
あれは去年の冬、十二月の中旬だった。会社の飲み会が長引いて、気がついたら終電を逃していた。
システムエンジニアの俺は、午後五時に始まった飲み会がいつの間にか夜十一時を過ぎていた。進捗報告の追及をかわすために何度も乾杯に応じていた。同僚のプロジェクトマネージャーは何度も俺のビールグラスを満たそうとするし、部長は酔った勢いで「お前の技術力なら」と何度も繰り返していた。タイ料理屋の空調は効きすぎていて、テーブルの上には空のビール瓶が積み重なっていた。匂い。タイ料理の辛い香りと、酔った人間特有の臭気が入り混じっている。やがて、いつの間にか周りの声が遠くなった。気がついたら、タクシーを呼ぶ同僚が「終電、もう行っちゃった」と言っていた。腕時計を見た。午後十一時五十分。最後の電車は五分前に行った。
タクシーで帰るほどの距離ではないと思った。赤坂見附から自分の家まで、タクシーなら三千円近い。余分な出費だ。何本か後の電車があるはずだと思っていた。いや、その頃の俺は、深夜の地下鉄の本数について、正確な知識を持っていなかった。酔っているせいもあったし、日頃は定時で帰らないから。
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赤坂見附駅は深夜の零時過ぎ、いつもとは違う顔をしていた。朝の通勤ラッシュなら、改札を抜けるのに数分かかる。昼間の流動的な人の流れ。だが、深夜はしんとしている。駅全体が白い蛍光灯だけで照らされて、天井の奥まで光が通っている。照明の色は冷たく、白すぎるくらいだ。朝の光とは違う。不自然な白さ。駅の奥の方は暗く見えるのに、足元は明るい。こんな対比は普段見ない。温度も違う。地下だからか、それとも深夜だからか、駅全体が冷えている。セーターの上からでもわかるほど、冷たい風が絹のように流れている。どこから来るのかわからない風。
改札を抜けてからベンチに座った。スマートフォンで時刻表を確認しながら、飲み会の疲労感に身を任せた。丸ノ内線で東京駅に出て、そこからタクシーで帰るつもりだった。時刻表を見ると、次の電車は五分後に来るはずだった。
ホームに降りると、一人また一人と乗客を見かけるようになった。サラリーマン、酔っ払い、夜勤から帰ってくるのだろう看護師らしき女性。そして、もう一人。グレーのコートを着た女性が、反対方向のホームに立っていた。
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電車が来るのを待ちながら、俺はその女性をぼんやり眺めていた。
深夜のホームで立っている女性。特に珍しくもない光景だが、何か視線を引きつけるものがあった。グレーのコートは質の良さそうな色合いで、深夜にしては手入れが良い。だが、その女性は何も持っていなかった。スマートフォンもない。荷物もない。両手を体の横に垂らしたまま、ただ線路を見つめている。年齢は不明。顔ははっきり見えなかった。照明の角度か距離のせいで、輪郭だけが見える。四十代か五十代か、それ以上か。ただ、その姿勢は動かない。完全に静止している。線路を見つめる視線も、微動だにしない。
不自然だと感じた。深夜のホームで何かを待っている人間の姿ではない。むしろ、線路そのものに吸い寄せられているような、そんな雰囲気。ただスマートフォンを見ているのに気づいた。自分のスマートフォンを。ニュースアプリのスクロール。仕事のメール確認。重要な案件はない。気づいたら、その女性のことは頭から消えていた。
電車の接近を告げるビープ音がホームに響き渡った。線路の向こう側から、赤い電車が現れた。丸ノ内線。見慣れた車両。ドアが開く。乗客がする。意外に多い。深夜とは思えないほどの人数。終電は済んだはずなのに、次の便でもこれほどか。酔っている所為で判断が曇っていたのだろう。
