兄の言伝

電話越しの闇の影

深夜の1時過ぎに知らない番号からの着信があった。

その時間にかかってくる電話は、まず良いことじゃない。営業でも友人でも近所の人間でもない。俺は布団の中でスマートフォンの画面を眺めながら、しばらくそのまま鳴らしておいた。

結局、通話ボタンを押したのは、何となく胸騒ぎがしたからだ。仕事の急用かもしれないと思ったわけでもない。ただ、出ないといけない気がした。

「もしもし」

沈黙があった。数秒間、息遣いも聞こえない静けさが続いた後、低くかすれた老婆の声が聞こえた。

「……田中くんでしょう」

ぎょっとした。田中は俺の名字だ。でもその声の調子が妙だった。問いかけのようでいて、確認のようでもあった。長年の付き合いのある人間が、久しぶりに連絡を取るような、懐かしむような温度感があった。

「どちら様ですか」

「田中くんのことが気になって。写真を持ってるの、あなたの」

意味が分からなかった。見知らぬ老婆が、深夜に俺の写真を持っているという。

「人違いじゃないですか。何の写真ですか」

「ちがうわ。田中道彦くんでしょ」

フルネームだった。

氏名を正確に、一字も違わず言い当てた。

慌てて電話を切った。着信履歴に残った番号は、見たことのない市外局番だった。検索してみたが何も引っかからない。しばらく眠れなかった。

翌日も、その翌日も、同じ番号から着信があった。俺はすべて無視した。

三日後、別の番号からかかってきた。仕事の電話かと思って出てしまった。

「田中くん、なぜ出てくれないの」

同じ声だった。

「あの……本当に人違いだと思うんですが」

「ちがうわ。あなたのことは小さい頃から知ってるの。お母様の旧姓、大倉でしょう」

電話を握る手に力が入った。

母の旧姓は大倉だ。母は結婚前の名前をほとんど人に話さない。俺が職場や友人に教えたこともない。それどころか、戸籍や古い書類でもないと確認できないような情報だった。

「……誰なんですか、あなた」

「ちゃんと会って話したいのよ。田中くんのお兄さんに頼まれたから」

電話が切れた。

兄がいるという話を、俺は聞いたことがない。

一人っ子として育ったし、親戚の集まりでも、両親の口からそういった話が出たことは一度もなかった。何かを隠しているふうには、少なくとも俺の目には映らなかった。

でも、あの老婆の声には確信があった。混乱しているとか、別の人間と取り違えているとか、そういう様子ではなかった。俺のことを知っていて、俺に伝えたいことがあって、電話してきた。その意図が、声のトーンからはっきり伝わってきた。

怖かった。正直に言えば、かなり怖かった。

それでも母に電話した。用件を遠回しに、老婆から連絡があったこと、兄の話をされたことを伝えると、母はしばらく黙った。

「……実は、あなたの前に一人いたのよ」

低い声だった。

「男の子だった。生まれてすぐに逝ったの。道彦の二つ上だから、もし生きていれば二十九になるわね」

「なんで今まで」

「傷つけたくなかったから。それに……あなたに関係のあることじゃないと思ってたから」

電話を切ってから、ずっと天井を見ていた。

一人っ子だと思っていた。それが揺らいだ感覚は、悲しさとも怖さとも少し違う、うまく言葉にならないものだった。

深夜、また着信があった。番号がまた違う。

出た。

「田中くん、連絡してたのね」

同じ老婆の声だった。

「あなたは誰なんですか。なぜ俺のことを知ってるんですか」

老婆は少し間を置いてから、ゆっくりと話した。

「お兄さんはね、ずっとあなたのそばにいたって言ってたの。生まれた時からずっと。だから一度だけ、言葉を伝えてほしいって。私に頼んできたのよ」

「……何を伝えるために」

「ちゃんと生きてきたね、って」

電話はそれで切れた。

コール音も終わりの言葉もなく、ただ静かになった。

それ以来、電話はかかってこない。

老婆が誰だったのか、なぜ俺の名前を知っていたのか、どうやって母の旧姓を知ったのかは分からないままだ。会いに行こうと思ったこともあったが、番号を調べても何も出てこないままだった。

ただ、あの電話から少し経った後、実家に戻った時に母に古いアルバムを見せてもらった。

俺の幼い頃の写真が並んでいる中に、一枚だけ不思議な写真があった。三歳くらいの俺が公園の砂場で遊んでいる写真で、横に誰か一緒に座っているような人影に見える影がある。でも周りに誰もいないはずの場面だったらしく、母も「この時、あなたひとりだったのに」と首をかしげていた。

俺には幼い頃から、ひとりでいても「大丈夫」と感じる瞬間が不思議とあった。

あれが何だったのか、あの電話の後から、少しだけ分かった気がしている。

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