閉架書庫の読書灯

地下図書館の温かな光

大学二年の秋から、市立図書館でアルバイトを始めた。

昭和三十年代に建てられたその図書館は、外壁のタイルが所々剥がれ、館内にはいつも古い紙とワックスの混じった匂いが漂っていた。地下一階に閉架書庫があり、利用者が直接入ることはできない。職員がリクエストを受けて本を取りに行く仕組みだった。

俺の仕事は、閉館後の返却本の整理と書架への配架だった。正職員の柴田さんが鍵を渡して先に帰り、俺が最後に戸締まりをする。週に三回、だいたい夜の八時半から十時頃まで、一人で作業をしていた。

最初に気がついたのは、十一月に入って間もない頃だった。

返却本を台車に載せて閉架書庫へ降りた。地下への階段は薄暗く、蛍光灯が一本切れかけていて、ちかちかと点滅を繰り返していた。重い防火扉を開けると、書架が整然と並ぶ広い空間が現れる。天井が低く、空調の音だけが響いている。

奥の書架に本を戻しに行ったとき、通路の突き当たりにある閲覧スペースの読書灯がついていた。

小さなデスクの上に据え付けられた、真鍮製の古いランプだ。傘の部分が緑色のガラスで、柔らかいオレンジ色の光を落としていた。

消し忘れだろうと思い、スイッチを切って作業に戻った。

翌週も同じことが起きた。閉架書庫に降りると、奥の読書灯がついている。今度はデスクの上に一冊の本が開いたまま置かれていた。背表紙を見ると、宮沢賢治の短編集だった。開かれていたのは「銀河鉄道の夜」の途中、ジョバンニがカムパネルラと天の川を旅する場面だった。

柴田さんに聞いてみた。閉架書庫を最後に使ったのはいつですか、と。柴田さんは首を傾げて、今週は誰もリクエストを出していないはずだ、と答えた。

それから、閉架書庫に降りるたびに読書灯がついているようになった。

そしてデスクの上には必ず一冊、本が開いて置かれている。宮沢賢治の次は中島敦の「山月記」だった。その次は梶井基次郎の「檸檬」。いずれも、物語の途中で開かれたまま放置されていた。

俺はそのたびに本を閉じ、読書灯を消し、本を元の書架に戻した。

不思議だったのは、怖さをあまり感じなかったことだ。読書灯のオレンジ色の光には、どこか人を安心させるような温かみがあった。誰かがここで静かに本を読んでいた、という気配だけが残っているような感覚だった。

十二月になると、本の間に栞が挟まれるようになった。

市販の栞ではない。薄い和紙を短冊状に切ったもので、万年筆の細い文字で一行だけ何か書かれている。最初の栞には「冬の星座が一番きれいに見える場所を、まだ探している」と書かれていた。

次の栞には「あの子が好きだった話の続きを、読んであげたい」。

その次は「時間が足りなかった。でも本だけは待っていてくれる」。

筆跡はどれも同じで、丁寧だが少し震えたような文字だった。万年筆のインクは深い青で、紙に滲んだ跡があった。

俺はその栞を捨てることができず、自分の手帳に一枚ずつ挟んで持ち帰っていた。

年が明けて一月の半ば、雪が降った日のことだった。

いつものように閉架書庫に降りると、読書灯がついていた。だが、その日は少し様子が違った。デスクの上に本が二冊、並べて置いてあった。

一冊は新美南吉の「ごんぎつね」。もう一冊は、見たことのない手製の本だった。表紙は厚紙に布を貼ったもので、背には細い紐で綴じた跡がある。

開いてみると、中は手書きの童話だった。万年筆の青いインク。あの栞と同じ筆跡だった。

物語は、ある町の小さな図書館に住みついた狐の話だった。狐は夜になると閉架書庫に降りて、昼間に読みきれなかった本の続きを読む。やがて狐は、図書館に通ってくる一人の少女と仲良くなる。少女は病気がちで、学校に行けない日が多かった。狐は少女のために夜通し本を読み、翌日少女が来たときにあらすじを教えてあげる。

物語は途中で終わっていた。最後のページの下に、鉛筆で小さく「つづきは、あなたが書いてくれますか」と書き添えてあった。

翌日、俺は柴田さんにこの図書館の歴史について尋ねた。

柴田さんは少し驚いた顔をして、そういえば、と話し始めた。この図書館が開館した昭和三十四年から平成の初め頃まで、ここに長く勤めていた司書がいたそうだ。名前は確か、浅野さんといった。閉架書庫の管理を一手に引き受けていて、夜遅くまで残って本の修繕や目録の整理をしていたらしい。

浅野さんは子ども向けの読み聞かせ会も開いていた。体の弱い子や、学校に馴染めない子が常連で、浅野さんが選ぶ本はいつも子どもたちに人気があったという。

退職された後はどうされたんですか、と聞くと、柴田さんは少し間を置いてから、退職して数年後に亡くなったと聞いている、と答えた。最後まで本を読んでいたそうですよ、と付け加えた。

その夜、俺はいつもより少し早く閉架書庫へ降りた。

読書灯はついていなかった。

デスクの上には何も置かれていなかった。あの手製の本も、栞も、なくなっていた。

ただ、デスクの隅に万年筆が一本だけ残されていた。深い青のインクが入った、使い込まれた古い万年筆だった。

俺はそれを手に取って、しばらくそこに立っていた。読書灯のスイッチを入れてみた。オレンジ色の光がデスクの上に広がった。

空調の音だけが聞こえる静かな書庫の中で、俺はその万年筆をポケットにしまった。

それ以降、閉架書庫で読書灯がつくことはなくなった。

あの万年筆は今も俺の机の引き出しにある。たまに取り出してみると、インクはまだ乾いていない。何年経っても、深い青のインクが滑らかに紙の上を走る。

手製の童話の続きを、俺はまだ書けていない。でも、いつか書かなければならないと思っている。浅野さんが読みきれなかった物語の続きを、誰かが引き継がなければいけないように。

あの図書館の閉架書庫は、三年前の改修工事で取り壊された。跡地には新しい自習室ができたと聞いた。

夜、万年筆を手に取ると、ほんの少しだけ、古い紙とワックスの匂いがする気がする。

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