夏が近くなると思い出すことがある。
中学生の時、ある夏の日のことだ。俺は不思議な体験をした。
夏休みを迎えて、同世代の多くは友達と遊んだり宿題をやったりしていただろう。
俺はと言うと、サッカー部の試合や練習で、頻繁に色んな場所へ遠征していた。
サッカーの方はお世辞にも上手いとは言えず、多忙な練習にやる気も薄れかけていた。
そんな折、俺が住むC県の中心部より2時間ほど離れた中学校に遠征することになった。
当日は快晴。空模様とは裏腹に、俺の気持ちは長い移動時間と逃げ出したいような気分で曇っていた。
しかし、そこはどこか懐かしい田舎町で、美しい自然と田んぼ、そして照りつける太陽とセミの声が暑いながらも俺を癒していた。
※
いつも通り試合を終え、いくつかのグループに別れて帰宅しようとしていた。
そこで、俺は顧問の先生に呼び出された。
試合内容の不甲斐なさと練習態度が悪いと怒られた。
俺はこの顧問に嫌われていたので、いつものように俺以外のメンバーにお咎めはなかった。
10分ほど聞き流して帰ろうとすると、他の人は既に帰ってしまったようだった。
俺はすっきりしない気持ちで荷物を担いだ。
見知らぬ町で、考え事をしながら歩いていた。
気付いた時には、来た時には通らなかった場所にいた。迷ってしまったのだ。
人は見かけず、家に訪ねるのも気が進まなかった。
少し引き返すと、赤い鳥居が見えた。
先ほどは考え事をしていて気付かなかったが、小さな傾斜を伝うようにして階段があり、そこには鳥居がかかっている。
ここは神社であろう。
俺はこの神社に人がいるような気がして、鳥居をくぐり階段を昇って行った。
※
管理の行き届いたとは言い難い境内の真ん中に、古びた本堂があるだけだった。
その本堂に前に、人が立っているのが見えた。
セーラー服に、お下げが二つ。
神社という場に似つかわしいのか、そうでないのかよく分からない風貌の少女の後ろ姿。
少なくとも時代錯誤な格好ではあったが、田舎町ということで大きな違和感はなかった。
俺は駅までの道を聞くことにした。
「あの…すみません。道に迷ってしまったんですが、駅はどっちですか?」
少女は驚いたように振り返った。
夏なのに肌は白く、大きな瞳で、綺麗な顔立ちをしていた。
そして、彼女はか細い声でこう言った。
「駅の場所は…忘れました」
町の人間が、駅の場所を知らないことがあるだろうか。
「この町の方ですよね? 誰かわかる方いませんか?」
彼女は少し考えるようにして言った。
「みんなわかると思いますけど…私はここから出られないので」
俺は彼女が何を言っているのかいまいち理解できなかった。
出られない? 神社からだろうか。あるいはこの町からだろうか。
「どこから出られないんですか?」
彼女は「ここ」という風に地面を指した。
俺は合点しないながらも立ち去ることにした。
ここに長居する必要はない。
「そうですか。他の人に聞くことにします」
しかし、彼女は焦ったようにこう言った。
「待ってください。少しお時間いただけませんか」
急に態度を変えられて、俺は少し驚いた。
しかし、夏の田舎町、少し不思議で綺麗な少女。
何かを期待するには十分だった。
ついでに良い機会だと、堅苦しい敬語はやめることにした。
「話すなら涼しいところがいいよね」
この場所自体、木々のお陰で避暑地ではあるが、俺は彼女を先導するように本堂の屋根が陰になる階段に腰かけた。
軽く自己紹介をした。彼女の名前は由美というそうだ。
そして、彼女は話し始めた。
「私…ここから出られないと言いましたよね? この場所から…。
私には、この場所にどういった意味があるかはわからないんです。
ただ、不思議な力のようなもので縛り付けられているのです」