俺は人波に乗って、電車に乗り込んだ。つり革をつかむ。車両を眺める。サラリーマン、OL、スーツを着た人たち。駅のタイル床も、広告も、内装もいつもと変わらない。普通の丸ノ内線。電車が動き始めた。
※
何か違う。その感覚は、最初は意識の片隅にあった。
電車の揺れ。走行音。人の声。すべてが正常に聞こえる。だが、何か。窓の外を見ても、トンネル。線路。通常の地下鉄のトンネル風景。だが、色が違う。いつもより暗いような。いや、違う。照明が違う。電車内の照明の色が、微妙に異なっている。白だが、黄色が混じっている。古い蛍光灯の色。
一駅目。丸の内駅。赤坂見附から赤坂見附の方向だから、北に向かっている。ドアが開く。誰かが乗り込む。誰かが降りる。駅名標を見た。確認できた。丸の内駅。ここまでは正常だ。
二駅目。赤坂サカス前か。いや、駅名標が見えない。白い壁だけが続いている。いつもなら大きく「駅名」が表示されているはずの場所に、何もない。蛍光灯と白い壁だけ。ドアが閉じた。電車が走り始める。
「あれ」と声に出してみた。つり革を握っている隣のサラリーマンは、スマートフォンを見たまま何も反応しない。前に立っている女性も、目を瞑っているのか、別の何かを見ているのか。周りの乗客は全員、俺の言葉を聞いていないか、聞いても反応しない。
次の駅で確認しよう。そう思った。たぶん、看板が一時的に外れているだけなのだろう。深夜の駅は稀に保守作業をしている。
三駅目。やはり駅名標が見えない。白い壁。照明。プラットフォーム。すべてが通常のはずなのに、駅名がない。その時、初めて気づいた。乗客の数が減っている。さっきまでいた人たちが、大半いなくなっている。ドアの向こう側のホームを見ても、誰もいない。昼間ならありえない。駅に乗客がいない状況。
パニックになりかけて、スマートフォンを見た。丸ノ内線の路線図を開く。確認する。いつもと同じ路線図。駅名も全部載っている。それなのに、目の前の駅には駅名標がない。
その時、隣に女性が立っていることに気づいた。グレーのコート。さっき反対方向のホームにいた女性だ。どうして、ここに。いつの間に乗ってきた。その問いかけさえ、口に出すことができなかった。女性は俺を見ていない。天井を見つめている。その顔の皮膚の色は、深夜の駅の照明を受けて、灰色に見えた。
「ここはどこですか」と俺は聞いた。声は、思ったより小さかった。
女性は静かに口を開いた。
「乗った人みんな、どこか違う世界に行くんです。毎晩毎晩。」
その声は、実在しないような音だった。聞こえているのか、聞こえていないのか、判別できない。女性の顔は相変わらず天井を向いている。目は開いているのか閉じているのか、見えない。
「すみません、どういう意味ですか」と聞こうとした。だが、その時には、もう女性は俺の隣にいなかった。
乗客を見回る。奥の方のシルエットも、側にいた女性も、誰もいない。俺一人だ。電車の中は、俺一人。
※
パニックに近い状態で、ドアを叩いた。強く叩いた。痛みが手に走った。ガラスは冷たく、硬い。次の駅に着くのを待つしかない。次の駅で下りよう。ここから逃げ出さなければならない。
電車が速度を上げた。加速している。走行音が大きくなっている。いつもより速い。トンネルの壁が素早く通り過ぎていく。窓の外は、真っ黒だ。何も見えない。
スマートフォンを確認した。深夜十二時二十分。さっき駅に着いたのは何時だったか。覚えていない。時間の経過がわからない。三分か、五分か、十分か。
電車が急激に速度を落とした。停車する。ドアが開く。
ホームは真っ暗だった。照明がない。駅の形さえも、よく見えない。ただ暗い空間だけがある。その向こうに、何かがあるような気がする。人影か。構造物か。
