期が偶発的に起きた場合だ。二つの流れが近づいたとき、もう一方で既に起きた出来事が——夢という形で知覚され、後にこちらの流れでも同じ出来事が起きる。未来予知ではない。別の現在の記憶だ」
これは——翻訳者として「なるほど」と思わざるを得なかった。言語が異なれば同じ概念の表現が異なるように、時間の流れが異なれば同じ出来事の「いつ」が異なる。翻訳不可能に見えるものも、構造を理解すれば橋を架けられる。アキラが俺を翻訳者として選んだ理由が、少しわかった気がした。
※
「次に、死について話そう」
十三度目の訪問。あいつの口調はいつもと同じだったが、このテーマに入るとき、わずかに姿勢が変わった気がした。座り直す、とでもいうような。
「君たちにとって、死は最大の恐怖の一つだ。意識が消滅すること。自我が無に帰すること。それは——理解できる」
「お前たちには死がないのか」
「ない。我々は情報パターンだから、物質的な消滅はない。しかし——変容はある。時とともにパターンが変化し、かつての自分とは異なる存在になっていく。それを『死に近いもの』と解釈するアクァッホもいる」
「人間の死は——本当に終わりなのか」
あいつは少し黙った。
「この答えは慎重に述べる必要がある。なぜなら、ここで私が何を言っても、それは君の行動に影響を与えるからだ。死後の世界がある、と言えば、生をおろそかにする人間が出る。死後の世界はない、と言えば、絶望する人間が出る。どちらも本意ではない」
「それでも聞きたい」
「——わかった。ただし、これは私の観測と推測に基づく見解であり、アクァッホの公式見解ではない」
あいつが「公式見解ではない」と断るのは初めてだった。
「人間の意識は、肉体が機能を停止した後も——一定期間——存続する。それは界膜に残る情報のパターンとして存続する。永遠にではないが、ゼロにもならない。やがてそのパターンは拡散し、より大きな情報の流れに溶け込んでいく。個としての自我は失われるが、情報は失われない」
「輪廻転生は?」
「パターンが完全に拡散する前に、新しい肉体の中で再凝集することがある。それが輪廻として知覚される現象だ。ただし、前世の記憶が残ることは稀で、残ったとしても断片的だ。同じ魂が繰り返し転生する、というよりも——似たパターンが偶然再構成される、という方が正確だ」
「……それは、救いなのかそうじゃないのか、よくわからない」
「両方だと思う。永遠の個としての存続は——おそらく、望むほど幸福なものではない。しかし、完全な無も真実ではない。君たちの意識は——宇宙の情報の一部として——形を変えながら存在し続ける。それをどう受け止めるかは、君たち自身が決めることだ」
俺は黙って、白い天井を見上げた。
永遠でもなく、無でもない。形を変えて残る。
——なんとなく、それでいい気がした。
※
十四度目の訪問。これが実質的な最後の「講義」になった。
「最初の夜、『なぜ俺なのか』と聞いたな」
「覚えてるよ。全てを話し終えてから答えるって言っただろ」
「そうだ。では答えよう」
あいつは立ち上がった(それまでは二人とも、床に直接座って話していた。白い床なのに不思議と硬くない)。
「君を選んだ理由は、三つある」
「一つ目。場所と条件の問題。先に述べた通り、君の住む場所は地磁気異常帯であり、雷雨の夜に接続条件が揃った。これは客観的な条件であり、君の個人的資質とは関係がない」
「二つ目。君は翻訳者だ」
「翻訳者であることが関係あるのか」
「大いにある。翻訳という行為は、ある言語体系の意味を、別の言語体系で再構成することだ。それは——我々が君にやっていることと同じ構造だ。この記録庫の情報は、本来、人間の言語では表現できない。しかし私はそれを日本語に『翻訳』して君に伝えている。そしていずれ、君がそれを他の人間に伝える際にも、翻訳が必要になる。原体験を言葉に変換する能力。それは翻訳者に固有のスキルだ」
「——買いかぶりすぎだろ。俺は技術文書の翻訳屋であって、文学者でも詩人でもない」
「技術文書の翻訳にこそ本質がある。正確さへの執着。曖昧さを許さない姿勢。誤訳が重大な結果を招く可能性への自覚。それらは全て、この記録を伝えるのに必要な資質だ」
「三つ目は?」
あいつは、ほんの少し微笑んだ。
「三つ目は——君が一人だったからだ」
「……一人?」
「山間の小さなアパートで、一人で暮らしている。家族も、恋人も、近しい友人も身近にいない。社会的な しがらみが少なく、この体験を受け入れるための精神的な余白がある。誰かと一緒に暮らしていたら、この体験は——相手との関係を壊すリスクを伴う。一人であることは、多くの場合、寂しいことだ。しかしこの文脈においては——一人であることが、君を自由にしている」
俺は何も言えなかった。
一人であること。
東京を離れて、山間の安いアパートに引っ込んで、モニターに向かって黙々と翻訳をしている日々。それを寂しいと思ったことがなかったと言えば嘘になる。でも、それが——こんな形で意味を持つなんて。
「——泣いているのか」
「泣いてない。花粉だ」
「十一月に花粉は——」
「うるさい」
あいつは笑った。声を出して笑ったのは、これが初めてだった。
※
十五度目の訪問は、短かった。
回廊ではなく、最初の小さな部屋に通された。球体は光を失い、ただの半透明の球になっていた。