「驚かないで聞いていただけますか?どうか、逃げないで…
私は…この場所で死んでいるのです」
不思議だった。
彼女に対する違和感は、格好や雰囲気からは感じられるものの、死者のような不気味さはなかったから。
まるで今も呼吸していて、生きているように見えるから。
俺は思わず口にした。
「死んでいる? 君が?」
未だ半信半疑であった。
「はい。正確には、殺されました…」
悲しそうな彼女の表情。年齢は、俺と同じか、少し上くらいだろうか。
その無念さを思えば、こうして現世に残ってしまう気持ちも解らなくはない。
聞けば、当時、Aという年上の男にこの神社に呼び出され、交際を迫られたそうだ。
しかし、医学の道に進みたかった彼女にとって、年上の男など不要だったという。
そして彼女は断り、逃げるように階段を降りようとした。
その瞬間、背中を押される感覚があったそうだ。
一度心臓がドクン、と強く打ち、転げ落ちて頭を強打し強烈な痛みを感じた次の瞬間には、霊体となってこの場所にいたという。
参拝にくる人々の話によれば、どうやら事故として扱われたということが解ったそうだ。
「私を殺したあの男が普通に生きていることが許せない。私の夢も希望も人生も奪ったAが…」
俺は言葉を失った。
そして、彼女は驚くべきことを申し出た。
「私に、あなたの身体を貸してくれませんか」
俺はドキッとした。思春期の男に、少女のこの言葉は刺激的だった。
しかしすぐに、彼女は霊体であることを思い出した。俺の身体で、何をしようというのか。
「あなたの身体を借りれば、ここから出られるかもしれない」
借りる? 憑依しようというのだろうか。
「それで…俺は無事なのかな? 試したことは?」
「ありません。でも、私を見ることができたのはあなたが初めてです。
あなたになら憑依できるような気がするんです」
彼女の表情は深刻であった。
今までこの場所に閉じ込められ、活路を見いだせず死してなお辛かったのだろう。
俺は疑問をぶつけた。
「それで、外に出られたら復讐するつもりかい? 俺の姿で人殺しは困るんだけど…」
「いえ、あの男の前で一言私の名前を出せればいいんです。私を忘れさせないために。
できれば…そこも協力してほしいです」
俺は覚悟を決めた。
「わかった。いいよ、憑依しても。でも、もし何かあったらお祓いしてもらうからね」
彼女は、ほっとした表情を見せた。
「本当にありがとうございます。あなたに出会えて本当によかった…」
本当は怖かった。自分が自分でなくなるかもしれない。
最悪、死んでしまうかもしれない。恐怖を振り払うように、強く言った。
「さあ、いつでも来てくれ!」
「…行きますね」
彼女が近づいて来る。
俺に抱きつくような格好になる。恐怖で、ドキドキする暇もなかった。
強い風が吹いたような感覚の中、一瞬で彼女が俺に入ってきた。
目の前が白く曇る。一瞬、意識が飛びかけた。
(やりました!入れましたよ!大丈夫ですか?)
頭の中に響く声は彼女のものだ。
「…うん、大丈夫そう…かな」
少し頭がふらふらするのと、軽い吐き気がしていた。
(あとは、ここから出られるかですね)
彼女は、少し興奮気味だった。
「行ってみよう」
身体に鞭を打って、階段を降りて行く。彼女が亡くなった場所。彼女の未来が潰えた場所。
顔は見えないし嗚咽も聞こえないけど、彼女はきっと泣いていただろう。
目の前には古びた赤い鳥居。足を踏み出す。
その時、身体に電気が流れるような感覚が走った。痛くはない。ただ、前に進めなくなった。
でも、彼女も俺も諦めなかった。
(私にはやることがあるの…!)
「頼むよ神様、彼女の思いをくんでくれ!」
なぜここまで彼女を想っているのか、自分でも解らなかった。
憑依すると、感情まで共有してしまうのだろうか?
