八尺様 ―封じの崩れた夏―

霧の中の山道と幽霊の影

あれは五年前の夏のことだ。

俺がまだ二十七で、東京の小さなIT企業に勤めていた頃。盆休みに合わせて、四国にある祖父母の家へ帰省した。

祖父母の家は徳島の山奥、剣山の麓に広がる小さな集落にある。人口は三十人もいない。最寄りのコンビニまで車で四十分。携帯の電波も怪しい。子供の頃は毎年夏休みに遊びに行っていたが、大学に入ってからは足が遠のいて、もう六年ぶりの帰省だった。

なぜ六年ぶりに帰省したかというと、祖父から珍しく電話があったからだ。いつもは祖母が電話をかけてくるのに、その日は祖父が直接かけてきた。「お前、今年の盆は来られるか」。それだけだった。用件を聞いても、「来ればわかる」とだけ言って切られた。

妙に気になった。祖父は口数の少ない人で、電話を自分からかけるような人ではない。俺は盆休みの予定を空けて、徳島行きの夜行バスを予約した。

八月十三日の昼過ぎ、俺は祖父母の家の縁側で麦茶を飲んでいた。

夜行バスと電車とバスを乗り継いで、朝の十時に着いた。祖母は俺の顔を見て泣いた。「大きくなったねえ」と六年前と同じことを言った。祖父は黙って頷いただけだったが、目元が少し赤かった気がする。

山の緑が濃くて、蝉の声が壁のように分厚い。六年ぶりに見る景色は、何も変わっていなかった。ただ、祖父の背中が少し丸くなったことと、庭の柿の木が一本枯れていたこと、それから隣の家が空き家になっていたこと以外は。

「隣の吉岡さんは?」と聞くと、祖母は「去年、息子さんのところに行かれたよ」と言った。集落の高齢化は、俺が来ない間にも確実に進んでいた。

祖母が台所で天ぷらを揚げている音を聞きながら、俺は縁側でうとうとしかけていた。長旅の疲れで、目を開けているのが辛かった。

そのとき、生垣の向こうに何かが見えた。

最初は、近所の人が歩いているのだと思った。でも、おかしい。うちの生垣は、祖父が丁寧に手入れしていて、高さが二メートル近くある。普通の大人なら頭のてっぺんが見えるか見えないかだ。

なのに、その影は生垣の上から、頭ひとつぶん以上飛び出していた。

白っぽい何かが、ゆっくりと左から右へ移動している。

帽子か、と思った。日傘か、とも思った。でも違う。それは明らかに人の頭だった。長い黒髪が、風もないのにわずかに揺れている。黒髪は腰のあたりまであるように見えた。つまり生垣の上から五十センチ以上、頭と上半身が突き出していることになる。身長にすると、二メートル五十はある。

「ぽ、ぽ、ぽ、ぽ、ぽ」

声が聞こえた。低い、くぐもったような、笑っているような声。女の声だった。一定のリズムで、まるで子供をあやすように「ぽ、ぽ、ぽ」と繰り返している。

その声を聞いた瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。真夏の午後なのに、背筋の芯が凍りついたように冷たくなった。体が動かなかった。金縛りとも違う。ただ、本能的に「動いてはいけない」と感じたのだ。獣が捕食者の前で硬直するように、体の奥深いところにある何かが、動くことを拒否していた。

影は、ゆっくりと生垣の向こうを通り過ぎていった。歩いているはずなのに、足音は一切しなかった。あの「ぽぽぽ」という声だけが、生垣の葉を揺らしもせずに移動していく。十秒か、二十秒か。時間の感覚が曖昧だった。

影が見えなくなってから、ようやく俺は息を吐いた。いつの間にか呼吸を止めていたらしい。手が震えていた。

「じいちゃん」

俺は裸足のまま廊下を走って、台所にいた祖父を呼んだ。祖母は天ぷらを揚げる手を止めて、俺の顔を見た。

「どうしたん、圭太。顔が真っ白じゃよ」

「さっき、生垣の外を誰か通ったんだけど。すごく背の高い人。女の人だと思うんだけど」

祖父の顔色が変わった。七十八歳の祖父が、一瞬で十歳は老け込んだように見えた。手に持っていた新聞を落とし、祖母の方を見た。祖母は両手で口を覆っていた。天ぷらの油がぱちぱちと音を立てている。

