
毎週水曜日は、会社帰りにスーパーへ寄る決まりにしている。
近所の「フレッシュマート坂本」は、夜の七時を過ぎると少し空いてくる。鮮魚コーナーには半額シールが貼られ始め、冷凍食品コーナーは蛍光灯の青白い光だけが静かに漂っている。他の客はほとんどいない。その静けさが、私はわりと好きだった。
仕事終わりに少し疲れていても、あのコーナーを通り抜けると不思議と気持ちが落ち着く。冷気が顔に当たって、頭がすっきりする。週の真ん中の、小さな楽しみだった。いつからかそれが習慣になっていた。
そのおばさんに気づいたのは、四月の終わりのことだった。
冷凍コーナーの一番奥、お弁当用の冷凍おかずが並ぶ棚の前に、その人はいた。七十代ぐらいだろうか。紺色のコートを着て、スーパーの買い物かごを腕にかけていた。
じっと棚を眺めながら、動かなかった。
最初は特に気にしなかった。お年寄りが商品を選んでいるのだろうと思って、通り過ぎた。
※
翌週の水曜日、また同じ場所に同じ人がいた。
同じ紺のコートで、同じかごを腕にかけて、同じ棚の前に立っていた。今度は少し気になって、隣の棚に手を伸ばしながら横目で見た。おばさんの視線の先には、冷凍の鶏肉野菜炒めが並んでいた。「彩り野菜と鶏肉の旨塩炒め」という商品で、私も何度か買ったことがある百円ちょっとの惣菜だ。
でもおばさんは、それを手に取らなかった。
ただ眺めていた。
袋を持ち上げることも、他の商品に視線を移すこともせず、ただそこに立っていた。私が三つ先の棚まで回ってきた頃も、まだ同じ姿勢でいた。時間にして、五分以上はそこにいたと思う。
何を決めかねているのか、それとも何か別のことを考えているのか、私にはわからなかった。とにかくその静止した姿が、少し頭に残った。
※
三週間目も、おばさんはそこにいた。
今度こそ声をかけようと思って、近づいた。「これ、おいしいですよ」と後ろから話しかけると、おばさんはびくっと肩を震わせて振り向いた。
細面の、目の細いおばあさんだった。顔に深い皺があったが、整った顔立ちをしていた。
口を開きかけたが、声は出なかった。かごを胸に抱え直して、そのまま小走りに冷凍コーナーを立ち去った。
足音が静かだった、とその後に気がついた。冷凍コーナーの床はビニール貼りで、歩くとキュキュという音がする。他の客が通れば必ずその音が聞こえるのに、おばさんが歩き去るとき、何の音もしなかった。三週間、いつも同じ服装だったことにも、その帰り道に気がついた。
振り返ってかごの中が見えた。
何も入っていなかった。
※
翌週、私はまた冷凍コーナーへ行った。
「彩り野菜と鶏肉の旨塩炒め」を探したが、棚に見当たらない。売り切れかと思って、パートらしき店員さんに聞いた。
「あの商品、入ってないですかね。鶏肉と野菜の炒め物で、旨塩味のやつです。何度か買ってるんですけど」
店員さんは首をかしげた。
「その商品、うちでは取り扱ってないと思いますが……」
「でも先週も並んでましたよ」と言うと、店員さんは少し困った顔で奥へ引っ込んだ。しばらくして戻ってきて、「メーカーにも確認したんですが、そういう商品名は出てこなかったそうです。他の店舗と混同されてるかもしれないですね」と言った。
そんなはずはなかった。私は毎週水曜日、ここでしか買い物をしない。その棚から商品を手にとって、自分でレジを通して、家で食べた。はっきり覚えている。
でも、その商品はどこにも存在しなかった。
※
それからも毎週水曜日に冷凍コーナーへ行っている。
おばさんの姿は、それからは見ていない。
ただ、一つ気になることがある。冷凍おかずの棚の一角に、わずかに空いているスペースがある。他の商品がぎっしり並んでいるのに、そこだけ何も置かれていない。あのおばさんが立っていた、ちょうどその場所だ。
なぜそこだけ空けているのかを、ある日別の店員さんに聞いてみた。
「あー、あそこね」と言って、少し間を置いた。
「なんか商品を置いても、翌朝には床に落ちてるんですよ。毎回。誰かがわざとやってるのかと思ってカメラ確認したら、何も映ってなくて。だからもう諦めて空けてます」
笑って言った。私は笑えなかった。
※
今でも毎週水曜日、その棚の前を通る。
あのスペースは今もある。
私はそこを通るたびに、あのおばさんのことを思う。あの人は何を買おうとしていたのか。それとも、何かを待っていたのか。
後日、「彩り野菜と鶏肉の旨塩炒め」という商品をもう一度調べてみた。どのメーカーのサイトにも、そういう商品は見つからなかった。
それなのに、私はあの商品の味を、今でも確かに覚えている。薄い塩味で、野菜がシャキシャキしていた。レンジで二分温めると、蒸気が甘かった。
あれは、なんだったんだろう。