※
気が付くと鳥居の外にいた。
人はいなかった。来たときと同じように、セミの声だけが聞こえてくる。
俺は、彼女の指示通り歩き出した。
「Aの家、知ってるの?」
(ええ、今は住んでいるかわからないけど)
「そもそも、それって何年前なの?」
(とても昔。具体的にはわからない)
「引っ越してたらどうする?」
(…どうしようかな…)
もし彼女に「一緒に探して」と言われたら、頷いてしまっていたかもしれない。
「…とりあえず、行ってみよう」
そして、Aの家に着いた。表札を見てみるとAの名字と同じである。
「さぁ、行ってみるか」
(お願いします)
何度か扉を叩くと、60代くらいの女性が出てきた。
「すみません、Aさんはいらっしゃいますか」
「どちら様?」
女性は怪訝な顔を見せた。確かに、この年代の人間が訪問するのも珍しいだろう。
「えっと…Aさんの同級生の孫です」
咄嗟に誤魔化した。
Aが女性と同じ位の年齢でなければ、孫だと変かもしれない。
しかし、女性は疑いもせず、Aを呼びに行った。
すぐに、Aが現れた。見た目は珍しくもない老いた男性。
「えっーと、僕の同級生の孫? 誰かな?」
「…由美さんです。覚えてらっしゃいますか?」
(ありがとう…)
Aは少し考え、思い出したように震えはじめた。
「ばかな!あいつは死んだはずだ!」
由美はこの男に殺されたんだと改めて思うと、許せなかった。
「思い出しましたか。あなたが殺したんですよ!」
Aは開き直っていた。
「僕は殺してない!それが真実であったとしても、もう時効だ!」
それが嘘であることは、一目瞭然だった。
「法が許しても、彼女は許してませんよ。今までずっとあなたを恨んでましたよ。
…由美、何か言いたいことはあるかい?」
(死ぬまで、私を殺したことを背負って。悪いことが起きる度に私を思い出して)
俺は伝えた。呆然と立ち尽くすAを尻目に俺たちは去った。
「こんなんで良かったのかよ…霊体ならもっと方法あるんじゃないの?」
(いいの。あったとしても。もう十分よ)
彼女の口調は穏やかだった。まるで、全てを成し終えたようだった。
それからは、ずいぶん昔の話だったんだなぁ、などと雑談をしていた
(あの…私…)
「ん、どうしたの?」
(私、成仏っていうのだと思うんですけど…できそうなんです)
「そ、そっか。良かったじゃん」
少し動揺した。
出会ってまだ数時間。こんなにも打ち解けて仲良くなれたのに、少し残念だった。
「あのさ、由美が俺と同じ年代に生きていたらなって思うよ。
そしたらすごく楽しかったと思う」
これが俺の本心だった。
死んだ人間に対して愚かかもしれなかったが、俺は彼女に惹かれていたのかもしれない。
(…私も同じ気持ちですよ。
私がこれからどうなるかはわかりません。もしかしたら消えてしまうかもしれない。でも…)
由美は少し考えてからこう口にした。
(もし、私があなたの前に現れることができるのなら、必ず会いに行きます)
「うん、約束だよ…」
別れの時が迫っていた。
いつのまにか、赤い夕日に照らされる町。ひぐらしが鳴き始めていた。
「俺、帰らなきゃ」
(はい…私も行きますね)
「ああ、さよなら」
(さようなら、本当に感謝しています。そして…)
(絶対に忘れません)
スッと、身体が分身するような感覚に襲われる。
憑依したときと同じように目の前が白くなった。
そして、由美はいなくなった。
※
それから、何度も夏が過ぎて行った。その度に思い出しながら。
去年、俺には娘ができた。
色白の肌と大きな瞳、そして綺麗な顔立ち。
名前は由生美。
夏に生まれたその子は、俺が昔出会った少女によく似ている。