「声は聞いたか」

祖父の声が震えていた。

「ぽぽぽ、みたいな。笑ってるような声」

祖母が台所の椅子に崩れるように座った。「やっぱり」と小さく呟いた。「やっぱりそうじゃ。だから来させたくなかったんじゃ」

「圭太、お前、その女の顔は見たか」

「いや、生垣で隠れてて、頭の上しか見えなかった」

「そうか……」

祖父は少し安堵したような、しかしそれでも深刻な表情のまま立ち上がり、廊下の奥にある電話機に向かった。黒い、ダイヤル式の古い電話。祖父が番号を回す指が、細かく震えているのが見えた。

「……もしもし、サタさんか。わしじゃ。……来てくれ。孫がやられた」

それだけ言って、祖父は電話を切った。

俺は居間に座らされたまま、祖母が仏壇から粗塩を持ってきて俺の周りに撒くのを呆然と見ていた。線香を三本立てて、何か小さな声で唱えている。般若心経ではない。もっと古い、聞いたことのない言葉だった。

「じいちゃん、何なんだよ。何がやられたって」

「黙っとれ。今はしゃべるな」

祖父にあんな口調で言われたのは初めてだった。

三十分ほどして、玄関の引き戸ががらりと開いた。入ってきたのは小柄な老婆だった。白髪を後ろで束ねて、紺色の作務衣を着ている。背中が曲がっていて、杖をついていたが、目だけはぎらぎらと鋭かった。歳は九十近いはずなのに、目の奥に炎が灯っているようだった。

「サタさん」と祖父が言った。

老婆は俺をじっと見た。一分近く、まばたきもせずに。俺はその視線に射すくめられて、目をそらすことができなかった。

「間違いないの」

老婆は低い声でそう言った。

「八尺に魅入られとる。匂いがついとる」

「匂い?」

「あれがつけた匂いじゃ。お前にはわからんじゃろうが、わしにはわかる。甘い匂いじゃ。腐った花のような、甘い匂い」

サタさんというのは、集落で「拝み屋」と呼ばれている人だった。子供の頃にも会ったことがあるが、当時はただの怖いお婆さんとしか思っていなかった。祖母が「サタさんはこの集落で一番偉い人じゃ」と言っていたのを覚えている。

サタさんの話は、俺の理解を超えていた。

八尺様。身の丈が八尺(約二メートル四十センチ)を超える女の姿をした「何か」。人ではない。神でもない。この集落では、二百年以上前から語り継がれてきた存在だという。

「あれはな、人を選ぶんじゃ」とサタさんは言った。囲炉裏の前に正座して、俺を真正面から見据えている。「気に入った人間を見つけると、ぽぽぽと笑いながら近づいてくる。そうして魅入られた者は、三日以内に連れていかれる」

「連れていかれるって、どこに」

「どこにも行かん。消えるだけじゃ。骨も残らん」

俺の背筋を、冷たいものが這い下りた。

「八尺は若い男を好む。特に、久しぶりにこの土地を訪れた者を」

祖父が俺を帰省させた理由が、ようやくわかった。八尺様の存在を伝えるために呼んだのだ。二度とここに来るな、と言うために。しかし皮肉なことに、来たことで魅入られてしまった。

かつて、八尺様は集落の端にある四つの地蔵によって封じられていた。東西南北に一体ずつ、集落の境界に立てられた地蔵が結界のような役割を果たしていたらしい。サタさんの祖母のそのまた祖母の代に作られたものだという。八尺様はその中に閉じ込められ、集落の外には出られない。その代わり、集落の中では時折姿を現す。

「じゃあ、俺はこの集落から出ればいいんじゃ」

「そう簡単にはいかんのじゃ」

サタさんが重い口を開いた。皺だらけの顔が、一瞬苦しそうに歪んだ。

「今年の春、東の地蔵が壊れた。三月の台風でやられた。根元からぽっきりじゃった。そのあと、西の地蔵にもひびが入った。封じが弱まっとる。以前なら集落の外に出れば安全じゃったが、今はわからん」

