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205号室からの音

廊下

三ヶ月前に越してきたアパートは、築三十年の古い建物だった。

フリーライターとして在宅で仕事をしている私には、静かな環境が何より大切だ。内見のとき、昼間の廊下がひっそりしていたことと、家賃が近所の相場よりだいぶ安いことで、二つ返事で決めた。二階建ての二階、部屋番号は204号室。廊下の端から二番目で、突き当たりが205号室だった。

越してきた日、向かいの部屋の女性に挨拶をした。六十代くらいの、物静かな方だった。「静かなところですよ」と言って少し微笑んだのを、あの時は額面通りに受け取っていた。

最初に気づいたのは、引越しから一週間後のことだった。

夜の十時を少し過ぎた頃、廊下から足音が聞こえた。ゆっくりとした、落ち着いた歩調で、外廊下をこちらに近づいてくる。そして隣の扉が開く音。少し間があって、閉まる音。それだけだった。

別に不思議なことではない。人が帰宅しただけだ。ただ、その音がその後も毎晩、判で押したように同じ時刻に聞こえてくることに、二週間後に気がついた。

私はスマートフォンのメモ帳に記録をつけ始めた。フリーライターの習性で、気になることはすぐ記録する。

10月3日 22:04 足音・ドア開閉
10月4日 22:01 足音・ドア開閉
10月5日 22:03 足音・ドア開閉
10月6日 22:02 足音・ドア開閉
10月7日 22:04 足音・ドア開閉

一分か二分の誤差はあるが、毎晩必ず聞こえる。休日も、雨の日も、例外なく。台風の夜でさえ、22:00をわずかに過ぎた頃に、あの足音は聞こえた。

几帳面な人なんだなと、そのときは思った。

一ヶ月ほど経った頃、廊下で管理会社の担当者と鉢合わせた。定期点検に来ていたらしい。ちょうど良い機会なので、隣室のことを聞いてみた。

「205号室の方、夜遅くに帰宅されることが多いみたいで。足音がよく聞こえるんですが、生活音なので問題はないんですけど」

担当者は少し首をかしげた。

「205号室ですか? あそこは……一年半ほど空室のはずですが」

「えっ」

「入居者の方が退去されてから、ずっと空いているんです。なかなか借り手がつかなくて」

なぜ借り手がつかないのか。そこまでは聞けなかった。担当者は少し気まずそうな顔をして、「何かご不便なことがあればご連絡ください」と言い残して帰っていった。

その夜、私は仕事が手につかなかった。机に向かってパソコンの画面を見ていたが、何も書けなかった。

二十二時になった。廊下から足音が聞こえた。ゆっくりと近づいてくる。扉が開く音。少し間があって、閉まる音。

いつもと変わらない音だった。

私は立ち上がり、ドアスコープから廊下を覗いた。誰もいなかった。廊下の蛍光灯が白く廊下を照らしているだけで、205号室の前にも、どこにも、人の姿はなかった。

翌日、向かいの部屋の女性に話しかけてみた。

「205号室のこと、ご存じですか」と聞くと、女性はしばらく黙った後、「ご存じなかったの」と言った。その言葉の含みが少し重かった。

「一年半前に、そこに住んでいた方が……」

続きは聞かなくても、わかった。

「発見が少し遅かったみたいで、それから空室になっているんです。管理会社が何度かリフォームを試みたけれど、なかなか入居希望者がなくて。あなたが越してきたとき、正直、教えた方がいいかどうか迷ったんです」

私は少し間を置いてから、「その方は、仕事から帰るのが遅い方でしたか」と聞いた。

女性は少し驚いた顔をした。

「ええ。毎晩十時頃に帰ってらして。几帳面な方でね、本当にいつも同じ時刻に。それが急にぱたっと帰ってこなくなって、気になってはいたんですけど……」

女性は言葉を切った。私も何も言えなかった。

それからも、音は続いた。

私は怖いとは思わなかった。正確に言えば、怖いとも怖くないとも判断できなかった。二十二時になると廊下から足音がして、扉が開いて、閉まる。それが毎晩の決まりごとになっていた。むしろその音がないと、何か落ち着かないような気すらしてきていた。

誰かがまだそこに帰ってきている。あるいは、帰ってくる習慣だけが残っている。どちらが正しいのかは、わからない。ただ、その音を聞くたびに、私は少しだけ窓の方を向くようになっていた。廊下側の窓を通して、誰かが見えるような気がして。

もちろん、いつ見ても、廊下には誰もいなかった。

一度だけ、205号室のドアをノックしようとしたことがある。深夜ではなく、昼間に。誰かが中にいるなら、会ってみたいと思った。でも扉の前に立ったとき、なぜかノックできなかった。してはいけないような気がして、そのまま自分の部屋に戻った。

引越しから三ヶ月が経った昨夜のことだ。

二十二時になっても、音がしなかった。

最初は気づかなかった。締め切りが近い原稿を書いていたから。でも二十二時半になっても、二十三時になっても、廊下は静かなままだった。三ヶ月間、一度も途切れなかった音が、昨夜だけなかった。私はなぜか少しだけ、落ち着かない気持ちになった。心配、とでも言えばいいのか、自分でもよくわからない感情だった。

そのまま日付が変わって、仕事を終えて、眠った。

翌朝、郵便受けを開けると、一枚の葉書が入っていた。

宛名は私の名前ではなく、「204号室のご入居の方へ」と書かれていた。封はなく、葉書がそのまま入っていた。

お引越しのご挨拶が大変遅くなり、申し訳ありません。お仕事の邪魔になることもあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
 205号室 田中

右下に小さな字で日付が書かれていた。

一年と七ヶ月前だった。

私が越してくるより、ずっと前の日付だった。

葉書を持ったまま、しばらく動けなかった。この葉書は、ずっと郵便受けの中にあったのか。それとも昨夜、初めてここに届いたのか。

わからない。

今日の朝、管理会社に問い合わせようと思っている。ただ、電話しながら、私はどこかで答えを聞くのが怖い気もしている。

今夜も、二十二時になった。

廊下から、足音が聞こえた。

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