
あれは去年の秋のことだった。俺は仕事の都合で、東北の内陸にある小さな地方都市に出張することになった。新幹線から在来線に乗り換えて一時間半ほど、見知らぬ駅に降り立つと、空気がひんやりと冷えていた。十月の初旬で、駅前のケヤキ並木がちょうど色づき始めたころだった。
三泊の予定だった。地元の取引先との打ち合わせをこなすだけの、特に意味のない出張だ。泊まったのは駅から徒歩五分ほどの古いビジネスホテルで、築年数はよく分からないが、エントランスのタイルの目地が黒ずんでいて、廊下に敷かれたカーペットはくすんだ臙脂色だった。それでも清潔で、特に不便はなかった。
フロントには白髪の老人が、いつも一人で座っていた。感情の読めない顔をしていたが、声だけは穏やかだった。チェックインのとき「三泊ですね、お疲れ様です」と静かに言って、鍵を渡してくれた。カードキーではなく、プラスチックのプレートに古い真鍮の鍵がついたタイプだった。最近ではあまり見なくなった形だと思いながら受け取った。
部屋は三階の端だった。窓の外は狭い駐車場で、その向こうに薬局のネオンが青白く点滅していた。夜になると周囲に光がほとんどなくなるので、そのネオンだけが妙に目立った。俺は毎晩、取引先と夕食を済ませてホテルに戻り、シャワーを浴びてコンビニで買ったビールを飲んで眠る、そんな三日間を過ごした。地方の出張にありがちな、静かな日常の繰り返しだった。
一泊目の夜は、特に何もなかった。ただ一つ、小さなことが少しだけ引っかかった。部屋から出て廊下の自販機へ行こうとしたとき、廊下の突き当たりに人が立っていた。黒いコートを着た女性で、廊下の奥の壁に向かって立っているように見えた。背を向けていたので顔は見えない。非常口の案内を見ているのかもしれないし、ただ立ち止まっているだけなのかもしれない。俺は自販機でミルクティーを買って、足早に部屋に戻った。あらためて確認する気にはなれなかった。
その夜は疲れていたせいもあって、すぐに眠れた。窓の外の薬局のネオンが点滅しているのをぼんやり見ながら、何事もなく意識が落ちた。
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二泊目の打ち合わせは長引いて、取引先のオフィスを出たのは夜の九時を過ぎていた。駅前の定食屋で一人で夕飯を取り、ホテルに戻ったのは十一時近かった。秋の夜の地方都市はひとけが少なく、駅から続く商店街はシャッターが下りていた。街灯の下を一人で歩きながら、ここは夜がやけに静かな場所だな、と思った。
ホテルのエントランスをくぐると、フロントの老人が「おかえりなさい」と言った。それだけで少し救われた気がして、俺は軽く頭を下げた。エレベーターのボタンを押して待っていると、すぐに扉が開いた。中に人がいた。黒いコートを着た女性だった。
俺は「失礼します」と言いながら乗り込んだ。彼女は扉と反対側の壁に向かって立っていた。こちらに背を向けているので顔は見えない。俺は三のボタンを押した。彼女が何かボタンを押しているか横目で確認したが、手は動かなかった。乗る前に押してあったのかもしれない、と思った。三階で扉が開いた。俺は「失礼しました」と小声で言いながら降りた。
廊下を歩きながら、じわりと落ち着かない気持ちになった。理由は分からなかった。昨夜と今夜、同じ黒いコートの女性を二度見た。ただそれだけのことだが、顔を一度も見ていないことに気づいてしまった。廊下でも、エレベーターでも、ずっと背を向けていた。たまたまそういう方向にいただけだろうと思った。部屋に入ってから缶ビールをあけて、それ以上は考えないようにした。眠る前に一度だけ、部屋のドアの鍵がかかっているか確認した。かかっていた。古い鍵なので二度押して確かめた。それでも少し時間がかかった。外の薬局のネオンが、いつもより明るく見えた。
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三泊目の最終日、打ち合わせは午前中に終わった。午後は少し時間があったので、市内を歩いてみた。城跡の公園があって、ケヤキ並木の落ち葉が地面を埋めていた。特に何かあるわけではなかったが、ゆっくり歩いていると気持ちが少し楽になった気がした。
夜は取引先の担当者に誘ってもらって、地元の日本酒を出す小さな居酒屋に行った。郷土料理と一緒に何杯か飲んで、話も弾んで、楽しい夜だったと思う。ホテルに戻ったのは日付が変わる少し前だった。冷えた夜風が気持ちよかった。
廊下を歩いていたとき、向かいの部屋のドアが目に入った。ドアの下の隙間から、細く光が漏れていた。テレビの音もなく、人の声もない。ただ静かに、光だけが漏れていた。俺は自分の部屋のドアを開けようと鍵を取り出した。その瞬間、向かいのドアがゆっくりと動いた。五センチか十センチ、音もなく開いた。中は暗かった。光は消えていた。あるいは最初から漏れていなかったのかもしれない。日本酒が入っているせいで見間違えたのかもしれない。誰かが出てくる気配もなく、ただ暗い隙間がそこにあるだけだった。
俺は鍵を差し込み、自分の部屋に入り、そのままドアを閉めた。振り返らなかった。布団に入ってからも、しばらく眠れなかった。外のネオンが点滅するたびに、部屋の壁が薄く明るくなって、また暗くなった。翌日の新幹線の時間を何度も確認して、ようやく眠れた気がした。
翌朝、荷物をまとめてフロントに向かった。白髪の老人が俺を見て、いつもと同じ穏やかな声で言った。
「お連れ様はもうお出になりましたか」
俺は一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「……一人ですよ。ずっと一人です」
老人は少しの間を置いてから、「大変失礼いたしました、他のお客様とお間違えいたしました」と静かに頭を下げた。
それ以上のことは何もなかった。俺も聞かなかった。会計を済ませてホテルを出て、駅まで歩いた。駅前のケヤキ並木は、三日前より少し葉が落ちていた。空が高くて、よく晴れた朝だった。
たぶん何もなかったのだと思う。古いホテルに黒いコートを着た宿泊客がたまたまいて、老人が宿泊名簿を見間違えただけだ。何も特別なことはない。ただ今でも、背を向けている人が近くにいると、なんとなく顔を見ようとする自分がいる。そして見れないまま、通り過ぎる。