
去年の冬、私は都内の新しいマンションに引っ越した。25階建ての新築で、眺めもいいし、駅も近い。不動産の人も「人気の物件です」と言っていた。ビルトインの食洗機、南向きの大きな窓、セキュリティカメラもついている。家賃も相応だったけど、一人暮らしにしては十分な環境だった。引っ越し当日は、引っ越し業者の人たちが夕方に去った後、一人でぼんやりしながら新しい部屋を眺めた。疲れたから、さっさと寝てしまった。
翌朝、目が覚めたのは5時。やることが山ほどあって、寝ていられなかった。箱から荷物を出したり、家具を配置したり。朝の7時過ぎには、一度仕事に行く必要があった。火曜日の朝礼を欠席するわけにはいかない。
玄関を出て、廊下を歩いた。マンションは静かだった。朝だから当たり前だけど、本当に誰もいないような感じがした。エレベーターのボタンを押した。いつもの「ピン」という音がして、扉が開いた。
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エレベーターの中に、70代くらいの女性がいた。グレーの膝丈スカートを履いていて、小さなバッグを持っていた。朝日が差している時間帯だったから、顔ははっきり見えた。
「おはようございます」と彼女が言った。声は落ち着いていて、柔らかかった。私も挨拶を返した。
「新しく来た方ですか?」と彼女が聞いた。「ええ、昨日引っ越してきたばかりです」と答えた。「そうですか。いい建物ですね。長く住んでいると、いろいろと分かることもありますが」と彼女は言った。その言い方が、ちょっと引っかかった。
エレベーターが、15階でいったん止まった。「失礼します」と彼女は言い、降りていった。でも、扉が開いた時に、廊下には誰もいなかった。私は「あれ?」と思ったけど、そういうこともあるのかな、と気にしなかった。
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1階に着いて、マンションを出た。仕事をして、夜に帰ってきた。疲れていた。エレベーターに乗った時、朝の彼女のことを思い出した。
次の日の朝、またエレベーターに乗った。すると、また同じ女性がいた。同じグレーのスカート、同じバッグ。「おはようございます」と彼女が言った。「あ、おはようございます」と私が答えた。
「新しく来た方ですね」と彼女が言った。昨日も同じことを言っていたのに、覚えてないのかな、と私は思った。「ええ、そうです」と答えた。
エレベーターが15階で止まった。「失礼します」と彼女は降りていった。やはり、廊下には誰もいなかった。
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3日目の朝も、4日目の朝も、同じことが繰り返された。毎朝、その女性がいた。毎日、同じセリフを言った。毎日、15階で降りた。毎日、廊下には誰もいなかった。
さすがに、何かおかしいと気づいた。でも、彼女は実際にそこにいる。触れることも、声を聞くこともできる。その程度のことで「幽霊だ」なんて思うはずがない。単なる偶然か、私が気のせいなのか。
その女性に直接、「毎日お会いしますね。15階にお住まいですか?」と聞く勇気はなかった。
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1週間たった。その女性は相変わらず毎朝エレベーターに乗っていた。でも、ある朝、ついに聞いてみることにした。「あ、あの、毎日同じお時間に…」と言いかけた。その時だ。
エレベーターが、突然停止した。
いや、そうではない。エレベーターが「下がっていく」のをやめたのだ。いつもは1階まで行くのに、突然、床の表示が「20」のままになった。上下していない。音もしない。振動もない。ただ、停止している。
その女性は、何も言わなかった。ただ、ずっと前を見ていた。彼女の手が、少し震えているような気がした。
「あ、あの…」と私が声を出した。その瞬間、エレベーターが急に動き出した。一気に、1階まで下がった。扉が開いた。女性は何も言わず、降りていった。そしてそのまま、マンションを出ていった。
あの後、その女性を見かけたことはない。
それから2ヶ月、私は毎朝エレベーターに乗るたびに、あの女性のことを思い出す。何者だったのか。なぜいつも一緒だったのか。なぜ、あの時だけエレベーターが止まったのか。15階には、実際に誰が住んでいるのか。
先日、管理人さんに、「このマンションの住人で、70代くらいの女性で、グレーのスカートを…」と聞いてみた。管理人さんは、顔をしかめた。表情から、彼女は何かを知っているんだと分かった。「あ、それ、詳しくは言えないのですが…以前、このマンションで…」と言い始めたが、すぐに口を閉ざした。何か言いかけたけど、誰かが来たのか、それとも口を慎むべきだと判断したのか。
何か、聞かない方がいいことなのだろう。その時のエレベーターの停止感、彼女の震える手。あの瞬間だけが、今でも鮮明に蘇る。でも、それ以上は知りたくない。そう判断して、それ以上は聞かなかった。毎朝、エレベーターに乗る時、私はいつも、15階の案内ボタンの上あたりを見つめている。