分校の黒板

廃校と静かな水面

去年の秋、仕事で瀬戸内の小さな島に渡った。

県の文化財保護課に勤めていて、離島にある石造物の調査が目的だった。人口三十人ほどの島で、定期船は一日二便しかない。日帰りは無理なので、島の集会所に一泊する手はずだった。

港に着くと、漁協の組合長だという七十代の男性が迎えに来てくれた。白髪を短く刈り込んだ、日焼けした顔の人だった。軽トラの助手席に乗せてもらい、島の北側にある石仏群まで案内してもらった。

調査は順調に進んだ。石仏の年代を確認し、写真を撮り、寸法を測った。午後三時には予定していた作業が終わった。

帰り道、組合長の軽トラで集落に戻る途中、山の中腹に灰色の建物が見えた。コンクリート造りの、小さな二階建て。窓ガラスが何枚か割れていて、壁には蔦が絡んでいた。

「あれ、学校ですか」

何気なく聞いた。組合長はハンドルを握ったまま、少し間を置いて答えた。

「分校の跡や。三十年以上前に閉めた」

文化財調査の一環で、廃校の建物を記録に残すこともある。近くまで行ってみたいと言うと、組合長の表情が変わった。

「あそこはやめとき」

それだけ言って、アクセルを踏んだ。

集会所に荷物を置いてから、一人で島を歩いた。夕方の便は出た後で、明日の朝まで島から出られない。時間は十分にあった。

集落は港の周辺に固まっていて、十分も歩けば端まで行ける。石垣の間を猫が歩き、どこかで鶏が鳴いていた。穏やかな島だった。

坂道を上っていくと、さっきの廃校が見えてきた。近くで見ると、思ったより大きい。正面の入口は錆びた鉄柵で塞がれていたが、裏手に回ると、引き戸が半開きになっていた。

入るなと言われたのは覚えている。だが、建物の状態を確認するのは仕事の延長だと自分に言い聞かせた。スマホのライトをつけて、中に入った。

一階は廊下と教室が二つ。床は埃まみれだったが、崩落している様子はなかった。机や椅子は撤去されていて、がらんとした空間だけが残っていた。

二階に上がった。階段は木造で、踏むたびにぎしぎしと軋んだ。二階にも教室が二つ。手前の教室は一階と同じく空っぽだったが、奥の教室は違った。

黒板が残っていた。

他のものはすべて撤去されているのに、黒板だけがそのまま壁にかかっていた。チョーク受けにはチョークの粉が白く溜まっていた。

黒板には文字が書かれていた。

白いチョークで、丁寧な筆跡だった。崩れてはいるが、読めた。

「うみに かえします」

ひらがなだった。子どもの字ではなく、大人が書いたひらがなだった。その不自然さが妙に引っかかった。

黒板の下に、何かが置いてあった。しゃがんで見ると、小さな石だった。灰色の、掌に乗るくらいの丸い石。よく見ると表面に赤い染みのようなものがあった。ペンキのようにも見えたし、もっと別のもののようにも見えた。

写真を撮ろうとスマホを構えた瞬間、背後で音がした。

コツ、コツ、コツ。

階段を上がってくる足音だった。

振り返ると、組合長が立っていた。顔は逆光で暗かったが、声でわかった。

「入ったか」

責めるような口調ではなかった。むしろ、予想していたかのような静かさだった。

「すみません、つい——」

「石を触ったか」

「いえ、触ってません」

組合長は少し肩の力を抜いて、黒板の前まで歩いてきた。文字を見上げて、しばらく黙っていた。

「この島には昔、もっと子どもがおった。六十人くらい。この分校にも二十人は通っとった」

組合長は壁にもたれて、ゆっくり話し始めた。

「四十年くらい前に、子どもが一人、海で死んだ。岩場で遊んどって、波にさらわれた。まだ八つやった」

その子は海辺で石を拾うのが好きだったという。変わった模様や色の石を見つけては、教室に持ってきた。先生も最初は許していた。

「けどな、この島には昔から言い伝えがあった。浜の石を持ち帰ったらあかん、と。海のもんは海に返さんと、海が怒る」

子どもが死んだ後、島の年寄りたちはそれを言い伝えの通りだと言った。親は反論したが、島を出ていった。分校の生徒はそれから急に減り、数年後に閉校になった。

「先生が最後の日に書いたんや、それ」

組合長は黒板の文字を指した。

「うみに かえします」

先生はその子が集めた石をすべて浜に返しに行った。だが一つだけ、どうしても見つからなかった。あの子が一番気に入っていた、赤い模様のある石。

「それがこれや」

組合長は黒板の下の石を顎で示した。

「十年くらい前に、校舎の裏の排水溝から出てきた。たぶん誰かが隠しとったんやろ。先生はもうとっくにおらんかった」

「なぜ浜に返さないんですか」

組合長は少し黙ってから言った。

「返そうとした者がおった。三人な。三人とも、浜で足を滑らせて怪我した。一人は足の骨を折った」

それ以来、誰も石に触れなくなった。黒板の文字はそのままにしてある。あの子のための言葉だから消せない。石もそのまま置いてある。返すこともできず、持ち出すこともできない。

「だから、入るなと言うたんや」

集会所に戻り、布団に入ったが眠れなかった。波の音が聞こえていた。穏やかな音だった。それなのに、耳を澄ませていると、波の合間に別の音が混じるような気がした。

コツ、コツ、コツ。

あの階段の足音に似た、硬い音。石と石がぶつかるような音。

気のせいだと思おうとした。だが、朝まで続いた。

翌朝、港で船を待っていると、組合長が来た。缶コーヒーを一本くれた。

「寝られたか」

「あまり」

組合長は海を見ていた。穏やかに凪いだ、朝の瀬戸内海だった。

「音がしたやろ」

俺は黙ってうなずいた。

「あの子、まだ石を拾うとるんかもしれん」

船が来た。俺はタラップを上がり、甲板からあの島を見た。山の中腹に、灰色の建物がかすかに見えた。

あの黒板の前に、あの石はまだ置かれているのだろう。返すことも、持ち出すことも、消すこともできないまま。

船が港を離れ、島が小さくなっていった。海は静かだった。

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