
母がまだ幼かった頃、ある団地に住んでいた時の話です。
一番上の姉、つまり私にとっての伯母と母が、外へ遊びに行こうとして階段を降りていきました。
その団地の一階入口には、郵便受けが並ぶ壁があり、その向かい側に共用の手洗い場がありました。
そこに、見知らぬオバサンが立っていて、水を流しながら何かを洗うような作業をしていたそうです。
けれど、母はすぐに「おかしい」と感じたと言います。
オバサンは異様に小汚く、紺色のモンペを履いていたのです。
当時ですら、もうモンペを履く人などほとんど見なかった時代でした。
母が挨拶をしても、オバサンは返事をせず、こちらを見ようともしませんでした。
それでも二人は、オバサンの後ろをすり抜けるようにして外へ出ようとしました。
すると、背中の方から低い声で言われたそうです。
「もどれ」
思わず足が止まりました。
その瞬間、母はもう一つの異変に気づいたと言います。
当時は玄関のドアを開け放している家が多く、階段を降りる間も、開いたドアから生活音や子どもの声が聞こえていたはずでした。
ところが、その時に限って、どの部屋からも、何の物音もしなかったのです。
団地全体が、息を止めたように静まり返っていたそうです。
母と伯母が立ち尽くしていると、オバサンは突然、凄い声で怒鳴りました。
「もどれ!!!!」
二人は恐ろしくなり、手をつないで四階の自宅まで駆け上がりました。
途中、廊下を横切る時に見えた光景も、異様だったと言います。
さっきまで開いていたはずのドアが、どの家もきっちり閉まっていたのです。
まるで最初から、団地に誰も住んでいなかったみたいに。
ようやく家にたどり着いてドアを開けると、室内には何の異変もありませんでした。
家族も普段通りで、「どうしたの」と不思議そうな顔をされたそうです。
オバサンの話をしようとしても、喉が詰まってうまく言葉にならなかったと母は言います。
それほど、あの静けさと声が、身体に張りついていたのでしょう。
結局、伯母と母はその出来事を、子どもの頃から大人になるまで一度も口にしなかったそうです。
忘れたわけではなく、思い出すのが怖かったのだと思います。
母が大人になってから、ぽつりと私に言った言葉があります。
「たぶん、あれは異次元みたいなところに足を踏みかけたんやと思う」
そして母は続けました。
「もし世界が急に変になったら、とにかく元にいた場所へ戻りなさい」
誰かが作った教訓ではなく、母が実際に恐怖の中で覚えた、生き方のルールだったのでしょう。
私がこの話を聞いた時、文章以上に背中が冷たくなりました。
助けてくれたのは親切な人だったのか、それとも、何か別のものだったのか。
今でも母は、オバサンの顔をはっきり思い出せないそうです。
ただ、あの声だけは、今も耳の奥に残っていると言います。