
俺の出身は宇都宮です。
高校を卒業して、三年制の専門学校に通うために上京しました。
まだ東京の暮らしに慣れきれていない頃の話です。
夏休みのある日、赤羽駅近くの居酒屋で、気づけば深夜まで飲んでいました。
終電はとっくに終わっていて、タクシーを捕まえました。
家の近くにある大きな公園まで乗せてもらうつもりでした。
車内では運転手さんと何気ない話をしていたのですが、いつの間にか眠ってしまったようです。
次に目を開けたとき、まだ車内でした。
車は停まっていました。
おかしいな、と思いました。
目的地なら、起こされるはずです。
ふと前を見ると、運転手さんも眠っていました。
慌てて声をかけて起こしました。
すると運転手さんは寝ぼけた顔のまま、信じられないことを言いました。
「……すみません。
いつの間にか寝てました」
それだけなら、疲れていたのだろうと思えたかもしれません。
けれど続けて、こう言ったのです。
「それと……ここ、どこだか分からないんです」
車の外は真っ暗でした。
田舎道のように街灯が少なく、見えるのは人気のない道路と、遠くの建物の影くらいでした。
数十分寝ていただけだろう。
そう思って、まず時計を見ました。
しかし、止まっていました。
次に料金メーターを見ました。
表示が出ていませんでした。
無線も繋がらないと言います。
まるで、車ごと何かから切り離されたような状態でした。
運転手さんと一緒に、車を降りて周囲を見回しました。
音が少ない。
車も人もほとんど通らない。
夏の夜なのに、空気が妙に冷たい気がしました。
とにかく場所を確認しようと、二人で走り回りました。
ようやく公衆電話を見つけました。
運転手さんが会社に電話をかけました。
ところが、返ってきた言葉は予想外でした。
『何でお前が乗ってるの?』
電話口の人は、運転手さんがタクシーに乗っていること自体を不思議がっているようでした。
運転手さんは受話器を握ったまま、しばらく固まっていました。
次に、少し歩いてコンビニを見つけました。
明かりがあるだけで、救われた気がしました。
店員さんに、ここがどこか尋ねました。
すると、あっさり言われました。
「栃木県の小山市です」
耳を疑いました。
東京から小山。
しかも、運転手さんも僕も、そこまで走った記憶がありません。
そして、もっとおかしなことが続きました。
店員さんがレジ横のカレンダーを見ながら、日付を口にしたのです。
「……日付?
三日前ですよ」
背中が冷たくなりました。
冗談にしては、空気が静かすぎる。
店員さんの顔も、いたって普通でした。
僕は怖くなって、公衆電話から家に電話をかけました。
もし本当に日付が三日前なら、家族が心配しているはずだ。
そう思ったのに。
受話器の向こうに出たのは、聞いたことのない女性の声でした。
一言もまともに交わせないまま、すぐ切れました。
番号を間違えたのかと思い、もう一度確かめました。
合っている。
なのに違う。
運転手さんも青い顔をしていました。
「とにかく会社に戻ります。
戻れば分かるはずです」
そう言い張り、僕らは高速に乗って赤羽へ向かいました。
道中、運転手さんは何度もルームミラーで僕の顔を確認するように見ていました。
僕も、窓の外を見続けました。
知らない看板。
知らない景色。
けれど確かに、東京へ戻る道のはずでした。
赤羽駅近くのタクシー会社に着きました。
事情を話しました。
当然のように、信じてもらえませんでした。
運転手さんが「さっき会社に電話した」と訴えても、そんな電話は受けていないと言います。
時間を聞けば、電話があったと主張するのは三時間ほど前のはずなのに。
記録にも残っていない。
誰も知らない。
僕らだけが「確かに起きた」と思っている。
そんな状況でした。
「二人とも疲れてる。
とりあえずソファで休みなさい」
そう言われ、応接のソファに座りました。
正直、眠れる状態ではありませんでした。
目を閉じても、さっきの暗い道と、止まった時計と、三日前という言葉が頭から消えませんでした。
それでも、身体は限界だったのだと思います。
気づけば、朝になっていました。
ソファで横になったまま、夜を越えていました。
テレビがついていて、朝のニュースが流れていました。
そこに映っていた日付は、元通りになっていました。
三日前ではなく、確かに「今日」でした。
僕はその場で、もう一度家に電話をしました。
すると、普段どおり親が出ました。
いつもどおりの声でした。
僕が黙っていると、親は「どうした」と不思議そうに言いました。
その瞬間、膝が抜けるほど力が抜けました。
結局、周囲の人間からはこう言われました。
「夢でも見たんじゃないか」
深酒のせいだ。
疲れが溜まっていたんだ。
そういうことにしておいた方が、辻褄が合う。
僕自身も、一度はそう思おうとしました。
けれど。
あれは、絶対に夢じゃない。
運転手さんがいた。
真っ暗な路肩があった。
止まった時計があった。
表示されないメーターがあった。
小山市だと言った店員がいた。
聞いたことのない女性の声があった。
そして、戻ってきた朝のニュースがあった。
あの夜、確かに「どこか」に落ちた。
そして、運良く戻ってきただけだ。
今でも、ふとした瞬間に思います。
もし、あの時コンビニの明かりが見つからなかったら。
もし、運転手さんが会社に戻ると言わなかったら。
僕らは、どこへ行っていたのだろう、と。