「駅名をお知らせします」という音声アナウンスが流れた。だが、声が歪んでいた。セミの鳴く音のような、不規則で高い音。電子音がすり合わさったような、耳に不快な音。言葉ではなく、ノイズに近い。
俺はドアの前に立った。下りるべきか、乗り続けるべきか。判断できない。深夜で、酔っている。判断力が曇っているのか、それとも本当に何かおかしいのか。区別ができない。
「乗った人みんな、どこか違う世界に行くんです」
女性の声が、頭に残っていた。
電車の中に戻った。ドアが自動で閉じた。電車は走り始めた。今度は、加速度が強かった。揺れが大きくなった。
※
時間の経過がわからなかった。何駅分走ったのか。何分間走ったのか。スマートフォンを確認したのに、数字が頭に入っていなかった。
スマートフォンを見た。深夜十二時四十分。いや、そんなはずがない。さっきは十二時二十分だった。二十分しか経っていないのか。それとも、もっと経っているのか。スマートフォンが正確に動作しているのか、疑わしかった。
電車の窓の外は、どこか違った。地下鉄のトンネルなのに、窓の外が見える。いや、見える。線路が見える。その向こうに、壁ではなく、空間がある。闇の中に。人影のような形が浮かんでいる。輪郭が不明確で、何なのか判別できない。複数の人影が、静止している。動いていない。ただ浮かんでいるだけ。
その中に、女性の顔に見える形がある。グレーのコートに見える影がある。いや、違う。次から次へと、形が現れては消えている。女性の顔。サラリーマンの顔。子どもの顔。年老いた人間の顔。形だけが見える。実体がない。
スマートフォンの電源を消した。持っていたくなかった。画面を見たくなかった。
電車がまた加速した。揺れが激しい。つり革をつかむ手に力が入る。窓の外の景色が素早く通り過ぎていく。トンネルの壁か。闇か。形のない何かか。
電車が減速した。停車する。ドアが開く。
その駅には、また誰かが乗り込んできた。
サラリーマンだった。普通の背格好。普通の顔立ち。普通の紺のスーツ。だが、その目は何かがおかしかった。虚ろだった。焦点が合っていない。生きているのか、そうでないのか、その中間か。判別できない目。
サラリーマンは俺の隣に立った。ドアが閉じた。電車が走り始める。
「ずっと乗ってるんですか」とサラリーマンが言った。声は平坦で、感情がなかった。
「え」と俺は返した。
「みんな、ずっと乗ってるんです。乗った人は誰も下りない。俺も、何回乗ったか数えられない。朝乗ったのか、昨日乗ったのか。何年乗ってるのか、わからない。」
サラリーマンは窓の外を見ていた。その表情は、何も感じていないように見えた。
「下りた人もいますよ」と別の声が聞こえた。奥の方から。別のサラリーマンだった。こちらも目が虚ろ。こちらも、存在感が薄い。「でも、また乗ってくる。何度乗ってもいい。この電車は、そういう電車なんです」
恐怖に近い感覚が、全身を支配した。
俺は立ち上がった。つり革から手を離した。よろめいた。バランスを失う。だが、立った。隣のサラリーマンの前を通り抜けようとした。サラリーマンは何もしない。邪魔をしない。ただそこに立っているだけ。
ドアの前に着いた。ドアの外のホームを見る。次の駅。また白い壁。また駅名がない。だが、今度は違った。次の駅に着くと、その直後、ドアが開く直前に、俺は駅名標を見つけた。
赤坂見附。
※
ドアが開いた。俺は飛び出すように駅に降りた。
周りは朝の光。蛍光灯ではなく、本当の朝の光。ホームは乗客でいっぱい。通勤ラッシュ。スーツを着た人々。OL。学生。駅員がいる。売店がある。新聞を売っている。改札がある。通常運行。何もかもが正常に見える。
スマートフォンで時刻を確認した。午前七時十五分。
昨晩は深夜十二時四十分だったはずだ。七時間以上、経っていた。でも、電車の中にいた時間が、あんなに長いはずがない。駅から駅への移動。せいぜい三十分ほどのはず。なのに、七時間。
