
深夜の1時過ぎに知らない番号からの着信があった。
その時間にかかってくる電話は、まず良いことじゃない。営業でも友人でも近所の人間でもない。俺は布団の中でスマートフォンの画面を眺めながら、しばらくそのまま鳴らしておいた。
結局、通話ボタンを押したのは、何となく胸騒ぎがしたからだ。仕事の急用かもしれないと思ったわけでもない。ただ、出ないといけない気がした。
「もしもし」
沈黙があった。数秒間、息遣いも聞こえない静けさが続いた後、低くかすれた老婆の声が聞こえた。
「……田中くんでしょう」
ぎょっとした。田中は俺の名字だ。でもその声の調子が妙だった。問いかけのようでいて、確認のようでもあった。長年の付き合いのある人間が、久しぶりに連絡を取るような、懐かしむような温度感があった。
「どちら様ですか」
「田中くんのことが気になって。写真を持ってるの、あなたの」
意味が分からなかった。見知らぬ老婆が、深夜に俺の写真を持っているという。
「人違いじゃないですか。何の写真ですか」
「ちがうわ。田中道彦くんでしょ」
フルネームだった。
氏名を正確に、一字も違わず言い当てた。
慌てて電話を切った。着信履歴に残った番号は、見たことのない市外局番だった。検索してみたが何も引っかからない。しばらく眠れなかった。
※
翌日も、その翌日も、同じ番号から着信があった。俺はすべて無視した。
三日後、別の番号からかかってきた。仕事の電話かと思って出てしまった。
「田中くん、なぜ出てくれないの」
同じ声だった。
「あの……本当に人違いだと思うんですが」
「ちがうわ。あなたのことは小さい頃から知ってるの。お母様の旧姓、大倉でしょう」
電話を握る手に力が入った。
母の旧姓は大倉だ。母は結婚前の名前をほとんど人に話さない。俺が職場や友人に教えたこともない。それどころか、戸籍や古い書類でもないと確認できないような情報だった。
「……誰なんですか、あなた」
「ちゃんと会って話したいのよ。田中くんのお兄さんに頼まれたから」
電話が切れた。
※
兄がいるという話を、俺は聞いたことがない。
一人っ子として育ったし、親戚の集まりでも、両親の口からそういった話が出たことは一度もなかった。何かを隠しているふうには、少なくとも俺の目には映らなかった。
でも、あの老婆の声には確信があった。混乱しているとか、別の人間と取り違えているとか、そういう様子ではなかった。俺のことを知っていて、俺に伝えたいことがあって、電話してきた。その意図が、声のトーンからはっきり伝わってきた。
怖かった。正直に言えば、かなり怖かった。
それでも母に電話した。用件を遠回しに、老婆から連絡があったこと、兄の話をされたことを伝えると、母はしばらく黙った。
「……実は、あなたの前に一人いたのよ」
低い声だった。
「男の子だった。生まれてすぐに逝ったの。道彦の二つ上だから、もし生きていれば二十九になるわね」
「なんで今まで」
「傷つけたくなかったから。それに……あなたに関係のあることじゃないと思ってたから」
電話を切ってから、ずっと天井を見ていた。
一人っ子だと思っていた。それが揺らいだ感覚は、悲しさとも怖さとも少し違う、うまく言葉にならないものだった。
※
深夜、また着信があった。番号がまた違う。
出た。
「田中くん、連絡してたのね」
同じ老婆の声だった。
「あなたは誰なんですか。なぜ俺のことを知ってるんですか」
老婆は少し間を置いてから、ゆっくりと話した。
「お兄さんはね、ずっとあなたのそばにいたって言ってたの。生まれた時からずっと。だから一度だけ、言葉を伝えてほしいって。私に頼んできたのよ」
「……何を伝えるために」
「ちゃんと生きてきたね、って」
電話はそれで切れた。
コール音も終わりの言葉もなく、ただ静かになった。
※
それ以来、電話はかかってこない。
老婆が誰だったのか、なぜ俺の名前を知っていたのか、どうやって母の旧姓を知ったのかは分からないままだ。会いに行こうと思ったこともあったが、番号を調べても何も出てこないままだった。
ただ、あの電話から少し経った後、実家に戻った時に母に古いアルバムを見せてもらった。
俺の幼い頃の写真が並んでいる中に、一枚だけ不思議な写真があった。三歳くらいの俺が公園の砂場で遊んでいる写真で、横に誰か一緒に座っているような人影に見える影がある。でも周りに誰もいないはずの場面だったらしく、母も「この時、あなたひとりだったのに」と首をかしげていた。
俺には幼い頃から、ひとりでいても「大丈夫」と感じる瞬間が不思議とあった。
あれが何だったのか、あの電話の後から、少しだけ分かった気がしている。