
私は小学二年生の頃、経営住宅のような団地に住んでいました。
土日になると、敷地内の公園で友達と日が暮れるまで遊ぶのが当たり前でした。
あの日も夏の夕方で、空が暗くなってきたので「そろそろ帰ろう」と解散になりました。
私の家はA棟とB棟があるうちのB棟で、部屋は402号室でした。
私は確かにB棟の入口から入り、エレベーターで四階へ上がりました。
廊下を歩き、いつもの位置で曲がり、いつもの扉の前に立ちました。
表札も部屋番号も、間違いなく402号室でした。
※
ところが、その家は玄関のドアが開いていました。
夏だから風を通しているのかと思いましたが、扉の上に、朝にはなかった暖簾のような布が掛かっていました。
布には難しい漢字が書いてあり、子どもの私には読めないのに、なぜか目だけが引っかかりました。
うちの両親は模様替えが好きで、しょっちゅう何かを変えていたので、「また何かやったのかな」と思いました。
靴がやたらと並び、家の中から笑い声も聞こえてきました。
来客なら小遣いがもらえるかもしれない、と子どもっぽい期待まで浮かびました。
私は勢いよく中に入り、「ただいまー!」と叫びました。
その瞬間、笑い声がすっと消え、家の中がありえないほど静かになりました。
私はもう一度、「ただいまー!」と言いながら居間の方へ進みました。
すると、そこにいたのは、人ではありませんでした。
黒い靄のような影がいくつも重なり、輪郭は曖昧なのに、目だけがはっきり浮いていました。
その目が、全部こちらを見ていました。
視線だけが、音も匂いもない部屋に突き刺さってくる感じでした。
私は呼吸が止まり、次の瞬間には踵を返して外へ飛び出していました。
※
廊下に出て震えながら部屋番号を見ましたが、やはり402号室でした。
「棟を間違えたんだ」と思い、階段を駆け下りて外へ出ました。
建物の表示を見ても、そこはB棟でした。
周囲を見回しても、人がいませんでした。
夏なのに虫の声すら聞こえず、一階の部屋から生活音もせず、車の走る音もありませんでした。
音という音が、世界から丸ごと抜け落ちたみたいでした。
西の空だけが赤紫に染まり、夕焼けというより、知らない場所の照明みたいに不自然でした。
怖くて、涙が勝手に出てきました。
それでも外にいる方がもっと怖くなり、私はもう一度、自分の家へ向かいました。
今度は扉が閉まっていました。
私は息を殺すようにして、ゆっくりドアを開けました。
暖簾は、ありませんでした。
玄関の雰囲気も、靴の並びも、全部いつもの家でした。
「ただいまー」と小さな声で言うと、母が出てきて、「何してたの!遅いじゃない!」と怒りました。
その怒鳴り声が、あまりに現実的で、私はそこでようやく体の力が抜けました。
説明しようとしても、うまく言葉になりませんでした。
結局、「なんか変だった」としか言えず、母は「疲れてるのよ」で済ませました。
※
あれから何年も経ちましたが、今でも思い出すと胸の奥が冷えます。
部屋番号も棟も合っていたこと。
漢字の暖簾が、確かにそこにあったこと。
家の中の目が、こちらを見ていたこと。
そして何より、世界から音が消えたあの静けさが、夢の感触ではないこと。
もしあの時、私が家の中へもう一歩踏み込んでいたら。
私は、ちゃんと戻ってこれたのだろうか。