曾祖母の日記

幽玄な古い蔵の記録

実家じまいをすることになったのは、去年の秋のことだった。

母方の祖母が施設に入り、もう誰も住まなくなった長野の古い家を、親族で片付けることになった。私は夫に子供を預けて、母と二人で向かった。

祖母の家は築九十年を超える木造で、裏手に小さな蔵がある。蔵の中には、曾祖母の代からの荷物がそのまま残っていた。埃をかぶった木箱、色褪せた着物の束、壊れた柱時計。何十年も誰も開けていなかったらしく、空気そのものが古かった。

母が着物の仕分けをしている間、私は奥の棚を整理していた。新聞紙に包まれた小さな箱を開けると、中に一冊の日記帳が入っていた。

表紙には「日々の記」と筆で書かれている。中を開くと、達筆な旧仮名遣いの文字がびっしりと並んでいた。日付は大正十二年から始まっている。

曾祖母のものだと、すぐにわかった。祖母から聞いていた名前が、最初のページに記されていたからだ。「山崎ハツ」。私の曾祖母は、二十二歳のときにこの日記を書き始めたらしい。

その夜、祖母の家に泊まることになった。母は早々に寝てしまったが、私はなんとなく眠れなくて、布団の中で曾祖母の日記を読んでいた。

旧仮名遣いに慣れてくると、内容は意外なほど読みやすかった。季節の花のこと、近所の人とのやりとり、飼っていた猫のこと。百年前の暮らしが、淡々とした文章で綴られている。

大正十三年の春の記述に差しかかったとき、私の手が止まった。

「今朝、また夢を見た。赤い屋根の、見たことのない建物の中にいる夢。そこには小さな机が並んでいて、同じ年頃の子供たちが大勢いる。私はその中の一人で、窓の外を見ている。窓の向こうには、灰色の高い塔が何本も立っている。こんな場所は、この村にはない」

私は目を二度、三度と擦った。

赤い屋根の建物。小さな机。灰色の高い塔。

それは、私が通っていた小学校の教室そのものだった。

偶然だと思った。赤い屋根の学校も、机が並ぶ教室も、日本中どこにでもある。灰色の塔というのも、煙突か何かの見間違いだろう。

しかし、次のページを読んで、その考えは揺らいだ。

「夢の中で、私はいつも同じ場所に座っている。窓側の一番後ろ。右隣には髪の長い女の子がいて、その子はいつも絵を描いている。左隣は空席で、その椅子の背には誰かの白い袋がかけてある」

窓側の一番後ろ。右隣の、絵ばかり描いている髪の長い女の子。左の空席と、忘れ物の体操着袋。

小学三年生のときの、私の席だった。

右隣の美咲ちゃんはいつもノートの端に漫画を描いていて、左隣の男の子は不登校がちで、体操着袋だけがいつも椅子にかかっていた。

日記は続く。

「夢の中で、昼に皆で食事をする。金属の器に白い汁物が入っていて、柔らかいパンと、甘い果物がつく。果物は橙色で、薄い皮を剥いて食べる」

給食のシチューとコッペパンとみかん。大正時代の山村で暮らす女性が、見たこともないはずのものを、正確に描写していた。

そこから先は、夢の記述が断続的に現れた。数ページおきに、曾祖母は「また夢を見た」と書いている。

「夢の中の私は、黒い板に白い石で字を書く」——チョークと黒板のことだと思った。

「体が宙に浮く乗り物に乗った。窓の外に町が広がっていて、とても高い場所を走っている」——モノレールか、高架の電車だ。

「手のひらに収まるほど小さな、光る板がある。その板に触れると、遠くの人と話ができる」——スマートフォン。

大正時代の女性が知るはずのないものが、次々と描かれていた。しかし曾祖母は怖がっている様子もなく、不思議な夢として淡々と記録している。

ただ、一箇所だけ、文字が乱れている部分があった。大正十四年の夏の記述だ。

「今朝の夢は、いつもと違った。私は大人になっていた。台所に立っている。窓の外に小さな庭があり、紫陽花が咲いている。隣の部屋から子供が二人、走ってくる。男の子と女の子。女の子が私を見て、おかあさん、と呼んだ。その声で目が覚めた。目が覚めてからも、あの子の声が耳に残っている。あの子は私の子だと、確かにそう感じた」

私には子供が二人いる。五歳の息子と三歳の娘。うちのマンションの小さな庭には、紫陽花が植えてある。

日記の最後の方に、こんな記述があった。

「この夢は、未来の自分の姿なのだろうか。それとも、遠い先に別の誰かとしてもう一度生まれるということなのだろうか。どちらでも構わない。夢の中の暮らしは穏やかで、あの子供たちの顔を見ると、安心する。もし生まれ変わるなら、あの子たちのそばにいたい」

曾祖母は昭和三年に二十七歳で亡くなったと聞いている。流行り病だったそうだ。日記は、その半年ほど前で途切れていた。

私が生まれたのは、それから六十五年後のことだ。

翌朝、母に日記のことを話した。母は少し驚いた顔をして、それから「おばあちゃんが昔、変なことを言っていた」と言った。

「あんたが生まれたとき、おばあちゃんが抱っこして、ずっと顔を見ていたの。それで急に泣き出して、『おかえり』って言ったのよ。あんたはまだ赤ん坊だったから覚えてないでしょうけど」

祖母は曾祖母の娘だ。母親の死を、幼い頃に経験している。

蔵の片付けは予定通り終わり、日記帳は私が持ち帰ることにした。母も異論はなかった。

マンションに戻ると、娘が玄関まで走ってきた。「おかあさん、おかえり」。その声を聞いた瞬間、理由のわからない涙が出た。

日記帳は今、私の本棚にある。たまに開いて読む。百年前の曾祖母が見ていた夢の中の景色は、私の日常そのものだ。偶然だと言えばそれまでだが、あの日記を読んでから、私はときどき考える。

今の私が見ている夢の中に、百年後の誰かの日常が映っていたりしないだろうか。

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