祖父が苦い顔をした。「実はな、圭太。お前に帰ってこいと言うたのは、この話をするためでもあったんじゃ。お前の父さんには言えんかった。心配させとうなかったからの。じゃが、お前には知っておいてほしかった。この土地のことを」

日が暮れ始めた。山の端に夕日が沈むと、集落は一気に暗くなる。街灯は集落の入り口に一本あるだけで、あとは各家の軒先の灯りだけだ。

サタさんの指示で、俺は二階の奥の部屋に入れられた。六畳の和室。窓は二つ。南向きと西向き。両方の窓に新聞紙が隙間なく貼られ、その上から半紙に墨で書かれた呪文のようなものが四枚、東西南北に貼られた。部屋の四隅に盛り塩が置かれ、中央には水の入った茶碗と、古い木彫りの仏像が一体。仏像は不動明王のようだったが、どこか形が違う。地元の仏師が彫ったものだと後で聞いた。

「いいか、朝まで絶対にこの部屋から出るな」

サタさんが言った。杖の先で畳を叩きながら、一語一語に力を込めて。

「何が聞こえても、窓を見るな。新聞紙を剥がすな。返事をするな。名前を呼ばれても答えるな」

「名前を……?」

「あれは声を真似る。お前の知っとる人間の声で話しかけてくる。祖父の声でも、母親の声でも。絶対に答えるな。答えたら、窓を開けたのと同じことになる」

サタさんは仏像の前で何かを唱えてから、部屋を出た。襖が閉まり、外から鍵がかかる音がした。

俺は一人になった。蛍光灯の豆球だけがぼんやりと点いている。仏像の顔が、薄闇の中で妙に生々しく見えた。

夜が来た。

山の中の夜は、東京の夜とは根本的に違う。音がないのではなく、闇に質量がある。暗闇そのものが部屋の中に満ちて、重みを持って肌に触れてくる。

最初は虫の声が聞こえていた。蝉は鳴き止んでいたが、秋の虫が鳴き始めていた。コオロギとスズムシ。その音が、ある瞬間、ぴたりと止んだ。

まるでスイッチを切ったように。

午後十時を過ぎた頃だったと思う。スマホの時計を見ようとしたが、電波が入らないスマホの画面が妙に怖くて、伏せたまま布団の上に置いた。

こんこん、と窓を叩く音がした。

二階だ。この部屋は二階にある。窓の外は、地面から五メートル近い高さのはずだ。梯子をかけても届くかどうかという高さ。

こんこん。こんこん。

規則正しく、三秒おきに。まるで、ドアをノックするかのように丁寧に。上品と言ってもいいくらいの、控えめな叩き方。それがかえって不気味だった。

俺は布団の中で体を丸めた。目を閉じて、耳を塞ごうとした。でも、音は頭蓋骨の中に直接響いてくるようだった。手で耳を押さえても、骨を伝って脳に届く。

「圭太」

祖母の声がした。窓の外から。

「圭太、開けて。おばあちゃんじゃよ。お茶を持ってきたんじゃ。暑いじゃろう」

完璧な祖母の声だった。イントネーションも、語尾の癖も、「じゃよ」という独特の言い方も。でも、ここは二階だ。祖母が窓の外にいるわけがない。祖母は一階の居間で寝ているはずだ。

俺は答えなかった。両手で耳を押さえ、声を殺して震えていた。

「圭太。なんで開けてくれんの。冷たい子じゃのう」

声が途切れた。十秒ほどの沈黙。そして声が変わった。今度は母の声だった。東京にいるはずの母の声。

「圭太、お母さんよ。心配で来たの。新幹線で来たのよ。開けてちょうだい」

母はこの集落のことを知らない。来たこともない。でも声は完璧だった。母が電話で話すときの、少しだけ高くなる声のトーン。「ちょうだい」の語尾の上がり方。

涙が出た。怖かったのか、悲しかったのか、わからない。ただ涙が止まらなかった。

声はそれから二時間近く続いた。母の声、祖母の声、中学の同級生の声、大学の後輩の声、聞いたことのない子供の声、赤ん坊の泣き声。声は次第に重なり始めた。複数の声が同時に話す。「開けて」「出ておいで」「こっちにおいで」。

