鏡台に残る匂い

夜の鏡と幽霊の反映

私は東京の下町で小さな骨董品店を営んでいる。夫が十年前に他界してからは、高校生の娘と二人、この店を切り盛りしてきた。

仕入れは主に遺品整理の業者からで、月に何度か声が掛かる。ご遺族が処分に困っているものを、まとめて引き取ることも珍しくない。長くこの仕事をしていると、品物に残る前の持ち主の気配のようなものには、自然と鈍くなっていく。

去年の秋のことだった。

懇意にしている業者から、世田谷の古い一軒家を丸ごと片付けるという案件が入った。持ち主は九十二歳で亡くなったおばあさんで、生涯独身だったらしい。身寄りがほとんどなく、甥御さんが手続きをしているが、家財道についてはすべて処分してほしいとのことだった。

現地に行ってみると、手入れの行き届いた家だった。庭には山茶花が咲いていて、玄関の三和土もきれいに掃き清められている。亡くなってまだ日が浅いのだろう、人が暮らしていた空気がまだ残っていた。

家の中を見て回り、いくつかの品に値をつけた。箪笥、火鉢、振り子時計。どれも状態がよく、丁寧に使われてきたことが分かるものばかりだった。

奥の和室に入ったとき、私の目は一点に釘付けになった。

部屋の隅に、三面鏡の鏡台が置かれていた。

欅の一枚板を使った、おそらく昭和初期の品だろう。鏡は三面とも曇りがなく、蒔絵の施された引き出しには椿の花があしらわれていた。これほどの鏡台は、今では滅多に出てこない。

ただ、ひとつだけ気になることがあった。三面の鏡すべてに、白い布が掛けられていたのだ。

鏡に布を掛けるのは、亡くなった方がいる家では珍しくない風習だ。だから私はそのときは深く考えず、布を外して鏡の状態を確認し、業者に買い取り額を伝えた。

鏡台を店に運び入れたのは、その週の土曜日だった。

娘の美咲が手伝ってくれて、店の奥、壁際の落ち着いた場所に据えた。午後の光が横から差し込む位置で、欅の木目が深い飴色に光って、とても美しかった。

「お母さん、これすごくきれい」

美咲が鏡台の前に座って、引き出しを開けたり閉めたりしていた。蒔絵の椿を指でなぞりながら、「大事にされてたんだね」と呟いた。

異変に気づいたのは、その翌日の夜だった。

閉店後、帳簿をつけていると、店の奥からかすかな音が聞こえた。

さらさら、さらさら。

最初は雨かと思った。窓の外を見たが、空は晴れていた。音は一定のリズムで続いている。規則正しく、穏やかに。

さらさら、さらさら。

誰かが、髪を梳いている音だった。

私は音の方に歩いていった。店の奥、鏡台のあるあたりから聞こえている。もちろん、そこには誰もいない。鏡台の前の椅子は空で、三面鏡には薄暗い店内がそのまま映っているだけだった。

鏡台に近づくと、音は止んだ。

代わりに、ふわりと匂いがした。白粉のような、でも少し甘い、古い化粧品の匂い。

それは一瞬で消えた。私は鏡台の引き出しを開けてみたが、中は空だった。仕入れたときに確認済みで、何も入っていないことは分かっていた。

気のせいだろう、と自分に言い聞かせた。

だが、気のせいではなかった。

翌日も、その翌日も、閉店後になると同じ音が聞こえた。さらさら、さらさら。髪を梳く、あの規則正しいリズム。そして近づくと止み、あの甘い匂いだけが一瞬だけ漂う。

三日目の夜、私は意を決して音が聞こえている最中に、足音を殺して鏡台に近づいた。

店の照明は落としてある。非常灯のぼんやりした緑色の光だけが、鏡台のあたりをかすかに照らしていた。

五メートル。まだ聞こえている。

三メートル。さらさら、さらさら。

一メートル。

音が、止まった。

鏡台の三面鏡に映っているのは、自分の顔だけだった。ただ、左の鏡の端に、何か白いものが一瞬だけ映った気がした。振り返ったが、何もない。

匂いだけが、いつもより少し長く残っていた。

決定的だったのは、四日目の朝だった。

学校に行く前に美咲が店に降りてきて、私にこう言った。

「お母さん、昨日の夜、お店にお客さん来てた?」

来ていない、と答えると、美咲は少し首を傾げた。

「夜中にトイレに起きたとき、階段のところから店を覗いたの。そしたら、鏡台の前にひとが座ってた」

背筋が冷たくなった。

「どんなひと?」

「暗くてよく見えなかったけど……髪が長くて、きれいなひとだった。白っぽい着物を着てたと思う。髪を梳いてたよ、ゆっくり」

美咲は怖がっている様子ではなかった。むしろ少し嬉しそうに、「すごくきれいだった」と繰り返した。

私はその日、一日中落ち着かなかった。

夕方、思い切って業者に電話をした。世田谷の家の持ち主について、もう少し詳しく知りたかった。

業者は快く教えてくれた。

亡くなったのは中島ミツさんという方で、若い頃は日本髪の結髪師をしていたそうだ。腕がよく、花柳界でも評判だったらしい。生涯独身を貫き、引退後はあの世田谷の家でひっそりと暮らしていた。

「ああ、そういえば」と業者が付け加えた。「甥御さんが言ってたんですが、ミツさんは毎晩、あの鏡台の前で髪を梳くのが日課だったそうです。九十を過ぎても腰まである長い髪を、丁寧に手入れしていたって」

電話を切った後、私はしばらく鏡台を見つめていた。

欅の木目。蒔絵の椿。曇りのない三面鏡。

九十年以上の歳月を、この鏡台の前で過ごしたひとがいる。毎晩、同じ場所に座って、同じように髪を梳いて。その時間がこの鏡台に染み込んでいるのだとしたら、それは呪いなどではなく、ただ、その人の人生そのものなのだろう。

翌週、私は甥御さんに連絡を取った。事情を話すと、甥御さんは驚いた様子もなく、「叔母らしいですね」と笑った。

「叔母は『自分が死んでも、髪だけは誰にも切らせない』と言っていましてね。棺に入れるときも、髪はそのままにしてくれと遺言がありました」

甥御さんと相談して、鏡台はお寺に納めることになった。ミツさんの菩提寺の住職が快く引き受けてくれた。

鏡台を運び出す日の朝、最後にもう一度、三面鏡を覗き込んだ。

映っているのは、四十代の疲れた顔をした自分だけだった。

でも、匂いがした。あの白粉のような、甘い匂い。

これまでで、いちばん長く残っていた。

鏡台がなくなった店は、少しだけ広くなった。

美咲が「あのきれいなひと、もう来ないの?」と残念そうに言ったので、引っ越したんだよ、とだけ答えた。

あれから半年が経つ。

店内で匂いを感じることは、もうない。

ただ、ときどき閉店後に、あのさらさらという音が聞こえる気がする。鏡台があった場所のあたりから。耳を澄ませると消えてしまうほどかすかな音で、気のせいと言えば気のせいなのかもしれない。

先日、何となく気になって、世田谷の家の前を通ってみた。家はもう取り壊されて、更地になっていた。その隅に山茶花だけが一本、まだ残っていた。

風が吹いて、花びらが散った。

そのとき、ほんの一瞬だけ、あの匂いがした。

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