日めくりの部屋

古びた台所と幻想的な夕暮れ

塾の仕事を辞めたわけではないが、引っ越しをした。

三十一歳、独身。それまで住んでいたアパートの更新料が上がったのと、担当の教室が変わったのがきっかけで、駅から少し離れた古い団地に移った。築四十年以上と聞いていたが、家賃は前の半分以下だった。

不動産屋の担当者は、鍵を渡す時にこう言った。「前の方が少し物を残していまして。処分はこちらでやりますので、気になるものがあればご連絡ください」。

入居した日、部屋の中を見回した。六畳一間にキッチン、風呂、トイレ。壁は塗り直されていて、前の住人の痕跡はほとんどなかった。ただ一つ、台所の壁に日めくりカレンダーが掛かっていた。

二〇〇九年六月十七日、水曜日。

十五年以上前の日付で止まっている。紙は黄ばんでいたが、破れてはいなかった。不動産屋が見落としたのだろうと思い、そのまま外して玄関脇のゴミ袋に入れた。

生活が始まった。昼過ぎに起きて、夕方から塾に出かけ、夜の十時頃に帰る。古い団地だが、静かで悪くなかった。隣の部屋は空室で、上の階にも人の気配はない。

三日目の朝、台所に立って気づいた。壁に日めくりカレンダーが掛かっている。

二〇〇九年六月十七日、水曜日。

同じものだった。黄ばみ具合も、右上の小さな染みも同じだった。玄関脇のゴミ袋を確認したが、中にカレンダーはなかった。

気味が悪いとまでは思わなかった。自分で外した記憶が曖昧だっただけかもしれない。もう一度外して、今度はゴミ収集の日に出した。

翌週の月曜日、塾から帰ると台所の壁にそれがあった。

二〇〇九年六月十七日、水曜日。

三度目だった。さすがに気になって、カレンダーの裏を見た。何も書かれていない。一枚めくってみると、六月十八日、木曜日。その下は十九日、金曜日。普通のカレンダーだった。

不動産屋に電話をした。前の住人について聞きたかったのだが、担当者は「個人情報なのでお伝えできません」と言うだけだった。ただ、少し間を置いてから「あの部屋、前の方が退去されてから十五年ほど空いていまして」と付け加えた。

十五年。カレンダーの日付と一致する。

その頃から、小さなずれに気づくようになった。

塾の授業で、同じ生徒が同じ質問をする。先週やった問題を「初めて見ます」と言う。最初は復習不足だと思ったが、一度や二度ではなかった。

ある水曜日、窓の外を見ると、同じ形の雲が同じ場所に浮かんでいた。前の水曜日にも見た、あの犬のような形の雲だった。気のせいだと思った。

帰宅すると、台所の流しに昨日洗ったはずの茶碗が、また汚れた状態で置かれていた。スポンジは乾いていた。

決定的だったのは、塾の帰りのことだ。

駅前の本屋で雑誌を買った。塾の同僚に勧められたバイクの雑誌で、表紙に最新モデルのツーリング特集と書かれていた。部屋に帰って読もうとしたら、本棚に同じ雑誌が既にあった。二冊とも同じ号、同じ表紙、同じ折り目。

自分が買ったことを忘れて、もう一冊買ったのだと考えた。そういうことはあるだろう。

しかし、レシートの日付が違った。一冊は今日の日付。もう一冊のレシートは、三日前の日付だった。三日前、私はあの本屋には行っていない。

日めくりカレンダーは、もう外すのをやめた。外しても戻ってくるし、何より外した翌日に決まって同じ一日が繰り返される気がした。カレンダーを壁に掛けたままにしておく方が、日常が正しく進んでいるように感じた。

おかしな話だと自分でも思う。壁に掛かっている十五年前の日付のカレンダーが、今の時間を正しく動かしている。そんなことがあるわけがない。

ただ、一度だけ試したことがある。

六月十七日のページをめくって、十八日にしてみた。

翌朝、目が覚めると時計は午前七時を指していた。いつもなら昼過ぎまで寝ている私が、七時に自然と目が覚めた。窓の外の光の角度が違った。空気の匂いが違った。

台所に行くと、流しに見覚えのない急須が置かれていた。私は急須を持っていない。茶葉の匂いがまだ残っていて、誰かがつい先ほどお茶を淹れたようだった。

慌てて日めくりを十七日に戻した。

急須は消えていた。

それ以来、カレンダーには触れていない。二〇〇九年六月十七日のまま、台所の壁に掛かっている。

あれから三ヶ月が経った。生活は普通に送れている。塾にも通っているし、生徒の成績も上がっている。ただ、時々ふと思うことがある。

前の住人も、最初は普通に暮らしていたのではないか。ある日、日めくりをめくり続けてしまったのではないか。六月十八日、十九日、二十日と。

そして、めくった先にある日付に辿り着いてしまったのではないか。

不動産屋が言った「退去された」という言葉が、時々頭に浮かぶ。退去したのか。本当に退去したのか。それとも、カレンダーのどこかの日付の中に、今もいるのか。

私はめくらない。十七日のままでいい。ここにいる限り、私の時間は正しく流れている。多分。

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