最後には、俺自身の声で「開けてくれ、中にいるのが怖い、外に出たい」と言った。自分の声で懇願されるというのは、言葉にできないほど気味が悪かった。

そのとき、窓に貼られた新聞紙の隙間から、ほんの一瞬、白い指が見えた気がした。

異様に長い、白い指。関節がひとつ多いように見えた。指が新聞紙の端を探るように動いている。剥がそうとしている。

俺は声を上げそうになった。上げなかった。サタさんの言葉が頭をよぎったからだ。「答えたら、窓を開けたのと同じことになる」。声を出してもいけないのだと、直感的に悟った。

指は、三十秒ほどで消えた。

午前三時を過ぎた頃、突然すべてが止んだ。

窓を叩く音も、声も、あの圧迫するような沈黙すらも消えて、虫の声が戻ってきた。蛙の声。遠くで鳴く梟。普通の、山の夜の音。世界が元に戻ったように感じた。

俺は一睡もできないまま朝を迎えた。障子の向こうがうっすらと白んできたとき、体中から力が抜けた。

襖が開いたのは午前五時。サタさんと祖父が立っていた。サタさんは俺の顔を見て、小さく頷いた。

「よう耐えた。声を出さなんだな」

どうしてわかるのだろう。聞かなかった。

朝食をとる余裕はなかった。

サタさんの指示で、俺は午前六時に集落を出ることになった。祖父の軽トラックに乗り、集落の外へ向かう。ただし、条件があった。

「お前の血縁者が四人、車の四方を囲む。お前は真ん中じゃ。絶対に窓の外を見るな。目を閉じて、この数珠を握っておれ」

サタさんから渡されたのは、黒檀の古い数珠だった。一粒一粒に梵字が刻まれている。珠の表面がすり減っていて、何世代にもわたって使われてきたものだとわかった。

夜明け前に電話で呼ばれていたらしく、叔父と叔母がすでに来ていた。叔父は祖父の弟の息子で、集落から車で一時間の町に住んでいる。叔母はその妻。二人とも青い顔をしていた。事情を聞いているのだろう。

