かなり昔のことになります。
当時、小学低学年だった弟は、父に連れられて夜釣りに行きました。
切り立つような崖の先端近くに父と並んで座り、暗い海面に釣り糸を垂れていた弟は、
段々と辺りが白く明るくなって来たことに気が付きました。
「何だ、もう朝になったんだ」
夜の海のあまりの暗さに、少々不気味さを感じていた弟はほっとしました。
ふと正面を見ると、今まで何もなかった空間に、一本の道があることに弟は気付きました。
道は弟の足元から優しい光の中へと真っ直ぐに続いています。
まるで道が弟を誘っているようでした。
弟は立ち上がり、何歩か前に踏み出しました。
すると突然、腕を掴まれ、凄い勢いで後ろに引き戻されました。同時に父の声がします。
「何をやっているんだ!」
我に返った弟が辺りを見回して見ると、周囲には夜の闇。眼下には黒い海面が見えます。
あの道はもうどこにもありませんでした。
弟は転落まであと一歩というところだったそうです。
自分が見たものについて弟が父に話すと、父は妙に納得したように「そうか」と言いました。
弟は今だにその時の道のことを覚えていて、
「幻覚だったかも知れないけど、本当に歩きたくなるような道だったんだ」
と言っています。