「伝えるべきことは全て伝えた」とあいつは言った。「これで、接続は終了する」
「終了って——もう来られないのか」
「来られない、のではない。来る必要がなくなる、というのが正確だ。記録は全て君の中にある。これ以上の情報は、現段階の君には——人間という種には——まだ早い。百年後、あるいは二百年後に、もう一段階の開示があるかもしれない。しかしそれは、次の世代の仕事だ」
「——何か、聞き忘れてることはないかな」
「あるかもしれない。しかし、全てを知ることは誰にもできない。我々アクァッホにさえ。知らないことがあるというのは——恐怖ではなく、希望だ。知るべきことがまだある、ということだから」
あいつは手を差し伸べた。銀灰色の、長い指。
俺はその手を握った。冷たくも温かくもない。ちょうど、自分の体温と同じ温度だった。
「ありがとう」と俺は言った。
「こちらこそ」とあいつは言った。「君のような——正確に言えば、人類のような知性と出会えることは、記録係にとって最高の報酬だ。混沌から秩序を見出し、秩序の中に美を見出し、美を言葉にする。それは、宇宙で最も稀有な行為だ」
光が満ちた。あの、最初の夜と同じ、青白い光。
目を閉じた。
※
次に目を開けたとき、俺はベッドの上にいた。
窓の外から差し込む冬の朝日が、六畳間を薄く照らしていた。杉林を抜ける風の音が聞こえる。時計を見ると午前七時十二分。いつも通りの朝だった。
しかし——何かが決定的に変わっていた。
部屋の中の、あらゆるものが——壁の染み、窓の結露、布団の皺——以前よりもくっきりと見えた。見えた、というのは正確ではない。感じた、と言うべきか。全てのものが、情報を持っている。存在することの情報を、静かに放射している。それを——ほんの微かにだが——受け取ることができるようになっていた。
第四種の痕跡が、少しだけ活性化したのかもしれない。
あるいは、単に意識の向け方が変わっただけかもしれない。
どちらでもいい。
俺はベッドから出て、PCを起動した。翻訳の仕事を片付けた後で——この記録を書き始めた。
※
あれから二年が経った。
十五度目以降、あの回廊には一度も行っていない。行こうとしたこともあるが、何も起きなかった。雷雨の夜に、あの夜と同じ時刻に目を覚まして待ってみたこともある。青白い光は来なかった。
あいつの言った通り、接続は終了したのだ。
メモリーカードは今も手元にある。地震のデータは気象庁のアーカイブで確認できる。あの東北の女性とは——連絡先を交換しなかった。もし彼女がこれを読んだら、連絡をくれたら嬉しいけれど。
この記録が真実かどうか、俺にも断言はできない。脳が見せた精巧な幻覚だったという可能性を、完全には否定できない。ただ——もしそうだとしたら、俺の脳はなかなかの脚本家だと思う。自力であんな壮大な物語を紡げるなら、翻訳者じゃなくて作家になるべきだった。
あいつが最後に言った言葉を、時々思い出す。
「知らないことがあるというのは、恐怖ではなく、希望だ」
俺は今日も、山間のアパートで翻訳をしている。窓の外の杉林を時々眺めながら。
月が見える夜には、あの中に——まだ誰かがいるのだろうかと、考える。
最近、ふと気づいたことがある。翻訳の仕事をしているとき——特に難しい技術文書と格闘しているとき——時々、「答え」が先にわかることがある。理屈を追う前に、正しい訳語が直感で浮かぶ。以前からそういうことはあったが、あの体験以降、その頻度が明らかに増えている。
もう一つ。夢の質が変わった。以前は取り留めのない支離滅裂な夢ばかりだったが、最近は——時々、妙にリアルで、一貫性のある夢を見る。見知らぬ風景だが、空の色が青ではなく薄いオレンジで、建物が脈動している。あの映像で見た、かつての火星の都市に似ている気がする。
アキラは「接続は終了する」と言った。でも本当に終わっているのだろうか。もしかしたら、接続の形が変わっただけかもしれない。白い回廊を歩く代わりに、夢の中で火星の記憶を見ている。意識的なアクセスから、無意識的なアクセスへ。
考えすぎかもしれない。でも、考えすぎる人間にしか見えないものもある。そう、アキラなら言うだろう。
※
追記。
この文章を書き終えた翌日、アパートの大家さんから連絡があった。建物の老朽化で、来年度中に取り壊しが決まったという。引っ越し先を探さないといけない。
次の部屋も、雷が多くて地磁気が変な場所だといいな——と思った自分に、少し笑った。
もう来ないとわかっていても、扉は開いたままにしておきたい。
たとえそれが、自分の中だけの扉だったとしても。
最後に、一つだけ。
この記録を読んで、「こいつは頭がおかしい」と思う人がいるだろう。それは全くもって正常な反応だ。俺だって、他人がこんな話をしてきたら同じことを思う。
でも、もし——本当にもしも——この記録の中に、何か引っかかるものを感じた人がいたなら。夜空を見上げたとき、月の光に何か懐かしさを感じたことがある人がいたなら。説明のつかない夢を繰り返し見ている人がいたなら。
それは多分、あなたの中にも残っている。四つの種子の記憶が。
アキラは「花を育てる庭師」だと自分たちを表現した。でも俺は、むしろ俺たち人間の方が庭なんだと思っている。いろんな種子が混ざり合って、予測不能な花を咲かせる、でたらめで美しい庭。
庭師が見守っていようがいまいが、花は咲く。
それだけは、確かなことだと思う。