
父が入院した、という連絡を受けたのは、梅雨の終わりかけの週末だった。
大したことはない、と父本人は言った。胃の調子が悪くて念のため検査入院しただけだ、と。でも母の声が妙に沈んでいたので、翌朝の新幹線で実家のある兵庫に向かうことにした。
実家に着いたのは昼前だった。病院に顔を出し、父が思ったよりずっと元気そうなのを確認して、少しだけ安心した。午後は母と二人で実家に戻り、夕食の準備を手伝いながら他愛ない話をした。
翌朝、目が覚めた瞬間に、妙なことを思い出した。
幼い頃、よく商店街に連れて行ってもらっていた。父の実家から歩いて五分ほどの三丁目にあった小さな商店街で、入り口に魚屋があって、奥の方にクリーム色のパン屋があった。そこのあんパンが好きだった。硬めのパン生地の中にあんこがぎっしり詰まっていて、百円だったか、百二十円だったか。子供の自分には、あれが世界で一番美味しい食べ物だった。久しぶりに食べたいな、と思ってスマホで地図を開いた。
三丁目の住所を調べると、普通の住宅地しか出てこなかった。
記憶違いかと思い、「三丁目 商店街」で検索してみた。何もヒットしない。近くの別の商店街の情報が出てくるだけで、自分が覚えているような通りは出てこなかった。
朝食の席で母に聞いてみた。「三丁目に商店街があったよね。あんパンを買ってくれたところ」
母は首をかしげた。「三丁目?そんな商店街、あったかしら」
父は病院にいるので聞けないが、記憶の中では父に連れて行ってもらった気がする。でも母は覚えていないという。そういうこともあるかと思い、その話は一度打ち切った。
※
午後、暇を持て余して、スマホの写真アプリを古い方向にスクロールしていた。幼い頃の写真をデータ化してアルバムアプリに入れていたはずで、探すと出てきた。小学校二年生の運動会、祖母の誕生日会、そして——。
「魚屋の前にて」と手書きで書いてある写真があった。
写真の中の自分は七歳くらいで、ちょうど日曜日らしく人が賑わっている通りの前に立って笑っている。背後にはっきりと「三丁目鮮魚」という看板が見える。その隣には金物屋らしき店、その奥に人が並んでいる。
間違いなく商店街があった。
写真を母に見せると、母は黙った。しばらく写真を見て、「そうねえ」とだけ言った。覚えていないのか、覚えているのに言わないのか、表情からは読み取れなかった。それ以上追及することができず、スマホを閉じた。
※
その日の夕方、散歩がてら実際に三丁目まで歩いてみた。
地図の通り、そこには普通の一戸建てが並んでいた。空き地もなく、更地もない。昔から住宅地だったかのような、整然とした景色だった。写真と同じ場所を探したが、魚屋があったはずの場所には築二十年以上はありそうな家が建っていた。解体された形跡もない。道路の幅も、アーケードが通っていたような広さではない。普通の路地だった。
どこかで記憶が作られたのだろうか、と思いかけた。でも写真がある。写真は嘘をつかない。
引き返す途中、古い家の前に縁側があり、白髪の老婆が座っているのが見えた。何となく声をかけた。
「すみません。三丁目に商店街ってありましたよね」
老婆は顔を上げた。しわだらけの顔に、一瞬だけ、何かが走った。
「ああ、三丁目の商店街ね」老婆は当然のように言った。「あったよ、あったよ。あんパンが美味しくてねえ」
思わず「やっぱり」と声が出た。しかし老婆は次の瞬間、急に静かになった。
「あなた、なんでそれを覚えてるの」
問い返すような口調ではなく、心底不思議そうな声だった。
「子供の頃に行ったんです。写真も残ってて」と言うと、老婆は少し眉をひそめた。
「写真が残ってる人は初めてだよ」老婆はゆっくりとそう言った。
「消えたのは、もう三十年ほど前のことだよ」老婆は続けた。「ある冬の朝に目が覚めたら、なくなってた。取り壊されたんじゃないよ。朝になったら、最初からなかったみたいになってた。地面も、家が建ってた。あの晩に何があったか、誰も知らない」
「それって——」
「みんな、忘れた」老婆は続けた。「最初は騒いだよ。あそこの商店街が消えた、どういうことだって。でも不思議なことに、日が経つにつれてみんな忘れていくんだよ。半年もしたら、ほとんど誰も覚えていなかった」
老婆は自分の手を見た。日焼けして、節くれ立った指だった。
「私は長いこと覚えてた。でも最近ね、夫の顔が思い出せなくなってきた。夫は十五年前に死んでるのに、顔が出てこない。声も思い出せない。覚えてるのは名前だけ」
「それは歳のせいじゃ——」
「写真を見ても思い出せないんだよ」老婆は静かに言った。「忘れていく順番がおかしい。商店街のことを覚え続けていると、他のものが消えていく気がしてる。あなた、そんなに昔のことを覚えてるなら、大切なものをちゃんと確かめておいた方がいいよ」
※
その夜は笑い飛ばそうとした。老婆の思い込みだろう。記憶が混乱しているだけだろう。そう自分に言い聞かせながら、父が入院している病院に電話した。父の声は元気そうだった。少し安心した。
翌朝、東京に戻る前に職場に一本連絡しようと思い、会社の代表番号にかけた。
「はい、○○株式会社です」
「お疲れ様です、営業部の田中ですが——」
「田中様?営業部に田中という者はおりませんが、別の部署でしょうか」
笑い声を出しかけて、止まった。
「あの、田中裕二です。中途で入って三年になりますが」
「確認してもよろしいでしょうか。少々お待ちいただけますか」
保留音が流れた。三分ほどして、先ほどとは別の女性の声になった。「お待たせしました。申し訳ございませんが、田中裕二という社員は、弊社には在籍しておりません」
電話を切った後、しばらく動けなかった。
今、急いでこれを書いている。誰かに読んでほしい。あの商店街のことを。まだ覚えているうちに。