8年前の夏、北陸方面の岩峰に登った時の話。
本格登山ではなくロープウエーを使った軟弱登山だった。
本当は麓から登りたかったのだが、休みの関係でどうしようも無かった。
5時間ほど稜線を歩き、山小屋で一泊して帰る予定だった。
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有名な山だと人出で賑わっている時期だけど、ここは予想通りそんなに人が居らず、10時のロープウエイにも数人しか乗っていなかった。
山頂駅から少し歩いて稜線に出ると、後はずっと岩場で、前方に登山者の姿がちらほら見えた。
天気は晴れの予報で、この時は実際、日差しが眩しいくらいだった。
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前の二人連れが大岩の上に立った時に、逆光で黒く見えたのだが、何か違和感を覚えた。
普通に足があるのだが、上半身に手が沢山付いているように思ったんだ。
変な例えだが、上半身に蛸を被ったような感じ。
目を凝らしてもう一度見ると、その時は普通だったので、ウェアの関係でそう見えたのだろうと思った。
それでも気になったので、足を早めて進んで行った。
ここは稜線の縦走で高低差は殆ど無いから、スタミナはあまり使わない。
5分ほどで前の二人連れがはっきり見えて来た。
まだ60歳手前くらいの男女で、恐らく夫婦だろうと思った。
お揃いのウィンドブレーカーにザック姿で、さっきのは何かの見間違いだろうと思った。
それにしても、この歳で先のクサリ場を登れるのだろうかと少し心配になった。きっと手助けし合いながら登って行くのだろう。
追い付いてから、脇に逸れて
「こんにちは、お先します」
と声を掛けて追い越した。
奥さんらしい方が、
「ああ、どうぞ」
と言ったが、ご主人は黙っていたな。
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その時、雨が落ちて来た。暫く日は出ていたのだが、急に影って暗くなった。
滑りやすくなるので気を付けながら進み、クサリ場に入った。
全体としては中学生なら登れる程度なのだが、何ヶ所か垂直に近いところがあり、ナイフリッジだから横に落ちるとそのまま滑落してしまう。
慎重に、慎重に登って連峰の一つのピークに着いた。
本当ならここで昼飯にする予定だったが、雨が降っていて食べる気にならない。
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写真も上手くは撮れないだろうし、先を急ごうとした。
辺りを見回すと、さっきの夫婦が50メートル以上、下の方に居て、ちょうどクサリ場に取り付いているところだったが、ご主人の方が10メートルくらい遅れていた。
『ああ、待って手助けしてやれば良いのに…』と思って見ていた。
すると、奥さんの方が中途の岩の上に立った時、嘘だと思われそうだが、奥さんの両手がぐーんと伸びたんだ。
見間違いなのかもしれないけど、10メートル近く伸びて、岩の上に体を起こしたご主人を突き飛ばした。
『あっ』と思った。ご主人はゆっくりと横に滑って転がり、稜線の下まで落ちて見えなくなった。
慌てて戻った。岩の上に座り込んでいる奥さんに、
「ご主人、落ちましたよね」
と叫んだが、返事が無い。
そこまで降りて唖然とした。足を抱えて体育座りをしている奥さんの顔が、登山帽の下でニヤニヤ笑っていたのだ。
それで俺に、
「見てられましたよねえ。主人はあんなに離れたところから一人で落ちたんですよね」
そう言って、ご主人が落ちた辺りの岩を指さした。
俺は絶句しながらも、そこまで降りて右の谷を見たが、笹の斜面にご主人の姿は無かった。
何とか笹の茎を掴みながらギリギリまで降りたが、岩壁の下は見えなかった。
あそこから落ちたのなら、間違い無く助からないと思った。
それで奥さんの所まで戻り、腕を取って
「まず山小屋まで行きましょう」
と言ったが、立ち上がろうとしない。
相変わらずにたにた笑いながら、
「主人とは結婚25周年なんですよ、ええ、ええ」
と言った。
「雨がもっとひどくなるかもしれません。ご主人は助けられそうもないです。山小屋まで一旦行きましょう」
そう言っても動こうとしない。
ここは携帯も圏外だし、どうしようかと迷っていたら、後ろから若い三人組の姿が見えて来たので、事情を話し奥さんを任せて俺一人で山小屋まで急いだ。
さっきの滑落を見ているため、あまり足が進まなかった。
それでも何とか辿り着いて、管理人に滑落のことを話し、管理人はすぐに山岳救助隊に連絡した。
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すっかり暗くなってから、三人組が奥さんを連れて小屋に着いた。
救助隊は出ているようだが、距離があり過ぎてこの山小屋は捜索のベースにしないとのことだった。
山小屋は混んでおらず、奥さんとは別部屋で、訪ねて行って話をすることも出来たが、さっきの出来事を思い返すと怖くなってそうしなかった。
三人組が色々世話を焼いていたようだ。
※
翌朝、警察が来て事情を聞かれたが、腕が伸びて突き飛ばしたように見えたことは言わなかった。
奥さんとはかなり離れた岩から落ちたとしか。
ご主人が亡くなったというのは2日後、東京に帰って来てから判った。