
父が急逝したのは、三年前の冬のことだった。
私は当時、愛媛の地方都市でサラリーマンをしていた。実家の漁業は父が一人でやっていたから、後を継ぐとなったとき、正直なところ戸惑いしかなかった。でも他に選択肢がなかった。一人息子の私が継がなければ、父が三十年かけて守ってきた漁場と漁船が消えてしまう。
妻と子供を連れて実家に戻り、地元の漁師仲間に教わりながら、なんとか三年を生き抜いた。
漁師の仕事は思ったより頭を使う。天気の読み方、潮の流れ、船のエンジンのクセ。父が毎日当たり前のようにこなしていたことが、どれほど深い経験に裏打ちされていたか、継いでみて初めてわかった。父のことを誰よりも近くで見てきたつもりだったのに、私はほとんど何も知らなかった。
だから父の言葉は、死んでからのほうが多く届く気がする。手帳の文字として、仲間の思い出話として、そして時折、港の風の中に。
※
その声を聞いたのは、去年の秋のことだ。
十月の終わりごろ、翌日の出漁に備えて防波堤で網の点検をしていた。日が落ちるのが早くなっていて、夕暮れの橙色がすでに水平線の下に消えかけていた。港に残っているのは私だけで、仲間の漁師はとっくに帰っていた。
潮の臭いと軽油の臭いが混ざり合う中で、ひとりもくもくと作業をしていると、背後から声が聞こえた気がした。
「明日は出るな」
振り返っても、誰もいなかった。港の入口のほうまで目を凝らしたが、人影はない。防波堤の先も、船着き場の陰も、どこにも誰もいなかった。
波の音が風に乗って変な聞こえ方をしたのかもしれない。でも私の心臓は、それとは違う理由でどきりとしていた。
その声が、父に似ていたからだ。
父は口数が少ない人だった。重要なことをぽつりと短く言う人で、「明日は出るな」なんて言い方は、いかにも父らしかった。私が幼いころ、台風が来る前に父が同じような口調で釣りを止めさせた記憶がある。あのときと同じ声だった。
立ち尽くしたまましばらく港を見渡したが、やはり誰もいない。波音だけが続いていた。
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家に戻って天気予報を確認した。翌日は晴れで、風速三メートル以下の穏やかな一日になるとのことだった。漁を休む理由は何もなかった。むしろ、こんな好天を逃すのはもったいないくらいの予報だった。
それでも私はその夜、仲間の和田さんに連絡した。「明日、体の具合が悪くて休む」と伝えた。声のことを話せなかった。あんなことを言えば、変なやつだと思われるだけだ。あるいは、父を亡くしたショックでおかしくなったと心配させてしまうかもしれない。
その夜はよく眠れなかった。あれは何だったのか、頭の中でぐるぐると考え続けた。疲れが溜まって幻聴でも聞こえたのか、それとも本当に父が何かを伝えに来たのか。どちらとも決めることができないまま、夜明けを迎えた。
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翌朝、目が覚めたとき、雨戸がガタガタと鳴っていた。
窓を開けると、空が真っ黒だった。低く垂れ込めた雲が、海の方から猛烈な速さで迫ってきていた。ラジオをつけると、気象庁が午前五時に発表した緊急気象情報が流れていた。南から発達した低気圧が急接近し、沿岸部では最大瞬間風速二十五メートルに達する可能性があるという内容だった。
港に目をやると、漁に出ていた船が急いで戻ってきているのが見えた。
和田さんから電話があったのは午前七時すぎだった。
「お前、昨日休んで正解だったわ。俺らは途中で引き返したけど、田中さんの船がえらい目に遭った。転覆はしなかったけど、波を被って機関が止まったらしい。沖合でしばらく漂流したって。助けに行った船もあったが、あの海ではみんな必死だったわ」
田中さんは五十年近い漁師キャリアを持つ、この港で一番の古株だ。その田中さんですら手を焼いた嵐だった。
「それにしても、なんで昨日から休みにしたんや。天気予報、晴れやったやろ」
私は黙った。なんと答えていいかわからなかった。「なんとなく気が乗らなくて」と言い訳したが、和田さんは「ふうん」と言っただけで、深くは追求しなかった。
※
その年の暮れ、実家の物置を整理していたら、父の古い手帳が出てきた。日付も名前も書いていない、黒い表紙のノートだった。
ページをめくっていくと、父の几帳面な字で漁場ごとのメモが書き込まれていた。潮の流れ、魚の付き方、季節ごとの注意点。長年の経験が、淡々とした文章で記録されていた。
ある頁に、こんな一文があった。
「十月末から十一月頭にかけて、南からの低気圧が来る前は、夕方の港の空気の臭いが変わる。少し甘くなる。そういう日の翌朝は出ないほうがいい」
私は声を出せなくなった。
あの夕方、防波堤に立っていたとき、確かに何かが違う気がした。潮の臭いの中に混じった、普段と違う甘いような重さ。それを私の体がどこかで感じ取って、父の声として聞こえたのだろうか。三年かけて少しずつ染み込んできた漁師としての感覚が、あの瞬間に言葉になって出てきたのだろうか。
それとも本当に父が言いに来たのだろうか。
手帳を胸に抱えて、しばらく物置の前に立ち尽くしていた。外は冬の風が吹いていて、波音が遠くから聞こえていた。
※
今でも答えは出ていない。
ただ、あの声を聞いてから、私は毎日の風の臭いを意識するようになった。漁師の体というのは、言葉にできないものを知っている。父はそれを三十年かけて覚え、手帳に書き留めていた。私はまだ三年しか経っていない。
いつかあの手帳を全部読み終えたとき、私はどれだけ父に近づいているだろう。そして次にあの声を聞いたとき、私はどんな臭いを感じているだろう。
それが少し楽しみでもあり、怖くもある。