
あれは去年の秋、十月の半ばを過ぎた頃だったと思う。
夜中の二時を回った頃、俺は山間部を縫う国道を長距離トラックで走っていた。積み荷は翌朝までに北部の物流センターへ届けなければならず、峠越えのルートは三年前から何十回と走った道だ。慣れた道のはずなのに、その夜に限っては霧が濃かった。
ヘッドライトの光が白い壁にぶつかるように散って、路肩の白線だけが頼りだった。速度を落とし、ギアを落とし、それでもカーブのたびに得体の知れない緊張が胸に積み重なった。ラジオはいつの間にかノイズだけになっていて、気づいた時には音を切っていた。エンジンの低い唸りと、タイヤが湿った路面を噛む音だけが車内に満ちていた。
眠いわけではなかった。むしろ変な息苦しさがあった。山のせいだと思っていた。気圧か、霧のせいか。とにかく峠を越えるまでの辛抱だと言い聞かせて走っていた。
ちょうど峠の頂上を過ぎた辺りの右カーブを曲がったとき、前方に橙色の灯りが見えた。
ドライブインだった。
山道には似つかわしくない、昔ながらの建屋に、軒先に赤い提灯が三つ並んでいた。窓ガラス越しに電灯の明かりが灯り、「食堂」と書かれた看板が白く浮かんでいた。駐車場の砂利に、大型トラックが二台止まっていた。こちらとほぼ同型の、四トン車だ。
どこかで一度休んでいくつもりだったし、あの霧の中を無理に走り続ける気にもなれなかった。俺は広い場所を選んでトラックを止め、財布だけポケットに入れて引き戸を開けた。
※
中は思いのほか広かった。カウンターが六席ほど、奥にテーブル席がいくつか。入ったとたん、古い木材とタバコが混ざったような独特の匂いがした。
「いらっしゃい」と低い声がした。カウンターの奥、流し台のそばに年配の女性が立っていた。白い割烹着を着て、こちらを見ていた。笑ってはいなかったが、怖い顔でもなかった。ただ静かに立っていた。
テーブル席に、男が二人いた。どちらも作業着姿で、うどんを食べていた。俺が入ってきてもちらりと目を向けただけで、すぐに下を向いた。ふたりとも、ひとことも喋らなかった。
俺はカウンターに座り、コーヒーを頼んだ。「お疲れさん」と女将さんは言い、少し間を置いてから白いカップを出してくれた。湯気が立っていた。ちゃんと温かかった。
一口飲みながら、ぼんやりと店内を眺めた。壁には古い観光地のポスターが二枚。電話台の上に置き時計があって、秒針が動いていた。奥の柱に農協系のカレンダーが貼ってあった。十月のページが開いていて、日付が大きく印刷されていた。そのカレンダーの下、一番小さな文字で年号が刷られていた。元号だと思ったが、数字がどこかおかしかった。じっと見ようとしたとき、女将さんが俺の空になりかけたカップに手を伸ばして、「もう一杯いる?」と言った。俺は「いや、結構です」と答え、カレンダーから目が離れた。
テレビが壁の高い位置に設置されていた。画面では男性のアナウンサーがニュースを読んでいたが、画面の隅に局名のロゴが見当たらなかった。テロップも字体がどこか見慣れない気がしたが、眠気のせいかもしれないと思い、深く考えなかった。
二人の男は最後までひと言も喋らなかった。食べ終わった丼を前に置いたまま、どちらも動こうとしなかった。
コーヒーを飲み干して立ち上がり、財布から五百円玉を出した。「いくらですか」と聞くと、「ちょうどよ」と女将さんは言った。釣りはなかった。「気をつけてな」と言われたのを最後に、俺は引き戸を押して外へ出た。
※
霧は少し薄くなっていた。時計を確かめると、入ってからおよそ二十分が経っていた。
スマートフォンに目をやった瞬間、おかしいと思った。妻からの着信が五件あった。いちばん古い着信は、一時間以上前からだった。
峠に入る前、俺は妻に「今から山越えに入る」とメッセージを送っていた。それはトラック内のスマホの画面にも履歴として残っていた。しかし着信履歴の時刻を確認すると、そのメッセージを送った直後から電波が途絶えていたことになる。店の中では誰もスマホを触っていなかったし、俺自身も何もしていない。二十分の間に、一時間以上が経っていた計算になる。
すぐに妻に折り返すと、「何度かけても出ないから心配した」という声が返ってきた。「ずっと圏外になってたみたい」と言われた。俺は「少し仮眠を取ってた」と答えた。それ以上、説明する言葉が見つからなかった。
翌月、同じルートを走ったとき、俺はあのカーブを意識しながら走った。峠を越えた先、右カーブを抜けたところ。砂利の駐車スペースがあったはずの場所。しかしそこには建物がなかった。砂利は残っていたが、草が根を張っていた。軒先どころか、基礎らしきものもない。ただの空き地だった。
後日、同僚の先輩ドライバーにそれとなく話すと、「ああ、あそこか」と言った。
「昔、あの峠の下り口に食堂があったんだよ。俺が駆け出しの頃はよく使ったな。二十年以上前に火事で焼けたんだ。それ以来、ずっと更地のはずだけど」
俺はその言葉をどう受け取ればいいかわからなかった。
あの夜のコーヒーの温度は、今でもはっきりと覚えている。湯気が立ち、白いカップが少し熱かった。五百円玉を出したとき、女将さんの指先が冷たかった。それだけは妙にはっきりしている。
あの二人の男は、今もあそこでうどんを食べているのだろうか。