祖父が運転席。助手席に祖母。後部座席の左に叔父、右に叔母。俺は後部座席の真ん中に押し込まれた。血縁者に四方を囲まれた状態。

サタさんが車の外で何かを唱え、車の四方に塩を撒いた。そして運転席の祖父に向かって頷いた。

車が動き出した。

「目を閉じとけ」と祖父が言った。

俺は目を閉じた。数珠を両手で握りしめた。車のエンジン音と、砂利道を走る振動だけが伝わってくる。朝の空気が窓の隙間から入ってくる。冷たくて、湿っている。

五分ほど走った頃だろうか。

叔母が小さく悲鳴を上げた。

「見るな! 前を見とれ!」と祖父が怒鳴った。

車が急加速した。軽トラックのエンジンが悲鳴のような音を立てる。シートに体が押し付けられる。

窓の外から、あの音が聞こえた。

「ぽ、ぽ、ぽ、ぽ、ぽ」

近い。すぐ横にいる。車と並走している。時速六十キロで走る軽トラックに、並走している。

叔父が俺の肩を強く掴んだ。叔父の手も震えていた。

俺は目を開けなかった。数珠を握る手が白くなるほど力を込めて、ただ歯を食いしばっていた。

サタさんが言っていた場所──集落から東に八キロほど行った峠の古い地蔵──そこを通過すれば安全だと。その地蔵だけはまだ無事で、最後の封じとして機能しているらしい。

「もう少しじゃ!」と祖父が叫んだ。

あの笑い声が、車の屋根の上から聞こえた。

上にいる。車の上に乗っている。

天井が、みしり、と音を立てた。軽トラックの薄い鉄板が、何かの重みで軋んでいる。天井の中央がわずかに凹むのが見えた──いや、目を閉じているのに見えた気がした。

「ぽ、ぽ、ぽ、ぽ」

声が真上から降ってくる。俺の頭のすぐ上、鉄板一枚を隔てた向こう側に、あれがいる。

「圭太、目を開けんなよ!」叔父が俺の肩を掴む力を強めた。

祖母が般若心経を唱え続けている。祖父は無言でアクセルを踏み続けている。

そのとき、車が大きく揺れた。何かが剥がれ落ちるような音。ばさり、と。風に紙が飛ばされるような、でももっと重い音。そして──静寂。

あの声が消えた。

「……過ぎた」

祖父の声が掠れていた。バックミラーを見ているのだろう。

「地蔵を過ぎた。もう大丈夫じゃ」

俺はそのとき初めて目を開けた。叔母が声を殺して泣いていた。叔父の顔は土色だった。祖母が般若心経を唱え続けていた。唱えながら涙を流していた。

バックミラーには、朝霧に包まれた峠道が映っているだけだった。何も見えない。ただの山道。

でも俺には、ミラーの中の霧の奥に、白い何かが立っているように見えた。生垣より高い、白い影が。

祖父は俺を最寄りの駅まで送ってくれた。

駅のロータリーで車を停めて、祖父は運転席から降りてきた。別れ際、祖父は俺の手を握った。ごつごつした、日に焼けた手。農作業と林業で鍛えられた手。その手が、子供のように震えていた。

「圭太。もう、ここには来るな」

「じいちゃん……」

「いいか、二度と来るな。わしらのことは心配せんでいい。電話はする。手紙も書く。じゃがな、お前がこの土地を踏んだら、あれはまたお前を見つける。封じが完全に壊れん限り、あれはこの山の近くにおる。お前が来なければ、あれもお前を追えん」

「でも、じいちゃんたちは大丈夫なの」

「わしらは年寄りじゃ。あれは若い者しか狙わん。わしらは大丈夫じゃ」

俺は何も言えなかった。ただ、祖父の手を握り返した。

祖父は軽トラックに乗り込み、一度だけ振り返って手を上げた。そして山道を戻っていった。排気ガスの白い煙が、朝の空気に溶けて消えた。

東京に戻ってから、俺は何度も集落のことを調べようとした。八尺様。ネットで検索すると、いくつかの体験談が出てくる。有名な話だ。でも、そのどれもが、俺の体験とは微妙に違っていた。場所も、状況も、封じ方も。声の種類も。

八尺様はひとりではないのかもしれない。あるいは、ひとつの存在が各地で少しずつ違う形で現れるのかもしれない。俺にはわからない。ただ、「ぽぽぽ」という声だけが共通していた。

三年前の冬、祖父から電話があった。

「西の地蔵も壊れた」

それだけ言って、電話は切れた。

それから半年後、サタさんが亡くなった。九十三歳だった。集落で唯一、封じの術を知っていた人間がいなくなった。サタさんには後継者がいなかった。娘も孫も、みな集落を出て都会に行ってしまった。

昨年の秋、祖父母は集落を出て、叔父の家に引っ越した。祖父は最後まで抵抗したが、祖母が体を壊したことで、ようやく決断したらしい。集落に残っているのは、もう五人だけだという。全員が七十歳以上。

先月、従弟から連絡があった。法事で四国に行った帰りだという。

「集落の近くを車で通ったんだけど、変なものを見た」

「変なもの?」

「道の脇に、すごく背の高い女の人が立ってた。白い服を着てて。でもさ、あの辺って街灯もないのに、その人だけ白く光って見えたんだよね。月明かりとかじゃなくて、その人自体が光ってるみたいに」

俺は電話を握る手が震えるのを抑えられなかった。

「それ、どこ?」

「峠の手前。地蔵があるところ。……あれ、地蔵なんてあったっけ。台座だけ残ってて、上の部分は無かったけど」

最後の地蔵。東の峠にあった、唯一残っていた地蔵。

封じが、完全に崩れている。

八尺様は、もう集落の中だけにはいない。

この話を書いている今も、俺は東京にいる。集落からは五百キロ以上離れている。

でも昨夜、マンションの窓の外から、かすかに声が聞こえた気がした。

十四階だ。窓の外に誰かがいるわけがない。

空耳だと思いたい。

「ぽ、ぽ、ぽ」

空耳だ。きっとそうだ。

そう思いながら、俺はカーテンの隙間を、どうしても見ることができない。

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