終電の向こう側

地下駅の無限空間

その日の終電は、いつもより五分遅かった。

システムのリリース前夜で、オフィスに残っていたのは私と先輩の二人だけだった。最後のデプロイを終えたのは午前一時を回ったあたりで、先輩は最寄り駅で別の路線に乗るので、改札の前で別れた。

ホームに降りると、乗客は私を含めて四人しかいなかった。深夜のホームはいつも寒い気がする。照明が必要以上に明るくて、その分、ベンチの影の部分が濃く見えた。

電車が来た。座席は半分ほど埋まっていた。私は中ほどのドアから乗り込み、端の席に座った。スマートフォンで翌日のタスクを確認していたのだが、目が疲れていたのか、いつの間にか画面が暗くなっていた。

気づいたら、電車が止まっていた。

アナウンスが流れていたが、耳に入ってこなかった。ドアが開いている。私は反射的に立ち上がり、ホームに出た。

足が着いてから、ドアが閉まった。駅名を確認しようとして、柱に目をやった。

知らない名前だった。

「蓮根台」

蓮根台。そんな駅は、今まで使ったことがない。乗り過ごしたのだろうか。でも、私が使う路線に蓮根台という駅があっただろうか。スマートフォンを取り出して路線図を調べようとしたが、画面が点かなかった。電池が切れていたわけではなく、ロック解除の画面まで進んで、そのまま固まったような状態になっていた。

ホームを見回した。

乗客は、私以外に三人いた。ベンチに座っている老人。壁に寄りかかっている若い女性。柱の陰に立っているスーツ姿の男。

三人とも、同じ方向を見ていた。

出口の方向だ。でも出口には何もない。ただ白いタイルが続いているだけだ。私はその視線の先を見ようとしたが、何が見えているのかわからなかった。ただ、見てはいけない気がして、すぐに目をそらした。

改札を目指して歩いた。改札を抜けようとしたとき、自動改札機がすべて電源の入っていない状態であることに気づいた。ゲートが開いたままになっている。駅員室の窓口は暗く、中には誰もいなかった。

しかたなく、改札を抜けた。

エスカレーターは動いていなかった。階段を上がっていくと、途中でふと後ろを振り返った。

下のホームに、あの三人がまだいた。まだ同じ方向を向いていた。

ホームの向こう側が、妙に暗い。照明が届かない区域があるように見えた。でも地下鉄のホームに照明が届かない場所はないはずだ。線路の先が、どこかで途切れているような感じがした。

気にしないようにして、階段を上りきった。

地上に出ると、雨が降っていた。

傘を持っていなかった。それよりも、街の様子がおかしかった。

道路はある。建物もある。コンビニもある。でも、どこか見覚えがない。都内のはずなのに、看板の色合いが少し違う気がした。コンビニのロゴが、自分の知っているものと字体が微妙に違って見えた。見間違いかもしれない。深夜で疲れていたから。

とにかく、タクシーを拾おうと思って歩き出した。

道を一本歩いた。もう一本歩いた。タクシーが来ない。車は通るのに、タクシーだけが来ない。通りかかる車のナンバーを見ると、見覚えのある地名が書かれていなかった。「練馬」でも「品川」でもない、見たことのない漢字が並んでいた。

歩いているうちに、だんだん周囲の把握がしにくくなってきた。地図が開かないスマートフォンを手に持ったまま、見知らぬ道を歩いている。地名の表示がある看板がない。信号はある。人もいる。でも、誰も私のことを見ない。

存在を認識されていないような、奇妙な感覚があった。

雨が強くなってきた。

雨宿りをしようと、一番近くにあった建物の入口に入った。広いロビーのような空間で、受付カウンターがあり、照明は落ちていた。ソファが並んでいた。深夜だから閉まっているのだろうと思った。とにかく座ろうと思った。

ソファに腰を下ろした。少し休めば、何か考えられると思った。

目を閉じた。

目が覚めたら、朝だった。

外が明るかった。見慣れた天井ではなかった。というよりも、天井がなかった。

起き上がると、自分が公園のベンチに座っていた。自宅から徒歩三分の、よく知っている公園だ。

スマートフォンは正常に動いていた。午前六時十七分。

着ていたジャケットは乾いていた。少しシワがよっていたが、濡れた形跡がなかった。

昨夜のことを思い出そうとした。蓮根台という駅。三人の乗客。知らない街の雨。ロビーのソファ。どこで何をして、どうやって公園まで来たのか、記憶がつながっていなかった。

その日の昼、会社で先輩に声をかけられた。

「昨日、終電大丈夫だった?途中で起こそうかと思ったんだけど、熟睡してたから」

意味がわからなかった。私には先輩と同じ電車に乗った記憶がない。先輩とは改札の前で別れたはずだ。そう伝えると、先輩は少し眉をひそめた。

「改札で別れたあとも一緒だったじゃないか。同じホームで、同じ電車に乗ったよ。君は途中で寝ちゃって、終点まで乗り越していったんだけど」

私には、その記憶がまったくなかった。

蓮根台という駅を、今も地図で見つけられていない。

ただ、あの三人がまだあの場所で同じ方向を向いて立っているような気がして、地下鉄に乗るとき、ふと降りるホームを確かめる癖がついた。

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