
私が今の配達ルートを担当してから、もう四年になる。
山あいの集落を五つ回るコースで、最盛期は百軒以上に届けていたが、今では半分にも満たない。過疎化が進んで空き家が増え、年に数軒ずつ配達先が消えていく。道は細く、冬は積雪で通れない日もあった。それでも地元の人たちはみんな顔なじみで、訪ねると必ずお茶を出してくれた。よそ者の私でも、いつの間にかその集落の暮らしの一部になっていた気がしていた。
問題のお宅に最初に配達したのは、去年の初秋のことだった。
山を一本入った先の行き止まりの農道、その突き当たりに古い平屋が一軒だけ建っている。周囲は休耕田と雑木林で、隣家まではかなりの距離がある。表札はなく、郵便受けは錆びて蓋が半分取れていた。庭の隅に柿の木が一本だけ、手入れもされずに枝を広げていた。
宛名は「山城ツル 様」。差出人は宇都宮の住所で、おそらく息子か娘からの仕送りだろうと思った。荷物は毎月きっちり届いた。一度も途切れなかった。
インターホンを押しても反応がない。もう一度押すと、しばらくして玄関の引き戸がゆっくり開いた。
白髪を後ろでまとめた小柄な老婆が顔を出した。年は八十近いだろうか。目の周りに深い皺があったが、姿勢はまっすぐだった。
「郵便です。こちらにサインをお願いします」
老婆は無言で印鑑を差し出し、荷物を受け取ると深く頭を下げた。声は一言も発しなかった。笑顔もなかったが、突き放すような雰囲気でもなかった。ただ、静かに、丁寧に、受け取るだけだった。
※
翌月も、その翌月も、同じ差出人からゆうパックが届いた。
私は毎回同じ農道を走り、同じ引き戸の前でインターホンを押した。老婆は毎回、無言でドアを開け、無言で受け取り、深く頭を下げた。その繰り返しが半年ほど続いた。
私は少し気になって、配達伝票の余白に「いつもありがとうございます。寒くなってきました、お気をつけて」と走り書きするようになった。返事はなかったが、次に行くと老婆の目元が少し柔らかくなっているような気がした。それだけで十分だと思って、そのまま習慣にした。
老婆と言葉を交わしたことは一度もない。それでも、あの農道の突き当たりに誰かがいると知っているだけで、どこか安心した。山の中にぽつんと取り残されたような場所だったから、余計にそう感じたのかもしれない。
十月の終わり、いつものように農道に入ると、玄関の前に人影が見えた。
老婆ではなかった。
作業着姿の、がっちりした体格の男だった。五十代か六十代、遠目には正確にわからない。ただ、こちらに背を向けたまま、じっと玄関の引き戸を見つめていた。動く気配がなかった。
私が軽トラを停めてドアを開けた瞬間、男は消えていた。
走って逃げたわけでも、家の中に入ったわけでも、左右の田んぼに隠れたわけでもない。農道は一本道で、辺りには人が身を隠せる場所などなかった。秋の日差しが斜めに差していて、影が長く伸びていた。その影も、消えていた。
私は首をひねりながら引き戸の前に立ち、インターホンを押した。
しばらく待っても返事がない。珍しいと思いながらもう一度押すと、ゆっくりと引き戸が開いた。
老婆がいつも通り印鑑を差し出してきた。
「さっき玄関の前に男性が立っていましたが、ご家族の方ですか」
老婆はほんの一瞬だけ表情を変えた。目の端がわずかに潤んだように見えた。それからゆっくりと首を振り、また深く頭を下げた。
「違います」なのか「わかりません」なのか、私には読み取れなかった。
あの人影が何だったのか、私はその時点ではまだ考えたくなかった。
※
帰り道、集落の中ほどで顔なじみのおばあさんに声をかけられた。
「山城さんのとこ、回ってきたかい」
「はい、今日も荷物が届いていましたので」
おばあさんは少し間を置いてから言った。
「ツルさん、今年の春に亡くなったよ。息子さんが来て引き取るまでの間、一人でいたんだ。もともと独り暮らしでね。夫を早くに亡くしてから、ずっと」
私は軽トラのキーを握ったまま、しばらく動けなかった。
「あの、でも今日も……サインが……」
「息子からの荷物が届くのを、本当に楽しみにしてたって。何度もそう言ってたよ。配達の人が伝票に一言書いてくれるのも、読むたびに嬉しそうにしてたって、隣のヨシコさんから聞いたけど」
おばあさんはそれ以上何も言わなかった。私も何も言えなかった。夕暮れの風が山の方から吹いてきて、道端の枯れ草を揺らした。
※
翌月、また同じ住所から荷物が届いた。宛名は「山城ツル 様」のままだった。
私はいつも通り農道を走った。平屋は静かにそこにあった。玄関の前には誰もいなかった。柿の木の実が一つだけ残って、枝先でゆっくり揺れていた。
インターホンを押す指が、なかなか動かなかった。
それでも押した。
しばらく待った。
ゆっくりと、引き戸が開いた。