※
駅から出た。赤坂見附の朝。
風景は、いつもと同じはずだった。同じビル。同じ店。同じ信号。だが、どこか違った。色が違う。建物の形が違う。歩いている人の服装が違う。スマートフォンを見ている人が少ない。女性が帽子をかぶっている。多くの女性が帽子をかぶっている。朝の赤坂見附で、これほど帽子をかぶった女性が多いことはない。男性もネクタイをしていない人が多い。スーツでもネクタイなし。それが普通に見えている。
駅の看板を見た。文字が微妙に違う。日本語のはずなのに、何か読みにくい。フォントが古い。ビルの壁の色。淡い灰色。いつもより淡い。空の見え方も違う。曇っている。いや、違う。光の角度が違う。朝日の当たり方が違う。
赤坂見附の、違う赤坂見附。同じ駅。同じ地名。だが、違う世界。
会社に着いた。いつもの道のり。駅から、いつもの道を歩いて。いつもの交差点。いつもの信号。だが、信号の色が微妙に違った。赤信号が、もう少し深い赤。黄信号が、もう少し濃い黄色。わかるはずのない差が、見える。
オフィスビルのエレベーターに乗った。十四階。いつもの階。エレベーターが開く。
同僚がいた。田中。毎日、隣の席に座っている男。二十七歳。
「おはようございます」と挨拶した。
田中は俺を見た。首をかしげた。目を細めた。
「誰ですか」と言った。
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あれから一週間が経った。
この世界に、俺の履歴がない。会社には、俺という社員がいない。人事システムに、俺の名前がない。デスクもない。ロッカーもない。社員IDもない。家には、俺のものがない。誰も、俺を知らない。親友に会っても、知らない人を見るような目で見られる。銀行口座もない。身分証明書もない。パスポートもない。何もない。
だが、俺は存在している。呼吸している。食べることもできる。眠ることもできる。歩くこともできる。話すこともできる。だが、誰も俺を知らない。
唯一、ひっかかることがある。毎晩、深夜十二時になると、地下鉄の案内音が聞こえるのだ。どこからともなく。セミの鳴く音のような、歪んだ音声。駅名アナウンスのような、でも言葉ではない音。
俺は、乗ってしまったのだ。乗ったら最後の、あの電車に。
※
昨日、新宿駅で、グレーのコートを着た女性を見かけた。
反対側のホームに立っていた。俺に気づいた。目があった。その目には、何か問いかけるような光があった。
「下りましたね」と、口の動きで言ったように見えた。「よかった」と。
だが、同時に「また乗る人がいます」とも言った。その女性の視線は、ホームの別の場所に向かった。
電車が来た。新宿駅のホームに、見慣れない色の電車が止まった。赤い車両。だが、いつもの赤ではない。深い赤。まるで、血のような赤。ドアが開く。乗客が乗り込む。深夜でもないのに、誰も乗客の多さを不思議がらない。乗客たちは、静かに、黙って、乗り込む。
その中に、若いサラリーマンが乗り込んだ。スーツ姿。肩にバッグをかけた、ごく普通の男。顔には、終電を逃した者特有の疲労感と、時間を無駄にしたことへの後悔の色。そして、わずかな不安。
ドアが閉じた。電車が走り始めた。その若い男は、つり革をつかんだ。周りの乗客の誰もが、彼に話しかけない。無視している。彼は、徐々に気づくだろう。駅名標がないことに。乗客が減ることに。女性がグレーのコートであることに。
グレーのコートの女性は、俺の隣で、静かに笑っていた。その笑顔は、優しくも見え、悲しくも見えた。彼女は何年、この電車に乗っているのだろう。何人の乗客を見送ったのだろう。そして、何人の新しい乗客を迎えたのだろう。
深夜の地下鉄は、今夜も走り続ける。駅名標のない駅を通り過ぎながら。