波止場の男

月明かりの港風景

俺は五島に生まれて四十二年、漁師一本でやってきた。祖父から引き継いだ小型漁船で、冬場はイカと甲イカ、春からはアジとサバを中心に上げる。港に出るのはたいてい夜中の一時か二時ごろで、夜明けとともに戻ってくる。そういう生活を二十年以上続けてきた。

去年の冬のことを書く。

仲間の健介が、十一月の嵐で船ごと消えた。波止場で別れたのが最後になった。「明日の朝には帰ってくる」とそれだけ言って、防波堤の向こうへ出ていった。翌日、船だけが宇久島の沖で見つかった。健介は今も行方不明のままだ。

健介とは二十年以上の付き合いだった。俺が漁師になりたての頃から、乗り合いで船を出していた。口数の少ない男で、冗談はほとんど言わなかったが、海の勘は誰より鋭かった。天気の変わり目を体で読む、そういう漁師だった。機嫌がいいときだけ少し口を開いて、沖での話をする。それが俺は好きだった。

一緒に飲んだ最後の夜、健介は「この間、沖で妙なものを見た」と言いかけた。何を見たのか聞く前に、店のテレビで相撲が始まって、話題が流れた。今となっては聞けない。

健介が消えてから二ヶ月ほど経ったころ、俺は深夜の波止場でそいつを見た。

夜中の一時ごろだった。荷物を船に積み終えて、エンジンをかけようとしていたとき、岸壁の端のほうに人影があった。冬の港に夜中の一時に人がいるのはめずらしい。街灯の光が届かない暗がりに立って、こちらを向いていた。

声をかけた。

返事がなかった。

もう一度呼ぶと、ゆっくりと向こうへ歩き出した。港の奥の、使われなくなった倉庫の方角だ。背中の見え方に、なんとなく見覚えがあった気がした。だが出港の時間が迫っていた。俺はそのままエンジンをかけて、港を出た。

その夜は、いつもより海が静かだった。機関の音だけが響く中、岸壁の端に立っていたあの人影のことが頭を離れなかった。誰かの迷い込みか、それとも釣りの人間か。理由をつけようとしたが、うまくいかなかった。夜中の一時の波止場に、釣りの人間は来ない。冬の港は風が強くて、そういう季節ではない。

二日後の夜も、同じ場所に立っていた。

今度は少し近づいてみた。街灯の光が斜めに当たって、相手の横顔が一瞬だけ見えた。

俺の体が止まった。

健介に似ていた。いや、そっくりだった。年格好も、肩の丸め方も、着ている合羽の色まで、健介と同じだった。合羽は濃い緑色で、左の袖口のあたりがほつれている。健介のものと同じだった。健介がいつも着ていた合羽の、同じ場所がほつれていた。

「健介?」

声が裏返った。相手はこちらを向かず、また倉庫の方へ歩き出した。俺は追いかけた。

倉庫は古い板張りの建物で、扉には南京錠がかかっている。それがわかっていたから、相手が向こうへ消えたとき、俺は足を止めた。扉は閉まったままだった。鍵もかかっていた。倉庫の周りを一周した。裏に抜け穴はなかった。雪の積もった地面に、自分の足跡だけがついていた。

それだけだ。ほかに何もなかった。

翌日、同じ倉庫の前に空き缶が一本落ちていた。

見覚えのある銘柄のコーヒー缶だった。健介がいつも飲んでいたやつで、少し甘めのやつだ。港の自販機では扱っていない。健介はわざわざ町から買ってきて、船に積んでいた。

俺は組合長に話した。倉庫を開けてもらって中を確認したが、誰もいなかった。ただ、隅に毛布が一枚、畳んで置いてあった。最近使われた形跡があった。誰かが入り込んでいたのは確かだった。組合長は「浮浪者だろう」と言って、錠前を新しいものに替えた。

それ以来、波止場にあの人影は現れなくなった。

俺は何度かあの場所に立って、倉庫の扉を眺めた。錠前は新しいままだった。何も変わっていなかった。ただ、雪が降った朝に、倉庫の前だけ地面が少し踏み固められているような気がしたことがあった。確かめようとは思わなかった。

二月の終わりに、港から三キロほど離れた岸壁で水死体が上がった。

男で、年齢は四十代と推定された。身元は不明で、所持品もなかった。溺死で、水に浸かった期間から見て、冬場に亡くなったとみられるとのことだった。警察が調べたが、身元が判明せず、最終的に「行旅死亡人」として処理された。

俺はその男の顔を見ていない。

見たいとは思わなかった。

健介は今も行方不明のままだ。海の底にいるのか、それとも別のどこかにいるのか、俺には分からない。あの波止場で二度見た人影が何だったのかも、分からない。

今でも、夜中に港に出るとき、岸壁の端を確認する癖がついてしまった。あの場所に立っていることは、もうない。それが安心なのか、それとも別の何かなのか、俺には判断できない。

ただひとつ気になっているのは、健介が「沖で妙なものを見た」と言いかけたあの夜のことだ。あれが何だったのか、聞けなかった。聞いていたとしても、今となっては意味が変わっていたかもしれないが。

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